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Ghost of a Memory

あらすじ
ひとは心に迷いを宿す。迷いは真揺まよい――真実の輪郭の中で揺れるもの。 疲れた旅人がたどり着く名もなき宿。そこでは名も事情も問われず、求める前に食事が差し出される。それは記憶の味。夜が更けるほど心はほどけ、朝になれば客は再び旅人へ戻る。ただ小さな鍵を残して――「疲れたら、またおいでください」
その宿は夢とも現実ともつかず、選び続ける者の心に在り続ける。 その鍵は通行証であり、記憶の証。宿は心の拠り所として、選ばれずとも気づけば在る。それは旅の終わりではなく、何度でも始まり直すための静かな停留所。夢と現実の合間に。鍵を手にした者だけがまたここを思い出す。静かに。余韻。ただそれだけ。


Ghost of a Memory


 ひとは心に迷いを宿す。
 迷いは真揺まよい……真実の輪郭の中で揺れ続ける。

序夜 真揺いびと

 日常の細かな選択から人生の岐路、だれもが惑い揺らぎの中で葛藤し、わかれ道で立ち止まる。迷わず進める一本道などありはしない。ただ、歩を休めることはできない。だれに追われるでもなく、なにに突き動かされるわけでもないのに、ただひたすらに目指す場所があるから。

 人生を旅になぞらえるなら、ひとはみな旅人である。
 旅人は疲れたとき一夜の宿を求める。

 ――その宿に名前はない。

 どこでもなく、どこにでもある風景。
 だれにでも見えるが、だれも探せない場所。
 そこは真揺まよいびとだけがたどり着ける名もない宿。

 その宿の扉はいつも少しだけ開いている。
 鍵はない。鍵穴すらない。
 それでも、入れる者と入れない者が在る。
 それは扉が選んでいるのでも、宿が拒んでいるのでもない。ただ、迷いに「触れた者」だけがそこへたどり着く。

 真揺いびとは選んでたどり着くのではない。
 気づけばそこにいる。あるいは、気づく前からそこに「いた」。

 一歩足を踏み入れば、感じるのは懐かしさのみ。それは音、あるいは匂い、そして込み上げる感情。涙を流す者もいるかもしれない。それらの記憶だけが浮かび上がり、意味だけがほどけていくような静寂しじまに沈み込む。

 壁も床も、古びているのに新しい。
 時間の継ぎ目を見せないまま、結び直されているようなたたずまい。

 そして宿の奥には帳場がひとつ。
 そこに立つ者が、宿の主なのかも解らない。
 ただ、問いを預かる者。
「今宵は、どの道で真揺まよわれましたか?」
 そう聞かれたとき、真揺いびとは初めて、自分がどこにたどり着いていたのかを知る。

第一夜 食堂

 ここにたどり着く者にはひとつの共通点がある。みな、少し疲れている。

 だれかを失った者。
 なにかを諦めた者。
 すべてを捨てた者。
 現実に擦り切れた者。
 行く先を見失った者。

 ここではだれも、大きな荷物ではなく、知らず知らず抱え込んでしまった肩の荷を下ろす。

 帳場を終えると、ふいに美味しそうな匂いが鼻をついてくる。腹が減っていなくても不思議と安心する香り。それはパンか、スープか。あるいは、おにぎりの海苔の香りかもしれない。

 そうして、まず食堂へと通される。

 奥の厨房にはひとり、料理人が立っているだけ。他の従業員は見当たらない。
 客はいるようだが、その姿をはっきりとは捉えられない。
 そこにいるだれもが周りを気にしない。名前も、事情も、だれひとり多くを詮索しない。

 料理人はなにも話さない。
 ただ温かい灯りの中で黙って薪をくべる。
 火は絶えず、釜の中だけがゆっくりと呼吸している。ぱちり、ぱちりという木のはぜる音だけが食堂の時を刻んでいた。

 やがて音もなく、客の目の前に温かな食事がやってくる。
 客はまだなにも頼んでいないのに、不思議とそこには「食べたかったもの」が並んでいるのだ。

 眠れず泣き腫らした目で覗いたキッチン。
 母の背中越しに嗅いだ優しいミルクの匂い。
 熱を出した夜、口へ運ばれた食べやすくカットされたフルーツ。
 仕事帰りに立ち寄った店の、味の濃いチキンや泡立ったビール。
 いつかのレストランで口にした、鮮やかなグリーンのメロンソーダ。
 ただただ素朴で飾り気のないアップルパイ。
 もう会えないだれかが、不器用なりに握ってくれた俵型のおにぎり。

