ドライヤーで涙は乾かぬ
かねてよりやってみたかったことの一つである「カフェで洋書を読む」ことに挑戦しようとしていた。
それまでに読んだ英語の本といえば初心者向けに語彙レベルを落とした赤毛のアンで、それもkindle。アンは最高だったけど、電子書籍は表紙があるわけではないから、カフェでどや顔はできなかった。
幾年か前にノーベル賞を受賞した作家の名前が日本人ぽいことを思い出した。「カズオイシグロ」。なんとなしにメルカリで検索をかけたら
「Never Let Me Go(わたしを離さないで)」という小説がたくさん現れた。忘れた頃に届いた本は幸運にも新品さながらで、早速バッグにしまい込んだ。表紙はかっこいいとは思えなかった。
大きなテーブルの真ん中に席をとって、周りの人の目につくような角度で表紙を立てながら最初のページを開く。達成感とは裏腹にページをめくる手の進みはおそい。まだまだ見知らぬ文字が多かった。
生きている英語はこうも違うものなのかと、深く息をついた。わずかな余白に細々と分からない単語や句の意味を書きながら読み進める。
結局1チャプターを3回繰り返し読み込んだ。こんなに進まない読書はない。だけどものぐさな類の自分でも、訳がわからないくらいの集中力を発揮していた。読むごとに深度が増した。
最初はカフェで読んでいたが、いろんなところに持ち出して読むようになった。公園のベンチで読んでいた時に、脛をせり上がって、ページを横断する夏の蟻。時間を忘れて読んでいたら、周辺の人たちがいなくなって公園全体に霧がかかってて怖くなったこと。にわか雨に降られてリュックにいれてた本がびしょびしょになってしまって、すがる思いでドライヤーを当て続けた。思えば、この蟻も、霧も、にわか雨もイシグロの小説の中の出来事のようだった。
小説の中盤、キャシーとトミーがあるカセットテープを探す。彼らには人知れず、悲しい運命がある。定められた彼らのレールの上で、あの時間だけ、静かでただ楽しいことに満たされている。キャシーは陽の光が差し込む埃っぽい中古品店の片隅で、すぐにテープをみつける。それは彼女がずっと待ち望んでいたものだったはずなのに、すぐにはトミーに言わない。言ったら、この時間が溶けてしまうのを知っているから。あそこでキャシーは、「時間を引き延ばそう」としている。イシグロの筆跡も同様に、ただキャシーの心の動きを描写するだけで余計なことはしない。Norfolkにいる普通の若者として、いっとき振舞っている彼らをただみつめている。その視線はずっとあたたかい。
「わたしを離さないで」ということばの前にある素直な気持ちは「もっと一緒にいたい」だ。
「To Lorna and Naomi」。本の表紙をめくるとこんな献辞があった。イシグロの奥さんと娘さんの名前。試しに手元にある他の何冊かのイシグロの本をみてみたら、この著者は結構そのようなものを書く人の様で、それらは両親や詩人、出版エージェントの人に捧げられていた。だけど「To」という前置詞が使われていた献辞はこの本だけだった。
物語も終盤、何度心を動かされただろうか。そのころにはイシグロの文体にも慣れた。あと1チャプターで終わる。それでもキャシーと一緒にページを進めなければならない。一番好きな場所で読み終えようと、わざわざ電車に乗ってでかけた先は好きなカフェで、しかもその日は一番好きな席が空いていた。
本を閉じて、表紙を見る。コーヒーの蒸気を目にあてる。一体なんなんだろうと思っていたこの表紙。ちゃんとみたことはなかったが、女の子が踊ってるみたいで、どや顔するにはかわいすぎる。
それが11歳のキャシーが想像の赤ちゃんを抱きかかえて踊る、あのシーンと合致したとき、自分はむせび泣いてた。カフェで。
この数ヶ月、バッグには常にNever Let Me Goが入っていた。本をひらけばキャシーたちがいて、彼らと時をすごしてきた。キャシーは振り返ってレールに戻っていく。
終わるから愛おしい、それを誰もが知っている。それでも「もっと一緒にいたい」と思う。知らぬ間にこの本がそんな存在になっていた。この本に出会えて幸せだった。
読了しても喪失感は何日か続いた。すぐにThe Remains of the Day(日の名残り)を買った。
