心が動く、発電する身体(3)
2025年11月12日、楢葉町へ。今回の旅で気づいたことは、心が動いた瞬間にすっとカメラを構え、それを撮って残すことが自然とできるようになってきたということだ。この記事のヘッダー画像は、今回の旅でいちばん心が動いた瞬間だったかもしれない。3人の顔を見てなんだか嬉しかったので写真にした。

頭でなにかを考えているとき、体はほとんど止まっているのかもしれない。人と話しているとき、体はほとんどリズムに乗っているようだ。

人と会って、場が立ち上がる。そこに、確かに自分がいる。場がフィードバックをぼくに与える。それが自分を確認する唯一の手段だ。あなたの目がぼくを見る。心が射抜かれる。ぼくはそのとき、光のつぶになる。

あなたがこちらを見ていない角度から、あなたを一方的に見るということは、卑怯なことなのかもしれないと、星さんの話を聞いて気づいた。人にカメラを向けるのは怖い。それでも人の正面にまわって立つことを、心なしか意識し始めたような気がする。

物質が、波でなく物体かのように振る舞っているそのあいだは、ぼくはそれを確かに感じることができる。でも、そんな瞬間は瞬間でしかなく、つまり地球の歴史のダイナミズムのなかでは、ぼくたちはあまりにも量子的な邂逅をするに限られる。

愛が電気や熱を持っていることを、確かに感じ始めている。それは草木や波しぶきからも、コンクリートやプラスチックからも観測できる。それはたとえばチラシを貼らせてもらったガラス。

町が人の手でつくられる。人の仕事で。つまり人々のエネルギーで。人はエネルギーを、どこから生成するのだろう。

誰かがのこしたことばかもしれない。

食べ物かもしれない。

ひといきれかもしれない。

ドヤ顔かもしれない。

笑顔かもしれない。
神保治暉