 料理を運んできたその手に、懐かしさを覚える者もいる。
 幼いころ、自分の額に触れたやわらかい手。
 もう二度と会えないはずの、だれかの細い指先。
 だが、確かめようと顔を上げても、料理だけが優しくそこにある。

 それは、決して豪勢な食事ではない。
 穏やかなあかりの中にあるのは、空腹を満たすためだけの食事ではなかった。
 ひと口食べた瞬間、張り詰めていたものがふっと緩む。忘れていたはずの記憶が、香りとともに静かに浮かび上がるのだ。なかには、湯気を見つめたまま手をつけられない者、ただ黙って涙を落とす者もいる。

 料理人は求められぬ限り、自ら言葉をかけることはない。見えていない素振りで、ただ黙々と鍋に向き合う。火を絶やさぬよう薪をくべ、淡々と調理を続ける。

 食事を終えるころには、張り詰めていた心も、強ばっていた頭も、少しだけ軽くなっていく。頬に、温かみが戻る。

 この宿は無闇に空気を乱さない。

 頃合を見計らったように静かに食器が片され、客もまたそれを合図に席を立つ。

第二夜 客室

 客室は2階。
 けれど階段を何段登ったのか、覚えている者は少ない。どうやら、ひとによって段数が違うらしい。お年寄りなら3段程度、若者なら10数段。子どもなら、駆け上がって息を弾ませるころには部屋にたどり着く。

 気づけば目の前に扉があり、まるで最初からそこが自分の居場所だったかのように、黙って部屋は迎え入れてくれるのだ。

 部屋の中はそれぞれ。絨毯だったりタイルだったり、もちろん畳の部屋もある。落ち着いた雰囲気に、なにより安心できる匂いがした。

 窓の外は雨、あるいは淡い光の粒。
 故郷の見慣れた風景、あるいは祖母の家の庭。
 知らない街並み、あるいはいつか行きたかったと夢見た場所。
 求める者も、求めざる者も、額縁のない絵画のような窓の景色に表情をゆるめる。

 だが、この部屋の窓にはまだ暗闇しかない。
 夜、というわけでもなさそうだ。
 自分の部屋なのだという確信もある。

 安心できる部屋のはずなのに、妙に落ち着かない。
 椅子に腰かけ窓を眺めても、あるのは暗闇だけ。
 ときどきなにかが見えそうで、なにも起こらない。それはまるで画面に走るノイズのように。

 早く休みたいはずなのに、なぜか眠る気にはなれなかった。
 手持ち無沙汰に立ち上がる。

 どこか遠くの方で声がする。
「……んだよこれ。まだつかないの。いったい何段あるんだよ」
 直後にバタバタと駆け上がるような音が響く。
 自分以外にも客がいるらしいことに安堵する。だが、やがてその声も遠のき、廊下には再び静けさだけが残った。

 扉が閉まる音がした。
 だが、それ以上の気配は続かない。

(部屋に入ったのか……それとも、)
 他にも客がいるのか。
 好奇心で扉を開ける。
 客室は並んでいるようなのに、廊下は静まり返っている。
 音は落ち、足音も衣擦れの音すら届かない。

 ひとの気配がないわけでもない。
 ひとに会わないわけでもない。
 ただ、沈黙している。だけ。

 ふと、話し声がしたような気がして廊下に出た。
 声を求めて廊下を歩く。

 この宿では不思議と、同じ真揺いを抱えた者同士が引き寄せられることがある。言葉を交わすこともあるようだ。

 同じ旅路を約束する者もいる。だが、この旅に限って道連れはない。
 名乗り合い、再会を約束する者もいる。だが、会える保証もなければ、朝になり旅立つ時が来れば、やがてそれすら忘れてしまうのだ。ただ稀に、ここではないどこかで「はじめまして」とめぐり逢うことはあるらしい。

 自分はまだ他の客に出会えていない。
(だれもいないのか……)

 ひとつ角を曲がった廊下の先に、明らかに異質な扉があった。

第三夜 図書室

 引き寄せられるようにノブに手を掛けると、思ったよりも軽く扉は開いた。
 しん、と静まり返った空間が広がっている。薄暗いようなのに、どこか淡く光っている。

(図書室……?)

