🍶 回想「あの時、言えなかったこと」
──視点:芦沢 澪(営業部)
道の端に、潰れたネクタイの男性が座り込んでいた。
六本木の夜は、誰かが壊れていても、誰も気にしない。
私は、まっすぐに前を見て歩いていたが、ふと隣の男に視線を送った。
「澪、もうちょっとちゃんと食べればよかったのに。ほとんど枝豆しか食ってなかったじゃん」
永井チーフの声は、少しだけ甘ったるくて、酔っていた。
でも足取りはしっかりしていて、口元だけが笑っていた。
「すみません、なんか……気持ち悪くなっちゃって」
「そっか。無理しないのが一番だよ。俺なんか、もう若手のテンションに合わせられなくなってるからさ」
駅までの帰り道、私は、もう何度も頭の中で繰り返した言葉を、ぽつりと落とした。
「最近……営業の成績報告、修正されてるって聞いたんです」
永井が立ち止まった。
信号が青に変わっても、彼は動かなかった。
その横顔には怒りもなければ、驚きもなかった。
「見間違いとか、報告のタイミングの違いって、よくあるんだよ」
その一言が、あまりに自然で、あまりに早かった。
「でも……その、担当者の名前、間違って記録されてたり……」
「そういうのもある。営業部って、数字だけじゃ測れないから。細かいことにこだわってると、病むよ」
それから永井は、私の頭をぽんと軽く叩いた。
「ま、澪は真面目だし、気になったんだよな。でもさ、気にしすぎると、損するよ?」
“よくあるやつ”だ。
そう思ってしまった私が、嫌だった。
“よくあるやつ”という言葉で、目を背けようとしているのは、きっと私の方だ。
「……そうですね」
それ以上、何も言えなかった。
駅の改札前、永井は振り返って言った。
「大丈夫、澪は間違ってないよ。だから、変なことに首突っ込むな。俺が守るからさ」
優しい笑顔だった。
でも、そこに目の奥の“笑っていない部分”を見た気がした。
そして私は、目を逸らした。
まばたきのように一瞬だった。
でもその時すでに、私は“沈黙する癖”を身につけはじめていた。
5節|まだ見ぬ真実
月曜の夕方、社内の空気は妙にざわついていた。
誰も一ノ瀬の名前を出さない。だが、誰もが一度は彼女の“席”に目をやっていた。
まるで、そこにまだ何かが残っているかのように。
俺も、ふと視線をそちらに向けた。
その隣のデスク――澪の席にも、一瞬、目をやる。
彼女は黙ってモニターを見つめていた。
でも、あの沈黙は、ただの集中じゃない。
明らかに“言葉を抱えている”沈黙だった。
「……ちょっと、いいか?」
定時を過ぎた頃、俺は自然な調子で声をかけた。
「はい……」
彼女は視線を逸らした。
その瞬間的な仕草に、俺の胸がわずかに痛む。
見逃したわけじゃない。その反応は、かつて何度も見てきた“防御”だった。
応接スペース。
夕方の光がホワイトボードに斜めに差して、金曜日の予定がそのまま残っていた。
「落ち着いたか?」
できるだけ柔らかい声を意識した。
彼女を脅すつもりはない。ただ、確認したかっただけだ。
「……はい。少しだけ」
「そっか。無理してない?」
「してます」
眉がわずかに動いた。
でも彼女はすぐに、「冗談です」と微笑んだ。
――その“ズレ”が、俺の中に引っかかる。
彼女の目が、まっすぐこちらを見た。
「澪、先週……あれ、見たって言ってたな。屋上のこと」
彼女は、静かに頷いた。
その目に、何かが揺れていた。
「……あれって、事故だよな? 間違いないよな?」
俺の声は、優しく。
でも、自分でも気づいていた。
この優しさが、“答え”を限定していることを。
彼女は何かを言いかけて、口を閉じた。
それから、ゆっくりと俺を見つめた。
「あの夜のこと、覚えてますか?」
「ん?」
「入社2年目の夏、飲み会の帰り道で……チーフに数字の件、聞いたんです」
ああ――あのときか。
懐かしさと、少しだけ嫌な汗が背中を伝った。
「覚えてるよ。澪、真面目だったよな。細かいとこ気にしててさ」
「……あのとき、私、引き返しました」
「ん?」
「聞きたかったこと、全部、聞けなかったんです」
沈黙。
俺は笑顔をつくった。でも、内心は揺れていた。
「そうだったっけ? まあ……若かったもんな」
「今も、私、若いですか?」
その言葉に、俺ははっとする。
問いかけではない。確認でもない。
彼女は、“過去と今”を並べて俺を見ていた。
「今も、同じように“気にしない方がいい”って言いますか?」
言葉が、出なかった。
沈黙のなかで、ようやく搾り出した。
「澪、言葉ってさ。武器にもなるけど、凶器にもなるんだよ。
誰かを守るつもりで刺したら、自分が血まみれになることもある」
その言葉は、彼女を止めたかったわけじゃない。
ただ、自分がそうだった。
誰かの正しさを守ろうとして、自分が動けなくなっただけだ。
彼女は、低く問う。
「……私が何を持ってるか、知ってるんですか?」
「……持ってないと、信じたいだけだよ」
言って、立ち上がる。
背を向けたまま、部屋を出た。
視線を交わすことが、もう怖かった。
けれど、胸の奥で何かがざらざらと疼いていた。
あのUSBの中身を、彼女がまだ見ていないとしたら。
それは、救いじゃない。
ただの“先延ばし”だと、俺は知っていた。
