私の真木和泉論
2019年に福岡に帰るまでの2年間、京都市郊外の大山崎というところで引き篭もりをしていた。山崎といえばサントリーの蒸留所とか、豊臣秀吉が明智光秀を破った山崎の合戦で有名であるが、自宅は天王山の麓にあり、真木和泉(1813‐1864)が禁門の変で陣取った宝積寺も、敗北して自刃した天王山中腹の「十七烈士の墓」も、朝の散歩の通り道であり、なんとなく真木和泉にゆかりを感じていた。そもそも私の先祖は久留米出身であり、私自身の本籍も久留米にある。久留米の水天宮の神官の家に生まれた真木和泉は気になる存在ではあった。

水天宮の神官が尊王攘夷の論客になり、倒幕の志士となったのはなんだか不思議のようで、よく考えるとつじつまが合う。壇ノ浦の戦いで水死した安徳天皇を祀る水天宮の神官は平右忠以来、脈々と受け継がれ、16代目の重臣が真木を名乗ってからも、代々が神事を守ってきた。22代目の真木和泉が、幕末の国難に臨み、尊王攘夷思想に染まり、ついには倒幕の志士となるのも分かる。


真木和泉は水戸に遊学し、ガチガチの尊王攘夷思想である水戸学者として久留米に帰ってくる。藩政の政争に敗れ、筑後・水田の山梔窩(くちなしのや)に実に9年蟄居されるも、地元の庶民を腹心として教育し、脱藩して倒幕運動に参加する。長州の一派と行動を共にし挙兵、「禁門の変」を起こすが、朝敵として薩摩藩らに掃討され、新選組らに追い詰められた真木和泉以下十七烈士は天王山中腹で自刃する。真木和泉52歳。
辞世の句は次のとおりである。
「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」
幕末の志士は倒幕派に西郷隆盛や大久保利通、開明派に橋本左内や横井小楠がいるが、彼らと決定的に違ったのは、西洋と西洋学に対する知見であろう。彼は少なくとも193冊の書物に触れたが、国学と漢学がほとんどを占めており、西洋に触れている本はそれを批判した2冊のみである。国際事情の知見不足は明らかであり、外圧の対抗策としては、天皇を奉じ、神道を高め、日本固有の封建制度の原点に立ち戻るという論点以外持ちえなかった。仮に真木和泉が生きながらえたとしても、開国し、近代国家をめざした大久保らとまったく相いれなかっただろう。

水天宮の神官の家に生まれたとはいえ、久留米藩の軽士だったがゆえにアウトサイダーとしての存在を示した真木和泉。忠臣・楠木正成になぞらえ「今楠公」とも呼ばれたというが、さらに突き放してしまうと、今楠公と呼ばれたかったというのが真相のようである。天皇の忠臣となりたいという夢は、時代の荒波と共に消えゆく運命にあったと思わざるを得ない。