 その空間は、たとえ外が昼であろうと、激しく窓を打つ雨模様であろうと、天井いっぱいにプラネタリウムのような星空が広がっていた。

 星は描かれているわけではない。どこかの国のどこかの空が、確かにそこに在る。もしくはそう見せている。それは見る者の故郷なのか、あるいは望む場所なのかは解らない。見えないという者もいるかもしれない。そこにはただ青い世界が広がっている。

 ふと目を落とせば、本棚の隙間に小さな惑星がゆるやかに漂っている。それもまた見る者によっては見方が違ってくるのだろう。

 書棚に並ぶ本もまた、どこか奇妙だった。
 その背表紙に記されているのは題名ではない。
「あのとき」
「ある朝」
「冬の窓」
 ……時節にも似た曖昧な言葉の並び。そこにはただの題名を超えた、名もなき記憶の気息きそくかよっている。

 それは「物語」でもない。まだ言葉になる前の「記憶の断片」。
 それを手にしたとき、浮かび上がるのは「まだ起きていない未来」ではなく「置いてきた感情」だった。

「あのとき、本当は寂しかった」
「ある朝、本当は助けてほしかった」
「冬の窓、帰りたくなかった」

 それは読み解かれるというより、思い起こされるという方が近い。
 読んだ者はただ静かに思いに浸ることもあれば、ただなにかを思い出し留まることもある。そうしてほんの少しだけほほえみを取り戻す。

 この図書室は、記憶と感情、そして時間とがひとつに溶け合う場所だった。
 星は遠い記憶のようであり、惑星は忘れられた感情のように浮遊する。それらを静かに流していく時間が宇宙を模している。
 本は、それらに触れるための入り口なのだ。

 読みかけの本がソファの上で開いたままになっている。さっきまでだれかがそこにいたような余韻と、記憶の温度が残っている。読みかけのまま立ち去らねばならないような、なにか落ち着かないことがあったのだろうか。

 ふいに、子どもの楽しそうな笑い声が聞こえた気がした。
 思わず身を捩り書棚の奥を覗き込む。 つられるようにして上体が傾き、視線だけは必死にその奥を追いかける。だが、そこには小さな惑星が漂っているだけ……いや、少々動きが不自然だ。まるでだれかがかき混ぜたような。

「はっ……」

 まただ。

 声に引きずられるようにして足が動く。 だが近づくほど笑い声は遠ざかっていく。
 遊ばれているようだ。
(かくれんぼのつもりか)
 ちょっと楽しくなってきた。

 こちらも、のせられてやろう。
 書棚の隙間を覗きながら、奥へと進む。どこも似たような景色のままなのに、奥だけが遠のいていく。室内はそれほど広くないはずなのに、端が見えてくる様子がない。

 子どもの声は途絶えていた。だが、まだひとの気配は残っている。

 妙に温かい。

 空気が変わった、と思った途端書棚の一部に光が弾けた。先ほどの笑い声がはっきりと耳に届く。瞬きの合間に、箱庭の小宇宙のようなものが広がっていた。

 無意識に、手が伸びる。だが触れた瞬間、それは視界ごと吸い込まれるようにして消えた。

「なんだ、今の」

 どこかで扉の音がした。
 だれか入ってきたのだろうか。だが、気配は続かない。

 ソファのあった場所に戻ると、パタリと本が閉じた。まるで「読むべきではない」と拒まれたかのように。その時、ページの隙間からなにかが抜け落ちた。無意識にそれを拾い、ポケットに忍ばせる。

 本に目を落とす。
 どこから来たのか解らない。ただそこに、なにかがあった気配だけが残っている。
 これは自分の本ではない、と直感する。

「うわっ。なにここ!?」
 扉を開けたのは彼だったのか。それにしては声がいきなりすぎる。入ってきた気配がない。
 声の方を振り返ると、どこか奇妙な格好をした男が立っていた。息を切らし、きょろきょろしながらこちらへやってくる。上半身は薄い袖のない衣服に、紐のついた靴。旅人には見えない。

