【小説】好きに生きろ!
あらすじ
銀行員の不正を調べる部署で働く黒川。彼女は上司の五木次長から、支店長のセクハラ調査に任命される。そこは元彼の働く支店だった。調査をする中で、元彼が結婚予定で、今の彼女が妊娠していることを知る。傷心のあまりに五木次長を呼び出して酒を飲むが、記憶をなくし、気が付いたらホテルにいて……。予想のつかない展開が相次ぐ、令和を駆け抜けるアラサー女性の、お仕事恋愛小説。
まえがき
この作品はフィクションであり、誰にも捧げられない
一
元彼がゴミみたいな文章を書くWebライターに奪われてから、一か月が経った。八菱銀行丸の内本部から見える空は、どんよりと曇っている。あのクソ女なら「空も私も、泣いている」とか、うすら寒い文を書くのだろう。本を読んでない者の文章なんてすぐに分かる。そもそも都市全体が悲鳴が上げているようなこの土地で、泣くも何もないだろうに。
「黒川調査役、また事件だ」
五木次長が声をかけてきた。私は仕事と全く関係のない賃貸物件のサイトから目を話し、横のデスクに座る上司を見つめた。程よく筋肉のついた長身で、若い頃はそれなりにハンサムだったのだろう。今では肌のハリは失われ、白髪が混じり、灰色の瞳はどことなく悲し気だった。
「私、どんな顔してました?」
「今にも人を呪いそうな顔」
「違いますよ。30歳を超えたら独身寮……銀行の借上げマンションから追い出されるから物件を探していたんですけど、どこも高くてイラついていただけです」
「君は本当に怒りのエネルギーがすごいよな」
彼は「それを少しでも仕事に注いでくれればいいんだけど」と呟きながら私に数枚の紙をよこしてきた。表紙にはご丁寧にも「八菱銀行 法人リテール・リスク統括部 社外秘」と印鑑が押されていた。お上からはペーパーレスが推進されているが、彼を始めとする昭和の生き残りには無縁のようだ。
「支店長のセクハラ容疑ですか?」
「あぁ。新入行員の女性から通報があった。これの調査に行ってくれ」
私は一枚目に書かれた通報内容に目を通した。どうやら被害者の女性は、支店長に出張へ帯同してもらった際、移動中の新幹線で手を握られたようだ。
「ははぁ。手を握られたくらいで初心ですね。テレビでキスシーンが流れたらチャンネルを変えるような、厳格な家庭で育ったんでしょうね」
「その先を読んでからも、今みたいに鼻で笑えるか?」
二枚目に目を通すふりをしていると、その内容よりも店の名前に目がいった。
「げ、この店って」
「何か不都合があるのか?」
人生なんて不都合ばかりだ。今までの人生で都合が悪くなかったことなんて、片手で数えるほどしかない。それでもなんとか三十年を生き延びた。それが私という人間だった。
「いえ、何も。そんな急かすような目で見ないで下さいよ、今から行きます」
その店は、元彼の働く恵比寿支店だった。
二
山手線に乗って数駅が過ぎた頃、私は五木次長に連絡をしようと思い立った。オフィスからの出かけ際に「俺の電話番号を教えておく」と、紙に書かれたLINEのIDを渡されたのだった。「何のためにですか?」と聞くと「念のために」と返されていた。
念のために? 別におばけ退治に行くわけじゃないだろうに。そう思いながらスマホを開き、五木次長の友達登録をした。アイコンは未設定のままで、私はどこか心の中で安心していた。彼にはアメリカかヨーロッパあたりで撮った写真を設定するような愚かさもなかったし、若かりし頃のスポーツをしていた写真を設定するような痛々しさもなかったからだ。
しかし、どんなメッセージを送れば良いのだろう。彼とプライベートのやり取りなんてしたことがなかった。『黒川礼子です』ではかたすぎるが、スタンプではくだけすぎている。迷っているまま、恵比寿駅に着いてしまった。かつては耳にする度に胸を躍らせていた発車メロディーも、今では忌々しい音でしかなかった。
取引先課のフロアに足を踏み入れると、元彼はぎょっとして顔を上げた。『元カノが急に俺の職場に尋ねてきたwww』というネタをライターの女に提供して、面白おかしくWebに書かれるのだろうか。それがあの女の懐を潤すことに嫌悪感を覚えつつ、しかし彼しか知り合いがいないので、真っすぐに彼のデスクへ向かった。
「久しぶりだね、水瀬」
「く、黒川調査役もお変わりなさそうで何よりです」
変わるも何も、一ヶ月しか経っていない。失恋したからと長い髪をボブにしたり、黒い髪を茶色に染めでもすれば満足なのだろうか。それとも「やっぱり別れたくない」と、泣いてすがるべきなのだろうか。このように男からモテるかわいい生き方をすれば、夜に忍び寄ってくるぞっとするような孤独を味わわずに済むのだろうか。
水瀬は私より五歳年下なので、行内で会う時は敬語だ。彼と仲を深めて、ふとしたタイミングでタメ口を聞かれると、ドキドキしていたことを思い出した。そして、また自己嫌悪に陥った。もう二度とそのような親しい口調で話しかけられることはないのだ。こうして支店長のセクハラ調査で店に来ることがなければ、口を聞くことだっておそらくなかったはずだった。
「ちょっと用があって。会議室をひとつ押さえてもらえる?」
「はい。第一会議室が五時まで開いてるので、そこ取っておきますね」
Outlookのスケジューラーで、会議室の予約をする水瀬の横顔を見つめた。相変わらず悪魔的とも言える、動物的な美しさを持ち合わせている。男らしく端正な顔立ち、銀行員にしては長い、こげ茶色の少しカールされた髪。何より彼は、二十五歳という若さを持ち合わせている。こんな逸材を、文才も教養もないがマーケティングの能力だけは長けている、フリーランスの女が見逃すはずがなかった。
三
会議室に入ると、まず違和感があった。先程まで誰かいて、その気配を慌てて消したような、取ってつけたような静寂さが残されていた。隣にいる水瀬に尋ねた。
「ここ、さっきまで誰かいた?」
「うーん、そんなはずないと思いますよ」
そうだ。全く、そういうのが分からない男だった。
「まあ取引先第一課の課長が使っていたのかもしれませんね。誰かと同じで、会議室に呼び出すのが好きな人なので」
