中央構造線・フォッサマグナを巡る2 「 『中央構造線博物館』と『大西山の崩壊地』」(長野県下伊那郡大鹿村)
[中央構造線博物館] 長野県下伊那郡大鹿村
中央構造線は、日本列島がまだアジア大陸の一部だった中生代白亜紀の1億円前頃(恐竜時代)に誕生しました。
この中央構造線は、西南日本を九州から関東まで続く大断層です。
正確には地質境界としての中央構造線と、活断層としての中央構造線は必ずしも位置が一致しない(松山平野では約7km離れている)といわれているようですが、ここではそれを分別探求するものではありませんので、両者の意味を含めて中央構造線といいます。
中央構造線は、色分けされた日本の地質図などをみると、一本の線でつながっているのがよくわかります。現地はほとんどは地表下に隠されているのですが、ある場所ではその地形又は痕跡(崖とか)、あるいは稀に河床などに露頭しています。
私のフィールドである紀伊半島(和歌山、奈良、三重)でも、深山幽谷分け入れば(レトリック)、断層の露出を観察できる場所があります。
そのような断層上にある町(村)の中でも、長野県大鹿村は、顕著な地質・岩石を実際に観察できる場所です。日本の地質帯が、ギュッと詰まったエリアといわれています。
そんな大鹿村にある中央構造線博物館ですから、こりゃ是非いっぺんは行かねばなるまい。と、前々から願っていたのでした。

そんなわけで、半日がかりで、車をとばして(制限速度)信濃の国までやってきたのでした。


博物館前庭の岩石園には、大鹿村でみられる内帯の領家変成帯(りょうけへんせいたい)、外帯の三波川変成帯(さんばかわへんせいたい)・秩父帯(ちちぶたい)・四万十帯北帯(しまんとたいほくたい)の岩石が、それぞれ標本展示されている。








領家変成帯が大陸側の地質・岩石であるのに対し、三波川変成帯は、太平洋のプレートが大陸プレートに沈み込む際に、堆積物が剥ぎ取られ付加されたものです。その時に付加体は地下で低温高圧の変成作用を受け(その後地表に露出)変成帯となっています。

上の展示パネルで注目した一つは、次の文章でした。
「三波川変成帯は地すべりを起こしやすいため、高所に湧水と日当たりに恵まれた肥沃な緩斜面ができ、古くから集落が発達しました」
危険そうに見える地すべり地形は一方で肥沃で住みやすい土地だったのか。
目からウロコ。

あぅ、もうこんな時間?
館内をしっかり見てまわるには何時間いるのだろう?
こうして博物館を辞するとき、惜しむ気持ちでいっぱいだったが、いやまてよ、こうして実際に足を運んで見ることによって、学びの入口の扉が開いたんだ。あとはコツコツやっていけばよいんだ。
というわけで、とっとと次行くことに。
[大西山の崩壊地]
中央博物館の裏山の斜面が崩れていた。これは採石場なのだろうと推測したりしていたが、実は自然災害による崩壊地だった。

ここは、昭和36年(1961年)6月下旬に、伊那谷一帯で集中豪雨により山が一気に崩れ、42名の方が亡くなられたという。
そんな悲しい場所であるが、「大西山崩壊礫保存園」として、崩れ落ちた岩礫をそのまま保存されているのだった。
(崩れた斜面を保存しているのではなく、崩れ落ちた岩、礫を保存している。斜面は今も対策工事が継続しているようだ。)







住みやすいはずの土地で起きやすい自然災害。。。
学ばせていただきました。
合掌
「大西山崩壊礫保存園」にて
「中央構造線・フォッサマグナを巡る車中泊の旅3『国天然記念物・北川露頭』と『赤石岳を望む大西公園』」へつづく
2025.4.17
(投稿 2025.5.7)