「なぁあんた」
 不意に男がこちらを向いた。

「図書館……なんだよな、これ」
 見えているのか。
「なんだよ、無視?」
「あなたは……」
「あ、よかった。日本語通じんの? なぁここなんなん? 階段なげーし、宿っぽいのに部屋はねーし。こ~わ」
 いきなりわけの解らないことを捲し立ててくる。

「部屋、ありませんでした?」
「ねーよ。そもそも受付だれもいねーし。いきなり階段だし」
(帳場、のことだろうか)
 だれもいない? 彼はひとの気配を感じていないのだろうか。
 突然、体のあちこちをまさぐり「あれ、ケータイ」と、これまた解らない単語が出たかと思えば、
「お、あった。……ん、だよ、圏外? 不便じゃね? それより、ここどこ。あんただれ。どっからきたの」
 後ずさりながら落ち着きなく汗を拭う。
「ちょっと、あんた。聞こえてんの?」
「あぁはい」
「わっけわかんね」
 それはお互い様だ。

「だれもいなかったんですか?」
 こちらの声は聞こえているようだ。だが、明らかに状況の認識にはズレがある。こちらの存在は把握できているのに。
「てか、むしろだれかいんの? あんたが初めてだけど」
 彼は視線を泳がせながら、落ち着きなく周囲を見回した。
 確かに、帳場や食堂以外で見掛けてはいない。気配だけだ。
「わたしも、こうやって話すのは初めてです」
「だよな? それよりなにここ。電気は? 外昼間だったけど、いつの間に夜になった?」
 言われたところで返事のしようがない。

「なにこの本、なんも書いてねーじゃん」
 バサバサと書庫の本を広げる。
 なにやらハラハラしてしまう。
「あー腹減った」
 おもむろに腹をさすると「ここ、飯食うとこねーの?」とこちらを振り返る。
「あ、食堂なら下に」
「したぁ? またあの長い階段降りんの? んだよ、だりーな」
 そう言って彼はバタバタと部屋を出て行った。

 騒々しいひとがいたものだ。だが、あれでは部屋どころか食堂にたどり着けるのか、あやしいものだ。

 辺りを見回すと、さっきまでの騒がしさが嘘のように、緩やかに回転している惑星だけが浮かんでいた。
 黙って部屋を出る。

 書棚のどこかで、紙がわずかにめくれたような音がした。
 気のせい、と言えばそれまでの、かすかな残り香のようなものだった。

第四夜 酒場

 そろそろ夜も更けてきた。普通ならみな寝息を立てる頃。なれど、だれもが安心して眠れるわけではない。

 客のひとりが眠れずに階段を下りる。
 階段をおりる途中、ポケットの中がわずかに気になった。

 帳場にはだれもいない。だが、食堂からあかりが漏れている。
 覗いて見てもやはり、だれもいない。食事時ではないからか、あかりも一部にしかついていなかった。

 水でも一杯いただこう、とカウンターに近づく。先ほどの料理人がカウンター越しに見える。厨房の作業台脇の椅子に腰かけ、新聞のようなチラシを眺めていた。
 思い切って声をかける。
「水をいっぱい……」
 くれませんか、と言い終える前に目が合った。
 無骨な料理人は面倒くさそうに、それでいながら親しみを帯びた目つきで、ついと食堂の窓側を顎で示した。
 自分でやれ、といったところだろうか。
 顔をそちらに傾けると、食事の際には気が付かなかった木製の食器棚があった。そしてその低い位置に、ほのかなあかりが揺れている。
(地下、があるのか……)

 だが勝手に行ってしまって良いものか。
 もう一度料理人を見る。なんの反応もない。
「あの、」
 再度声をかけようとしたその時、料理人の体がわずかに動いたような気がした。こちらに来るのかと思ったが、彼の視線は別なところを見ていた。

 不意に背後から、アルコールと葉巻が混じったような匂いが鼻先をかすめた。
「眠れないのかい」
 しゃがれた声が背中に投げられた。
 振り返ると、グラスを持って腕組みしている女が食堂の入り口に立っていた。初老のようにも女盛りのようにも見えるその女は、ヒールの音を響かせながら、ゆらゆらとこちらへ向かって歩いてくる。