彼はからかうように言った。目には少しだけ優しさがにじみ、懐かしさを感じているように見えた。
まだ私たちが同じ店で働いていた頃、私はよく彼を会議室に呼び出して二人きりで話をしていた。集金の不備の揉み消し、お客さんとのトラブルなど、支店長や課長の前で話せないことが多かったからだ。あの時はキスをしたり手をつないだり、行為をしたことはなかった。でも二人の間には密室がもたらす緊張感や、オンライン会議では決して得ることのできない親密さが漂っていた。
だからゴミ箱に捨てられたティッシュを見た時は、「しまった」と思った。「あの時、そんなこともできたんだ」と。
「……誰か、ここでしてたみたいだね」
「え!?」
彼の視線は私と同じところへ向いて、吐き出された欲望を捉えた。
「うわ。勇気ありますね……」
「こういうところでしたいもんなの?男って」
「僕は絶対に嫌です」
私は心のどこかで安心していた。バカ女を連れ込んで行為をしていたなんて、考えたくなかったからだ。
「ちょうど良いや。聞き込み調査してもいい?」
「何がちょうど良いのか分かりませんが、良いですよ」
私は五木次長からもらった紙をテーブルに置いた。彼は椅子に座り、それを手に取った。私も向い合せになって座った。
「え、支店長がセクハラですか。越智さんに?」
「そう。新幹線で隣の席に座った時に、手を握ってきたらしい。店でもそういう行動ってあった?」
「特には……僕、あんまり越智さんと仲良くないですし」
「彼女は誰と仲が良かったの?」
「んー、女性行員とはあんまり仲良くなかったと思いますよ。意識高い系のオンラインサロンに入っていて、そこの女性とは出かけていたみたいですが。銀行ではいつも男性、しかも高学歴の人たちと好んで一緒にいましたね」
その回答は、おおよそ予想通りだった。彼女の写真を見たが、いかにも女性から嫌われそうな女性だったのだ。小柄で、黒髪のボブで、真夜中でも電話をすれば来てくれそうな、男が好きそうな従順さを持ち合わせていた。
「ありがと、もう良いよ」
「僕もちょうど良かったんです。ひとつ言わなきゃいけないことがあって」
「何?」
彼はためらいがちに目を上げた。よく知っている目だった。幼い頃に両親が離婚して、母親と祖母によって愛情豊かに育てられた、まっすぐな目だ。
「結婚するんです。あと、もうすぐ子どもも生まれます」
私は「復縁したい」という言葉を期待していた数秒前の自分を、殴りたくなった。
四
業務が終わるとすぐに、私は駅の近くにある適当な居酒屋に入った。せまくて汚い、それでいてやけに落ち着く店だった。座ってすぐにLINEを送り絡、ビールを注文した。調査無事に終了した。元彼は結婚する。今日は金曜日だ。飲むための理由は、全て揃っていた。
「どうしたんだ、黒川調査役……」
「遅いですよ、五木次長!」
彼が到着した時、私は三杯目のビールを飲み終えて、日本酒を注文したところだった。アルコールが入った私の目に、彼はセクシーに映った。こんなことは初めてだった。酒を飲めば結婚率の低さや、少子化なんて一発で解決されるんじゃないか?
「何、飲みますか?」
「ビールで。あぁ、日本酒があるならそれに付き合おうか」
彼は手を挙げて店員に「すみません、おちょこ、もう一つください」と言った。店員は元気よく頷いて、すぐにおちょこを持ってきた。
「そんなにキツい調査だったのか?」
「あれ? 外で銀行のことを話すの、ご法度じゃなかったんですか」
「そうだけど、こんなに酔うのは初めて見るから」
私は彼に何度か「声を落として」と言われながら、調査の結果を説明した。新幹線の領収書を見たところ、支店長と女性行員の席はそもそも違う号車だった。手の繋ぎようはない。セクハラの冤罪だったのだ。
「どうしてそんな、得にならないことをするんだろうな」
「復讐らしいです。支店長が前の店で、越智さんの親友と不倫をしていたんです。親友は妊娠して、支店長と結婚するつもりだったとか」
「でも結婚しなかった」
「どうしてわかるんですか?」
「よくある話だからだよ。まったく、何て世の中だ」
彼は日本酒を一気に飲み干した。私がお酌をしようとすると制して、自分で注いだ。酒に強そうな飲み方だ。あるいは弱い自分を、アルコールで流してしまうとしているようにも見えた。
「これでもう調査は終了か。お疲れ様」
沈黙が流れ、私はふと我に返った。この人とは別に、男女の中でここにいるわけではない。プライベートでいるわけでもない。仕事同士の付き合いだ。私たちは業務以外に、語る術を持ち合わせていなかった。
「……あ、もう一つ気になることがありました」
なぜ自分でも、そんなこと言ったのか分からない。ただ、この夜を一人で過ごしたくはなかったのだろう。友達に聞いてもらうのも違う気がしたし、XやInstagramに投稿するのも癪だった。金曜日の夜をSNSと過ごすなんて、健康に悪い。彼は目だけで私を見た。
「会議室に、性行為の痕跡がありました」
その発言は、彼の口に含みかけた日本酒を逆流させてしまったらしい。ゴホゴホとむせ続ける上司を見つめる私は、少しだけ勝ち誇った笑みを浮かべていたのかもしれない。
「……どうしてそうだって分かったんだ?」
「ティッシュがゴミ箱にありました。量や質感が、明らかに不自然でした」
「だと言って、そうだとは限らないだろう」
「清掃員に聞き込みもしました。ある人物が使った後は、必ずゴミ箱にそのようなティッシュがあったそうです」
彼は呆れた表情で私を見た。今回の調査に関係ないことに首を突っ込むなと言いたいのだろう。銀行の支店には様々な不祥事がある。ほとんど呪われてると言っていいくらい、膨大な闇を抱えている店もある。それを全て調査していたら、時間がいくらあっても足りない。私たちは月極めで給料をもらっている。本部に通報があった事件のみ、調査をすればいい。
「その人物は?」
「支店長ですよ。おそらく不特定多数の女性行員としています」
「やれやれ。事件の様子が様変わりしてきたな」
