見出し画像

富士山麓に消えた修験の灯火——最後の「法印さん」秋山家のこと【随筆】

 富士山かぐや姫ミュージアムで、一枚の古い写真を見た。 富士山麓に隆盛を誇った村山修験大宝院・秋山家の修験者を映したものだという。
 白髪の老人が山伏の装束を身にまとい、静かにどこかを見つめている。その柔和な顔立ちの奥に、私はどこかすべてを受け入れたような「諦観」の念を感じずにはいられなかった。

村山修験を伝えた秋山家

「法印さん」と呼ばれた人々

 「法印さん」——村山の人々はそう呼んで、秋山家の修験者たちを敬った。富士山村山大宝院という格式ばった呼称よりも、この親しみを感じる呼び名に地域の人々の素朴な尊敬がにじんでいると思う。
 昭和20年代前半まで、彼らは富士宮市村山地区で修験道を実践し、祈祷や加持を行い、人々の暮らしに寄り添っていた。

最後の村山修験の秋山芳季(よしき)氏の父 茂作氏

 秋山芳季氏の死去によって、村山から「法印さん」の姿は消えてしまった。
 この記録は、日本古来の山岳信仰がここ村山の地で確かに伝えられ、一時は隆盛したが、明治の神仏分離令という時代の荒波に呑まれ、ついに途絶えてしまった、その歴史の姿をとどめる貴重なものである。

富士山と修験道

 富士山が修験の聖地となった歴史は古い。
 平安時代末期、末代上人が富士山に登拝して以来、富士山は修行の場として修験者たちを引きつけてきた。
 修験道とは、森羅万象に神霊が宿るとするアニミズム的古神道に、山岳信仰と仏教が習合し、さらに密教の要素が加わって形成された日本独自の宗教である。

富士山かぐや姫ミュージアム内では、貴重な秋山家の法具などを展示している

 江戸時代には長谷川角行によって富士講が興され、庶民の間に爆発的に広まった。講は宗教的な意味合いだけでなく、社会保障制度のない時代における相互扶助のネットワークとして機能した。
 その教えは日常の誠実な当たり前の生活を重んじる緩やかなもので、特別な苦行や教義を強いるものではなかった。

まっとうに生きれば、まっとうな人間になる

 この柔軟さが、富士信仰を民衆の間に深く根付かせた要因だろうと思う。

伊豆山と富士山——両界曼荼羅としての聖地

 なぜ富士山と伊豆山が修験の聖地となり、両界曼荼羅に擬えられたのか。それは地理的条件と信仰の論理が重なった結果である。
 富士山は霊峰として金剛界を、伊豆山は胎蔵界を象徴し、両者は駿河湾を挟んで対峙する。このことにより、この地域全体は、修験者にとって巨大な曼荼羅世界そのものとなったのだ。

富士山参詣曼陀羅図
冨士は仙女が舞う異界であり、庶民にわかりやすくその世界や宗教観を説明するためにこうした絵解きが盛んにおこなわれたようだ

 伊豆半島は、火山活動によって形成された険しい山岳地形と、古くから続く山岳信仰の伝統により修験の聖地となった。
 伊豆山権現をはじめとした修験の拠点が点在し、修行者たちの巡礼路が張り巡らされていた。
 富士山を望むこの地は、修行の延長線上にある聖域であり、修験者たちの精神的な故郷でもあった。

人穴は富士宮市にある冨士火山の溶岩洞穴だが、長谷川角行も修行したと伝えられる聖地でもある。こうした地下に張り巡らされた穴が、龍の通り道とされ、伊豆山神社や伊豆半島との結びつきが考えられたのではないかと思う。

 現在、修験者が歩いた伊豆半島の道を再現するプロジェクトが進んでいる。その成果としてこの「古の道 伊豆峯辺路を歩く」が出版されている。
わたしもいつか歩いてみたいと思っている。

村山修験のネットワーク

 村山浅間神社は、かつて富士山修験道の一大拠点だった。しかし明治の神仏分離令によって興法寺から浅間神社が切り離され、村山三坊も神職として還俗を余儀なくされた。
 多くの修験者が法衣を脱ぎ、修験道は存亡の危機に瀕した。