「セクハラの調査じゃなくて、不倫の調査になってくるってことですね」
「業務中に性行為をするのは、一応就業規則違反だからな。また人事部に報告書を書かなきゃいけない」
吐き捨てるように言って、彼は酒を煽った。私は全て報告を終えた達成感から、同じペースで杯を乾かした。
「ちょっとペースが速すぎないか?」
「良いんです。元彼から最悪な話も聞いたし。今の彼女と結婚するって」
「おめでたい話じゃないか。それで彼には何て言ったんだ?」
「おめでとう。って言いましたよ。何か必要なものがあったら言ってね、とも」
私はおちょこに酒を注ぎ、飲み干した。アルコールは便利だ。忌々しい記憶を消毒させてくれる。
「バカみたいですよね。私に必要なのは君だけだ、って言えば良かったんでしょうか? 別れてから一日も思い出さなかった日はない、って泣いてすがるべきだったんでしょうか?」
「そんなにかわいく生きることができないだろう、黒川調査役は」
「ええ。かわいく生きるべきなのは知っていますよ。もっと周りを頼れ、ダメな自分を認めなさい、そんなメッセージばっかりです。でもそれを認めたら、三十年頑張り続けた私はどうなるんですか?」
このやり取りが、金曜日の最後の記憶だった。土曜日の朝に目を覚ました時、私はおそらく一生使うことではなかったであろう、中学生の頃に習った英語の構文を使うことになる。
「ここはどこ? どうして私はここにいるの?」
五
正確には聞いてみる必要なんてなかった。そこが明らかにラブホテルだった。
「え、どこ? 恵比寿? 渋谷?」
私はベッドの上で、天井を見つめながらつぶやいた。昨晩酒をたくさん飲んだ割には、二日酔いが軽い。ただし、全くないわけではなかった。身を起こすと、かすかに頭が痛んだ。何より私の頭を痛ませたのは、自分の格好だった。
「うそ。裸じゃん……」
どうしてそうなったのか全く覚えていない。生きている限り最も怖いことは、幽霊でも妖怪でもない。自分のしたことを何一つ覚えていないことだ。こんな格好をしているということは、誰かと行為をしていたのだろうか。
起き上がり、玄関を見た。私の靴の他に男性の靴が一足あった。私はこの部屋にいる、もう一人の存在を意識してみた。シャワー室から水温が聞こえる気がする。
服を探したが、どこにも見当たらない。ベッドサイドにパジャマが置かれていたので、私はそれを身にまとった。水の音の正体を確かめに、シャワー室へ向かうためだった。しかし、それをする必要はなかった。シャワーの音は止み、ドアが開く音がしたのだ。
私はパジャマを着ていたくせに、慌ててベッドに潜り込んだ。シャワー室から出てきたのは、腰にタオルを巻いた五木次長だった。
「おはよう」
「お、おはようございます」
これほど気まずい挨拶が今まであっただろうか。水瀬とまだ付き合っていた頃、彼がマッチングアプリをやっていたことが発覚して、喧嘩をした翌朝の「おはよう」なんて比べにものにならない。
「二日酔いは大丈夫か?」
「はい。頭が少し痛みますが、思ったよりは軽いです」
「昨晩は一晩中、トイレにこもって吐いていたからな」
それは私にとって朗報だった。私は一晩を五木次長とではなくて、便器と明かしたということだろう。では本当に、彼とは何もなかったのだろうか? 確かめたいが自分から言えず、言葉を探していると、彼は艶っぽい笑みを浮かべた。私は驚いた。いつもくたびれた様子の彼が、こんなセクシーな顔をするとは思っていなかったからだ。
「まあ、そういうことにしといてやる」
「しといてやる、って……あの、次長。もし私が何か失礼なことをしていたら、すみませんでした」
「何も覚えてないのか?」
「ええ。あの、男女の一線は超えていたのでしょうか」
「想像に任せる。ひとまず、何か朝食でも食べるか?」
今日の彼は、数秒起きに私の意表をつく発言をしてくる。彼はこの後も、土曜日を私と共に過ごすつもりらしい。ということは、私はあまり失礼なことをしていなかったのかもしれない。私は昨晩の記憶を、便器と過ごしたことにしておいた。でなければ彼の、こんな親密そうな笑みは見ることはできなかっただろうから。
「あのそういえば私の服がないんですが、どこにあるんでしょうか」
「玄関だよ」
「どうして玄関にあるんですか?」
「部屋に入って、すぐに脱ぎ始めたからだよ」
私の顔が真っ青になる様子を見て、彼は愉快そうな笑みを浮かべた。やはり昨晩に起きたことは、私は知らないでいた方が良さそうだ。
六
朝食はホテルのベランダで食べることになった。今はまだ朝の7時で店も開いてなさそうだから、という五木次長の判断だった。スタバとかおしゃれなカフェは開いているが、そういうところは彼の好みではないらしい。
ラブホテルに珍しく、部屋にはベランダがあった。改めて部屋を見渡してみると、広くてきれいだった。まるでワンルームマンションのようだ。私が住んでいる銀行の独身寮よりも、よほど居心地が良さそうだった。ルームサービスで彼はおにぎりと緑茶を、私はパンケーキとコーヒーを頼んだ。なんだかちぐはぐだなと思ったのが、そもそもここにいる私たち自体もちぐはぐなのだ。「酒を飲むか?」と彼は聞いてきた。
「いいえ、結構です」
「土曜日は朝から飲むタイプだと思ってたんだがね」
「そんなにしょっちゅう飲んでいたら、あんな酔い方はしませんよ」
ベランダには露天風呂があり、私たちはその上に蓋をして、即席のテーブルを作った。立って食べるなんて行儀が悪いが、あいにく椅子は一脚しかなかった。料理が来るのを待っている間私たちはベランダから外を眺めた。雑居ビルが所狭しと並んでいる。建物はどれも無個性で、東京のどこかではあるはずだが、どの町かなんてちっとも分からなかった。その建物の中の中にいる誰かは、おそらく東京で何かを成し遂げようともがいているのだろうが。
「ここどこですか?」
「六本木だよ。どちらかといったら西麻布に近いかな」
「どうしてですか? 恵比寿のホテルにすればよかったのに」
彼はやれやれと言った様子で首を振った。その仕草はセクシーで、自分でもそのことが分かっているように見えた。
「昨日のことは、どこまで覚えてるんだ?」
「恵比寿の居酒屋で飲んでいたところまでです」
「店を出た時のことは?」
「覚えていません」
インターホンが鳴った。どうやらここはホテルになる前はワンルームマンションだったのだろう。私は立って取りに行った。次長も後ろからついてきて、運ぶのを手伝ってくれた。
パンケーキは期待していなかったが、意外と美味しかった。どうやらおにぎりもそうだったようで、彼は一口食べて意外そうな顔をしてそれから、パクパクと食べ始めた。
心地強い沈黙が、二人の間に流れていた。今日は土曜日で、これから何も予定がない。次長はどうなのだろうか。これくらいの年代の人は独身だったら趣味や旅行、女漁りなど色々と忙しくしてる印象があったからだ。しかし、それを聞くと解散の合図となってしまいそうで、私は黙っておいた。代わりに先ほどの会話を続けることにした。
「昨晩は居酒屋を出た後に、何があったんですか」
「正確には居酒屋を出た時に。水瀬くんがいたんだ」
「あれ。元彼のこと、私話してましたっけ?」
「居酒屋の中で散々語られて、写真も見せられた」
どうやら彼は女性とデートをしていたらしい。2人がタクシーに乗り込むのを見て、私は「彼を尾行する」と言い出して、すぐ後ろに来たタクシーを捕まえたそうだ。
「タクシーが尾行なんてしてくれたんですか?」
「君はiPhoneの中に“iPhoneを探す”の機能を使えば、2人の跡をつけられると言っていた。で、実際にそうしたんだよ」
そうだった。私はiPhoneをよくなくすから、水瀬のiPhoneとペアリングをして、お互いに場所が分かるようにしていたのだ。別れた今も、解除し忘れていた。
「それで、ここのホテルに来たってわけですね」
「そうだよ。だから今も彼らはこのホテルにいるんじゃないか。もし彼がチェックアウトの時間とかを気にする性格なら、今頃エントランスから出てくるだろうな」
私たちの部屋はエントランスを見ろすことができた。ホテルの構造としてどうなのかと思うが、かつてマンションだったなら問題はなかったのだろう。
「チェックアウトの時間とか気にしない性格だと思いますよ。あいつ、時間にルーズだし」
私はパンケーキをコーヒーで流し込んだ。それはくたびれた私の血となり、肉となっていった。私がコーヒーの湯気を見つめていると、五木次長が声を上げた。
「それはどうかな」
彼の視線の先には、エントランスから出てくる男女の姿があった。そのうちの一人は、他でもない水瀬だった。彼がそういうタイプでも、一緒にいる女性がそういうタイプだとは限らない。私はすぐに部屋に入るべきだったんだろう。しかし、目を離せなかった。相手の女性が誰か、確認したかったからだ。
後ろ姿から、それは今の彼女であることがわかった。実際に見るのは初めてだったが、SNSを見ていたので一方的に知っていた。親近感すら覚えてもいた。
不思議なことに私は彼女のことを知れば知るほど、憎しみが消えていくのを感じていた。成功してないwebライターだったし、いずれ消えるだろうことは分かっていた。私が彼女に最も憎しみを覚えた瞬間は、彼女がこちらの存在に気付いたことだった。彼女はすぐさま水瀬に声をかけた。彼の見上げた場所には私がいて、しばらく見つめ合うかたちになった。
「やっぱり水瀬くんだよな」
五木次長の言葉を聞きながら、私の心は落ち着いていった。次長はワイシャツだから「上司とラブホの潜入調査に来た」とでも説明すればいいと考えていた。しかし水瀬のどこか悲しそうな目を見た時に、私は自分の服装がパジャマであることに気がついた。
「あ、ちょっと違うんだってば!」
私が慌ててベランダから出ようとすると、五木次長にその腕を掴まれた。
「何するんですか!」
「行ってどうするんだ」
「説明するんですよ。別にそういうことをしてたわけじゃないって」
「それで? 目を覚ませ。復縁できるわけじゃないだろう」
でも確かに、水瀬はどこか悲しそうな目をしていた。誰よりも近くで彼のことを見ていたからよく分かる。
「八方美人もいい加減にしろ。別れた彼氏になんて、どう思われてもいい。そうやって他人の視線ばかり気にして生きていたら、こんな都会では窒息死してしまう」
「いつも五木次長は正しいことを言いますね。そういうのは要らないです。私が欲しいのは『愛してる』とか『大丈夫だよ』とか、そういう言葉なんですよ。嘘でもいいから。それをくれるのは水瀬だけだったんです」
私は五木次長の腕を振りほどいた
「もう行きます。誤解を解かないと。もう一度愛してもらえるなら、なりふり構っていられません」
「どうしてそんなに、自分のことを低く見積もるんだ? 黒川さんを愛してくれる男性なんてたくさんいるぞ」
「嘘でしょう」
「嘘じゃない。俺はいつだって正しいことを言うんだろう」
私は彼を見た。漆黒の瞳からは、どんな感情も読み取れなかった。彼は真剣になると表情を失う癖があった。
「……悪い。余計なことに首を突っ込んだな」
彼は顔をそらせた。私たちはどちらともなく、帰宅の準備を始めた。私がベッドの上で服を着ている間、次長は洗面所で髭をそり、歯を磨いていた。彼は洗面所から聞いてきた。
「今日の予定は?」
「証券外務員の更新試験があるから、その勉強をするつもりでした」
「どこで?」
「自宅の近くのカフェです。着替え、終わりましたよ」
彼は洗面所から出てきて、財布から一万円札を私に渡してきた。
「じゃあ、これくらいで足りるかな。新百合ヶ丘だっけ」
タクシーで帰れということらしい。ここで私が遠慮しても、おそらくどうにかして彼はお金を払うだろう。そんな決意を秘めた目をしていた。私がお金を受け取ると「先に行っててくれ」と言われた。
「男性が部屋に一人で残ることはできる。女性は事件性があるからダメだけどな」
「随分と詳しいんですね」
「昔、ラブホを担当していたからな。このホテルも取引先だったんだ」
「女性と来たわけではなかったんですね」
「帯同したのは、黒川さんが初めてだよ」