村山浅間神社内に今もある大日堂の在りし日の写真
中央に修験者の姿が確認できる

 そうした中で大宝院秋山家が昭和の世まで修験の灯火を守り続けられたのは、伊豆地域に広がる堅固なネットワークの存在が大きい。
 村山修験は形式上、修験道本山派に属し京都の聖護院門跡の直末とされていたが、実際の活動範囲は富士山を中心とした駿河・伊豆地域全体に及んでいた。
 沼津市や伊豆各地の寺院、関連施設は修行の場であると同時に、政治的・宗教的困難に直面した際の避難先でもあった。

 秋山芳季氏の代まで、秋山家は各地で祈祷や加持を行い続けた。このネットワークこそが、明治以降の逆境の中でも修験道の命脈を保ち続けた所以なのである。富士山信仰や修験の力を頼む信仰は、駿河湾を取り囲む地域全体の精神的基盤として、文化的・宗教的共同体を形成していた。

秋山家は、最後の芳季さんの代まで様々な祈祷などを関係する各地で行った
秋山家の祭壇として展示されていた法具や大日如来像や不動明王像
ここに納められた大日如来は、伊勢志摩地方の人々の寄進によるものであり、村山修験の影響力の大きさを物語る
ミュージアム内にあった富士山の絵図
村山浅間辺りは詳しく正面に描かれている

山の力と縄文の記憶

 修験者たちが山岳修行で身につけようとした力とは何だったのか。それは単なる精神修養ではなく、山そのものが持つ霊力を借りて超人的な能力を獲得することだったのではないか。
 険しい山を登り、滝に打たれ、断食し、真言を唱える——こうした苦行を通じて、修験者は自然の力と一体化しようとした。

 この信仰の根底には、縄文時代から続く山への畏敬があると思う。
 山は単なる地形ではなく、神々が宿り、死者の霊が還る場所であり、生命の源泉だった。
 修験者はこの太古の知恵を受け継ぎ、山の霊力を身に纏うことで、病を癒し、災いを祓い、未来を見通す力を得たと信じられた。
 人々が「法印さん」を敬ったのは、彼らが山の力を体現する存在だったからだ。

修験の纏った力を込めた護符
人々にとってこれら護符は安全、安心に暮らすために、精神的に欠かせないものだっただろう
不動明王の力を表す法具(法剣)

消えゆく古代の信仰の記録

 今、村山を歩いても「法印さん」の姿を見ることはできない。しかしあの写真の中の老人の表情には、何百年にもわたって続いてきた信仰の重みと、それを最後まで守り抜いた人間の誇りが込められているようだ。

 明治の神仏分離令は、日本の仏教文化、そして精神文化に深い断絶をもたらした。村山修験の消滅も、少し時代は下るとはいえ、その象徴的な出来事の一つである。
 しかし秋山家が伊豆地域とのネットワークを通じて昭和まで信仰を守り続けたという事実は、民衆の信仰がいかに強靭であったかを物語っている。

 冒頭の一枚の古い写真の人物が、静かに語りかけてきた村山修験の歴史。富士山かぐや姫ミュージアムに残された貴重な大宝院秋山家の膨大な記録は、そこに生きた修験者や修験者の法力にすがった人々の姿を現している。
 歴史は大きな出来事だけでなく、こうした小さな記録の積み重ねの中に宿っている。

 富士山から伊豆半島へと広がるこの地域の精神的土壌は、富士山の影響がとても大きいはずだ。そして今も私たちの足元に静かに息づいている。
 目に見えず、しかし確実に私たちの血肉となって残っている古からの精神性ーーもしかしたら縄文の昔から連綿と伝わってきた感性や思想が、修験者の生活には残っていたのではないか。
 その貴重な痕跡を知ることのできる最後の法印さんーー大宝院秋山家のことを私はさらに知ってみたいと思うようになった。

沼津の我入道地区や志下地区への祈祷も近年まで行われていた
修験の不思議な力は、ごく最近まで私の近くにあったーーいや、今でもきっとその痕跡が静かに息づいているに違いない。


いいなと思ったら応援しよう!

タキカワスエヒト サポートいただけたら、より勉強してよい記事を書いて行きます。ちょっと遠くの気になるあの場所の紀行文を書きます。

この記事が参加している募集