私は黙って部屋を出た。彼が最後に言った言葉に安心感を覚えてしまい、それがとても気持ち悪かった。私は年下が好きなはずだった。あんなジジイ、好きになるわけがない。でもどうしてか、五木次長のことが頭から離れなかった。
七
タクシー代を握りしめて、私は電車で家に戻ることにした。彼と会議室でやるセックスはどんな感じだろうな、ということを考えていたかった。タクシーの運転手が話しかけてくるタイプの人間だった場合、それは叶わなくなる。電車の座席に座ると、どっと疲れが出てきた。あの夜に一体何をしていたのだろう。水瀬も彼女としていたのだろうか。
駅降りて歩いていると、愛すべき八菱銀行の女性専用マンションが見えてきた。新入行員は女子寮にぶちこまれるが、私のような三か店目の行員は借り上げマンションをあてがわれる。一人暮らしをしてもいいのだが、借上げマンションの家賃は2万円なので、こちらに決めた。
1階にはいつも管理人の婆さんがいた。婆さんは女性が男性を連れ込まないかとか、変な時間に帰ってこないかとか、そういったことをチェックしていた。私たちが銀行で働いている間は、マンションのゴミ袋を漁っていた。ペットボトルや瓶の分別ができてない住民を炙り出すためだ。分別できてないゴミは、エレベーターの近くに張り紙と共に置かれていた。その一連の流れに、彼女は人生を賭けていた。楽しそうな暮らしぶりだった。何にせよ老人に役割があるのはいいことなのだろう。何もすることがないと1日中Yourtubeを観て陰謀論者になったり、社会との繋がりを求めてエゴサをしまくった末に孫のアカウントを発見して、ぎゃあぎゃあと騒いだりしかねない。
私はおおむね婆さんとはうまくやっていた。ゴミの分別はきちんとしていたし、彼女の言う「非常識な時間帯」に帰ってくることは、店の歓送迎会をのぞいて、ほぼなかった。彼女はだいたい私が行くと笑顔で出迎えてくれた。しかしマンションのエントランスを抜けて受付を見た瞬間、私は銀行員人生で初めて思った。「借り上げマンションではなくて、賃貸に住めばよかった」と。
「おはようございます、黒川さん」
「……どうしてそこにいるの?」
婆さんが不審そうに見つめている男性、それは水瀬だった。彼が口を開こうとすると、婆さんが制した。
「はいはい、ここで喧嘩はやめとき。他の子に見られても印象が悪いやろ」
「でもここ、私の家ですよ」
「近くで話し合いしとき。カフェならなんぼでもあるやろ。知らんけど」
婆さんは私に意味ありげな視線を送った。私は彼女の意見に表向きは従うことにした。大人に反抗し続けて30年の人生を送ってきて分かったことは、人を騙そうとする奴らは置いておいて、そうではない年上の意見はだいたい正しいということだった。
「分かりました。じゃ、スタバでも行こうか。水瀬」
彼は納得がいかなさそうな顔で「はい」と言った。ここまで肯定の意を抱えていなさそうな「はい」を聞いたのは久しぶりだった。
私たちはマンションの外に出た。梅雨の晴れ間で、六月にしては珍しく、水晶のような青い空が広がっていた。しばらく歩いて、大通りに出た。婆さんの目がもう行き届いてないことを確認すると、私はタクシーを拾おうと手を挙げた。
「スタバまでタクシーで行くんですか?」
水瀬が不審そうな声を上げ、私は鼻で笑った。
「まさか。カフェなんて行くわけないでしょう」
大人の言うことはだいたい正しい。でもそんな正しい声に耳を傾け続けていたら、自分が何のために生きているか分からなくなる。どんな選択をしても、どんな結果が待っていても「これは選んだこれは自分の選んだ道だ」と思えるような人生を送りたかった。
タクシーが止まり、私は行き先をつけた。水瀬の目が大きく開かれた。そこは新百合ヶ丘でただ一つある、ラブホテルだったからだ。
八
タクシーは私達をホテルの目の前で降ろした。大通りから入る道は一方通行で、運転手は料金を負けてくれた。こういうささやかな親切に触れると一日を気持ちよく始めることができる。たとえそれが築40年を超えた、場末のラブホテルだったとしても。
「どういうつもりですか?」
車降りてまっすぐ入り口に向かう私に、水瀬の言葉が追いかけてきた。
「ここで話し合いをするんだよ」と私は言った。
「どうしてカフェじゃないんですか」
「知り合いの行員がいるかもしれない。水瀬だって聞かれたら嫌でしょう」
「へえ、ずいぶんと慎重なんですね。上司とラブホに行くくせに」
私は黙って入り口に入り、タッチパネルで部屋を選んだ。ひとつしか空いてなかった。住宅街のラブホは、需要があるのだろう。誰もが家で抱えきれない何かを持っている。それは結婚をしてもしなくても同じだ。
エレベーターに乗り、私は口を開いた。
「そっちこそ、どういうつもりなの? いきなり家に押しかけてきて。今までそんなことなかったじゃない。家まで送ってくれたことはあったけどさ」
「早速、浮気か? って思ったんです。僕と別れてからまだ数週間も経っていないのに」
「それはこっちのセリフだよ。新しい彼女を作っていたくせに」
エレベーターが到着を告げて、私たちは狭い空間から解放された。ラブホテルに珍しく、そこは廊下が吹き抜けだった。こんなに高いところから新百合ヶ丘の街を見ろしたことがなかった。緑があり、こぎれいな家々が並び、とても美しい。けれど、どこか違和感を感じざるを得なかった。「これが幸せだろう」と誰かが決めたものを押し付けられて、無理やり笑顔を作らされている。そんな違和感だった。
私が廊下からしばらく外を見ていると、水瀬は消え入りそうな声でつぶやいた。
「あれは、はめられたんですよ……もう散々でした」
「あの頭が悪そうな女に、そんな器用な真似はできないと思ったけどね。ま、その話は中で聞こうか」
私たちは鍵を開けて中に入った。中には、きちんと花が飾られていて、センスの良いおばあちゃんの家に遊びに来たような錯覚を覚えた。後ろ手に彼が鍵をかけた気配を察した瞬間。水瀬は私にキスをした。
私はそこで、ある小説の一節を思い出した。
「アルコールは恋に似ている」と彼は言った 「最初のキスは魔法のようだ。二度目で心を通わせる。そして三度目は決まりごとになる。あとはただ相手の服を脱がせるだけだ」
水瀬のキスは魔法のようだった。彼はそのようなキスをすることに長けていた。しかし、これは最初ではない。アルコールも入っていない。私は彼を突き飛ばした。
「どういうつもり?」
「誘ってきたのはそっちでしょう」
彼の言葉にはどこか、裏切りを受けたものが発するような、さみしい響きがあった。
「そんなつもりでここを選んだんじゃない。本当にカフェだと知り合いがいるから、ゆっくり喋れる場所が欲しかったんだよ」
「ふうん、そうですか」
彼は靴を脱いで部屋にあがった。そこに広がる六畳一間の狭い空間を見渡し、ベッドに仕掛けた。そこしか座れるような場所はなかったからだ。私は隣に腰をかけた。やっぱりそこしか座る場所はないように思えたからだ。しかし彼はすぐに立ち上がり、言った。
「コーヒーでも淹れましょうか」
そして鼻歌を歌いながらテレビの近くに置かれたドリップコーヒーを取り出しカップを探し始めた。テレビの横には丁寧にもポットがあり、電源が刺さっていた。
「ありがとう。水瀬が淹れてくれるコーヒー、うまいんだよね」
彼は微笑んだ。それはお世辞ではなかった。彼の手にかかると、どんなにコーヒーでも美味しくなってしまうのだ。それはもう飲めないと思っていた。それが別れるということだった。
彼は2杯分のコーヒーを淹れて、こちらに持ってきた。彼の分にはミルクも砂糖もたっぷり入っていた。罪な味だ、と横目で見つつ、私はたずねた。
「それで騙されたってどういうこと?」
「新しい彼女の話、どこまで知っていますか?」
「フリーランスでWebライターで、目黒に住んでるって事くらい。見た目はこの前のラブホテルで見たから」
「僕もそうだと思ってたんです。でも別に収入があったみたいです。よく考えたらそうなんですよ。学歴も職歴もないライターが、都心に一人で住めるわけないんです」
私は彼の話の続きを待った。よく話が読めなかったからだ
「あのホテルで彼女が声を上げた時、僕は黒川さんを見ましたよね。でも彼女は黒川さんを見ていなかった。その横にいた五木次長を見ていたんです」
「どうして? 知り合いだったとか?」
「五木次長は幼稚舎から慶応を出て、銀行に入って、赤坂のタワマンに住んでいるような人ですよ? 目黒に住むフリーのライターなんかと知り合いになると思いますか?」
私は考えたくもなかった結論を口に出した。
「五木次長がパパ活してるとか?」
「彼女によると、そのようですよ。前のおぢだ、って呟いていましたから」
「お腹の子も、五木次長の子だったとか?」
「いいえ、支店長の子です」
「は? 支店長ともシてたの?」
「はい。彼女は越智さん経由で、僕のことを知ったみたいです。支店長からは無理でも、僕から中絶費用を巻き上げることができるかもって考えたみたいですよ」
どうやら彼女がシャワーを浴びている間に、水瀬はこっそりスマホを見たらしい。エコー写真はメルカリで買ったもので、週数は嘘を付かれていましたようだ。沈黙が流れて、私はコーヒーをすすった。それが美味しいことだけが、救いだった。
「越智さんが支店長のことで、うちに通報してきたのは何で?」
「あの人は、親友……つまり僕の彼女のことで、支店長を恐喝しようとしてたみたいです。だからハニートラップもしかけたけどうまくいかず、通報したようです」
「えっと、彼女は未成年じゃないんだよね」
「僕の2歳上です、だから別に犯罪じゃありません。銀行に通報する必要はないと思いますよ」
表向きには何の問題もない。それでもそれは確かに私と、そして彼に爪跡を残していた。私は彼のことを思い出しているうちに、ある鉄則を思い出した。
「何か問題があった時に、両方がから話を聞くのが筋だよ。片方からじゃ見えない景色もある。だって彼女が嘘ついてる可能性だってあるでしょう」
「どうしてそんな、どうでもいい嘘をつくんですか?」
「人間はどうでもいい嘘をつくものだよ」
息を吸って吐くように、嘘をつくような奴もいる。フリーランスなんて嘘つきじゃないと務まらない。しかもライターなら言葉が巧みだろう、最悪だ。
「分かりました。じゃあ五木次長に話を聞きに行ってください。もし次長が本当にパパ活をしていたら……」
「していたら?」
「僕と復縁してください」
彼は再び私とキスをした。砂糖とミルクとコーヒーが混じった、甘くてほろ苦い味がした。今度は拒まなかった。私たちはそのまま体を合わせた。朝っぱらから何をしているのだろう。カフェで話し合いをしていたら、こんなことにはならなかった。やっぱりいつだって、大人は正しいのだ。
九
寮に戻った時は、昼過ぎだった。婆さんはニヤニヤしながら私に「どうだった?」と聞いてきた。私は軽く会釈をするにとどめて部屋に戻ろうと、エレベーターの手前まで行ったが、考えを変えて受付まで引き返した。ここで彼女に気に入られるのも、悪くはない。
「あれ。部屋に戻ったんとちゃうの?」
彼女は私が戻ってきたことが意外だったようだ。嬉しさを隠さず、お茶菓子を用意して、私を受付の小部屋へと招いた。
「お礼を言い忘れていたので。あそこで水瀬を引き止めておいてくれて、ありがとうございます」
「あれ、ばれてたん?」
「ああやって怒ってるふりをしないと、他の人の手前、良くないでしょう」
彼女はお茶をずずっと飲み、私にも勧めてきた。それは梅昆布茶で、しょっぱくて、あまり好きではない。健康のためらしいが、こんなまずいものを飲む方が不健康な気がする。私はどちらかというとお茶の煙を見つめながら行った。
「私は子どもができんかったからな、貴女たちのことは娘みたいに思っているんや」
「そりゃどうも」
「あんた30歳やろ? 30超えたら、ここのマンションは出て行かなあかん。寂しいわ」
私は全く寂しくなかったが、家を探さなくてはならないのは面倒だった。もしゴミを漁るような婆さんの娘に生まれていたら、さぞかし大変だっただろう。母親が2人もいるなんて勘弁だな、と思っていると、彼女の視線が私のお椀に注がれていることに気が付いた。私はお茶を飲むふりをした。しょっぱい匂いが鼻に入ってきた。
「それで、あの子とはどうなったん?」
「どうにもありませんよ。あいつ、彼女いますしね」
「じゃあ何で、黒川さんに会いに来たの?」
「彼にとって大事なものを、私が間違えて持って行ってしまったんです」
私は嘘をつくのことが苦手だった。だから、最大限にぼかしていった。
「それで彼には返したんか?」
「いいえ。返すわけないじゃないですか。まだ私が持っていますよ」
この歳になって、母親にすべてを打ち明ける娘なんているだろうか? 婆さんはよく分からないようで、考える素振りを見せた。それは苦手として、いるようだった。それもそうだ。考えることが得意なら、こんなマンションの管理人なんてやらないだろう。
私はお茶を一気に飲み干して、私は小部屋を去った。エレベーターに乗り、自分のワンルームに戻り、ジャケットを脱いで、ベッドに横になった。西麻布のラブホテルも、新百合ヶ丘のラブホテルも、シーツは新しく清潔だった。でも2週間近く洗っていない、ぐしゃぐしゃのシーツでも、自分の家のベッドにはかなわない。
夢を見た。私が幼かった頃だ。「こうしなくてはならない」の数がやたらと多い母親のもとで育って、がんじがらめになっていた。妹たちはうまく逃げていたが、私はある程度までは母親の言いなりになっていた。「本来なら」「常識的に考えて」と思いすぎて、一体何が普通なのかわからなくなっていった。私は泣いていた。だから、救いを求めた。何も縛られてられていない水瀬は輝いて見えた。私は手をみつめた。そこには水瀬の心があった。
『でもそれって本当? 自分の理想像を相手に反映しているだけじゃない?』
幼かった日の私が問いかける。あぁそうか、と私は思った。だから私はあんなにも、彼を求めていたのだ。彼の悪いところに目をつぶりながら。本当は愛されてなんかいないと知っていながら。
『あなたは愛されたいんでしょ? じゃあ、あなたを愛してくれる人を好きになった方がいいんじゃないの?』
そうだ。愛されると気持ちが悪い。「自分なんて」と思ってしまう。
『ばかね、失敗したって大丈夫。そうしたらまた、次に行けばいいから』
私は水瀬の心を、遠くに放り投げた。もうこれはいらない。私は私を許して、自分を愛せるようになったから。
目が覚めると夕方になっていた。いつもの癖でスマホを開く。よせばいいのに、インスタグラムでまた水瀬の彼女のアカウントを開いた。そこには『なんだかんだ喧嘩しちゃったけど仲直り♡』という投稿がされていた。不思議と私の心は落ち着いていた。それどころか、どこかで安心している自分もいた。失敗したって大丈夫。だから、次はもう色々と触れてもいい。私は五木次長に電話をかけた。クソジジイ、待ってろよ。
十
五木次長とは新宿で待ち合わせをした。昔ながらの喫茶店に入り、彼はコーヒーを頼んだ。「ここのメロンクリームソーダがうまいんだよ」と言い、私を見ていたずらっぽく笑った。「じゃあメロンクリームソーダ1つください」と私が言うと、彼は少し驚いた顔をした。それもそうだ。いつもの私なら絶対にブラックコーヒーを頼んでいただろう。
「それで、どうして連絡をくれたのかな」
「次長に聞きたいことがあったんです。」
「職場ではダメなのか?」
「ダメです。あのパパ活をやっていると聞いたんです」
絶妙なタイミングで店員が飲み物を持ってきた。彼女は少し私たちの会話に気になる素振りをしながらも、静かに去って行った。程よく距離を保てる店員なのだ。だからこの新宿という魑魅魍魎が集まる街でも正気を保っていられるのだろう。大阪のババアならきっと首を突っ込んで、翌日には淀川に浮かんでいるに違いない。
私は経緯を説明した。水瀬と一緒にいた女性が、五木次長とパパ活をしていたと話していたこと。それを水瀬から聞いたこと。彼は長々とため息をついた。それはセクシーだった。そのため息の中に埋もれて消えてしまえたら、どんなに楽だろう。
「黒川さんに知られるのは恥ずかしいが、俺にも一応、結婚願望はあってね。当時の部下にマッチングアプリを登録させられたんだ。部下が勝手にいじって、食事の場所に行ったら、来たのがあの女性だった」
「でも、向こうはパパ活のつもりだったんですよね?」
「あぁ。驚いたよ。食事の後に、で、いくらくれるんですか? なんて言い出して。よく分からなかったけど、それきりだよ」
やはり両方から話を聞かなくてはならないのだ。私たちの間には、心地の良い沈黙が流れた。私は気が抜け始めているメロンソーダを飲み始むことに集中した。バニラアイスが溶け始めて、意外にも美味しかった。
「その結婚相手ですけど、随分と年下を選んだんですね。パパ活だって言われても仕方ないじゃないですか」
「俺はてっきり年下が好きなんだって思ってたんだよ。だから、その仮説を検証するためにやってみた」
「それよりも熟女の方がいいってことですか? うちのマンションにいる未亡人の婆さんなんてどうですか?」
「いや。年下が好きなわけなんじゃなくて、黒川さんが好きだって気づいた」
私は彼を見つめた。六月の晴れ間、越智さんの復讐、支店長の不倫、水瀬彼女のパパ活、そして五木次長からの告白。すべてが私の手に負えなくなってきていた。「勘弁してくださいよ」と私は言った。
「そう? 俺、わりと優良物件だと思うんだけど」
「世間一般で良いって言われてるものが、私にとってもそうとは限らないじゃないですか。弁護士と結婚したら論破されまくって鬱になった女友達もいますし、経営者と結婚したらモラハラされてカサンドラ症候群になったママさんもいますよ」
「どんな人間にでも、悪いところはあるだろう」
私は途端に会話がめんどくさくなってきた。私は疲れていて、もう何も考えたくなかった。この不毛な会話を終わらせて、五木次長についてジャッジする術は一つしか残されていないように思えた。ここは歌舞伎町で、今まさに恋愛が始まろうとしている。そんな男女に場所を提供してくれることにおいては、ここはうってつけの街だった。というかそれ以外の取り柄なんてあるのか?
私は彼を見た。彼も同じことを考えているようだった。彼はコーヒーを飲み干し、私はメロンソーダをそのまま残しておいた。お腹が少しでも出ていると思われたくなかったからだ。
十一
五木次長との行為は素晴らしかった。今まで水瀬が一番だと思っていたけど、それは単に彼が処女を捧げた人間だったからだと気づいた。私たちは今までの空白の時間を全て埋めるように、何度も求め合った。
「部内恋愛は禁止じゃなかったんでしたっけ?」
何回目かの行為を終えて二人の間に親密な空気が流れる頃、私は彼に聞いた。彼はペットボトルの水をごくごくと飲み干しながら、ちらりとこちらを見た。
「仕方ないだろう。こうするしか、君と一緒になれるわけなかったから」
「どういう意味ですか?」
彼はやれやれといった様子で首を振った。
「覚えてないかもしれないけど、入行式の時に、本部で俺たちは会っているんだよ。俺は壇上で挨拶をしたからね」
「全く覚えてません。ていうか、壇上から私の姿が見えたんですか?」
どう考えてもそんなことはないはずだった。新入行員は私たち総合職と、特定総合職を合わせて、550人はいたからだ。
「いや。俺は入行式の終わりにタクシーに乗ったんだ。正確には乗ろうとした。ここまで言えば思い出してもらえるかな?」
なんとなく思い出してきた。そうだ、入行式が終わる頃には土砂降りの雨が降っていて、私は銀行からタクシーに乗って帰るつもりだった。でも雨の丸の内本部で、タクシーなんて捕まるわけがない。私は本部から少し歩いて行った先で、タクシーを拾った。それに乗ろうとしたら、横に急いでいそうなおじさんがいたのだ。胸につけている行員章で、同じ行員だと分かった。それに彼はどこか悲しげな目をしていて、放っておけなかった。
「一緒に乗りますか?」と私は聞いた。彼は少し驚いた顔をした。
「いいのか?」
「はい、急いでそうですし」
二人でタクシーに乗ったが、打ち解けたというわけでもなかった。彼は時間を気にして、しきりにスマホで何かを送っていたし、私もこれから始まる銀行員生活のことで頭がいっぱいだった。
その時に何を話したか覚えてない。大したことを話していなかった気がする。彼は私のどこを好きになったのだろうか。「その執着がないところだよ」と彼は言った。
「執着? ありまくりですよ。元彼のことをいつまでも忘れられなかったじゃないですか」
「愛についてはね。でも他のことについては君はそんなにこだわりはないだろう。出世にもこだわりがないし、お金にもそんなに貪欲じゃない。その気になれば、全てを投げ捨てて今すぐガンジス川にでも飛び込むような女性だ。金融業界ではその手の女性は、なかなかお目にかかれないからな」
「その手の女性は、金融なんかに就職しないでしょうからね」
コストパフォーマンス、タイムマネジメント、ライフハック。そういったものが大好きな女性たち。彼女たちは生きることが上手く、キャリアウーマンだとかバリキャリだとか名乗り、医者や弁護士の夫を捕まえて、東京やニューヨークで生活するのだ。まるでそうすれば、自分の空っぽの中身が埋まるとでも言うかのように。
「俺はそういう女性たちが嫌いでね。今まで何度か痛い目を見てきたんだ」
「だから、マッチングアプリに行ったんですか? 真実の愛を見つけに?」
「だから、それは部下が勝手にやったんだって」
少し拗ねた様子を見せる彼に、私はまた「かわいい」と思ってしまった。こんなおじさんをかわいいと思うなんて、どうかしている。でも、とっくにどうかしてることなんて、自分でもわかっていた。かつてフランシス・ベーコンも言っていた。「恋をしながら賢くあることは不可能だ」と。
私は少し伸びをして、スマホを見た。時刻はもう昼過ぎになっていた。夜にした決断はだいたい間違えるけれど、この時間なら良さそうだ。「いいですよ」と私は言った。
「何が?」
「だから、付き合うことですってば」
「もう付き合うとかどうでもいいから、結婚しないか?」
「五木次長みたいな人が言うとロマンス詐欺みたいだから、やめてください」
彼は私を抱き寄せて、キスをした。彼がこんなにくっついてくる人だとは知らなかった。どの行員も職場で見せる顔と家で見せる顔は、こんなにも違うのだろうか。私は水瀬へ、短い文章のLINEを送った。今までの時間に対するお礼と、別れについて書いた。
「水瀬に通報されますかね、本部に」
「俺たちがホテルにいたってこと?」
「はい」
彼は少し考えるそぶりを見せた。
「どうして困るんですか? 五木次長は、お金持ちの家に生まれたって聞きましたよ。別に銀行員の給料くらいなくても、暮らしていけるんでしょ」
「確かにな。でも働いていたのは、お金が目的じゃない。他に欲しいものがあったからな」
彼の目が私を捉えた。まさか入行してから18年越しに愛を告白されるなんて、思ってもみなかった。
「どうして今まで私にアプローチしてこなかったんですか?」
「いきなり年上の男性からアプローチされても、気持ち悪いだろ。君は年下が好きだって、いつも豪語していたし」
「いつも?」
「SNSを見る限りな」
あのSNSは封鎖しよう、と私は思った。「それに30歳になったら絶対に告白しようって決めていたよ」と彼は言った。私にはその理由がわかった。銀行の借り上げマンションは、30歳を超えたら出て行かなくてはいけないのだ。
彼はスマホで彼のマンションの物件サイトを開いて、見せてくれた。それは私1人じゃとても住めないようなマンションだった。少なくともゴミ箱を漁る婆さんがいないことは間違いなさそうだ。そろそろ1人で生きて行かなくてもいいのかもな、と思った。2人でならきっと我慢することも多いけれど、広い家にだって住める。せっかく抱えているものを手放せたのだから、また新しい何かを手に入れても罰は当たらないだろう。
これから色々と環境の変化がありそうだ。そう思いながら、私は彼とホテルを出ることにした。二人でタクシーに乗り、彼は行先を告げた。そこは彼の家だった。あの時の入行式と違い、今度は同じ場所へ向かうのだ。空はかつてのように、土砂降りの雨ではなかった。水晶のように青く、澄んでいた。これから先どうなるか分からないけれど、とりあえず行けるところまで行ってみよう。おそれずに恋愛をしてみよう。そんな私の決意を、東京が祝福してくれている気がした。
<文/立木かのん>