「あ……」
 こちらが躊躇していると、
「地下に酒場があるよ」
 独り言のように呟いて、女は真っ直ぐ料理人の方へ向かう。そうしておきながら声をかけるでもなくカウンターにグラスを置くと、そのまま料理人に背を向けもたれかかった。

 それが合図のように料理人は立ち上がり、なにも言わずにカウンターの端から灰皿を滑らせ、
「1本吸ったら出てってくれ。ここは飯を食うとこだ」
 そう言って女に葉巻を渡し、指を鳴らすように火を点けた。
 そして何事もなかったかのように調理台脇の椅子に腰掛け、またチラシを手に取ると元の形に戻った。

 寡黙な料理人が口を聞いたことにも驚いたが、一連の流れはまるでスクリーンを観ているようで、思わずため息が漏れる。
 すると今度は、煙を一息吐き出した女が、先ほど料理人がしたように顎で地下を示した。

 「酒場」と聞いてしまった以上、行かない手はない。
 促されるまま窓際へ向かうと、仄暗いあかりが危うさを醸し出している。なにせ酒場だ。騒々しい様子は伺えないが、ひょっとしたらなにかよからぬことが起こるやもしれない。そう思うだけで余計に喉が渇いた。

 おずおずと軋む階段を降りていく。
 受け入れられるか分からない場所への緊張からか、悪いことをしているわけでもないのに罪悪感が込み上げてくる。新参者の気分とはこういうものだろうか。
 視線の先には不揃いな石畳。少し足りないくらいの電球色のせいか、あるいはタバコの煙か、少し白らんで見えた。

 階下に着くと、そこにいる全員がこちらを見た。

 一瞬の沈黙。そして客はみな静止画のあとのように動き出す。
 自分以外のひとの動きを初めて見た気がした。

 場を乱してしまったか、と踏み出した足を着地できずにいると、
「遠慮は要らねぇよ」
 カウンターの一番手前にいた男が振り返る。
安心もつかの間、こちらに向いたその顔には、アイパッチでは隠しきれない大きな傷が刻まれていた。

 白んで見えたのは、酒場のあかりがすべて蝋燭であるせいだと解った。
 ここはどうやら酔うためではなく、沈黙するための場所らしい。同じテーブルにいながら、だれひとりとして会話を楽しんでいる様子がない。視線は交わっても、その先へ踏み込もうとしない。なにより、自分が探られたくないのだ。ただ目の前の蝋燭の火を見ながら、自分の傷が徐々に溶けていくのを待つ。

 そろそろと歩を進めると、先ほどのアイパッチの男が背を向けたまま、空いている左側の椅子をトントンと叩いた。
 少しほっとして、その言葉に甘えることにする。ここであえて別の席に行くのもまた、水を差すようで躊躇われる。

 カウンターには長い髪をひとつに結ったバーテンらしき男、いや女だろうか。酒場には似つかわしくない若さと小綺麗な感じが、より異質さを際立たせていた。
 こちらも当然なのか、注文を取る気配がない。
 また思いもよらないものが絶妙なタイミングでやってくるのだろうか。

「初めてかい」
 正面を向いたままアイパッチの男が静かに問う。
「まぁ……」
「なにを覚えてる」
「なに、とは?」
「なんでここにいる」
「それは……」
「まぁ、覚えている方が稀だ。あんたなに食った? 食堂で。オレは骨付き肉とビールだ」
 そう言いながら、彼は右手の大きな木製のジョッキを持ち上げた。
「あぁ。ポップコーンとコーラです」
 言い終えて少し恥ずかしさが湧いたが、
「なんだそりゃ」
 アイパッチの男の、ガハハという笑いに救われた。案外と気さくなのかもしれない。
「ですよね」
「それじゃ腹も減っただろう」
「それが不思議と、そうでもなかったです」
「……なぁ?」
 アイパッチの男は首をもたげ、だれにいうでもなく投げかけると「みんなそんなもんだ」と視線を落とす。
「腹に溜まるもんでもねぇのに」
 最後のつぶやきは、どこかさみしげでもあった。
「映画館では必ず食べてたんですよね。こう、鷲掴みで口の中に放るように」
 口に手をやったところで、取り繕うような受け答えが、子どもじみていたかと身をすくめる。次の言葉を考えあぐねていると、目の前にすっとウィスキーグラスが差し出された。

「コークハイ」
 このタイミングでこれかと思うと、少し笑みが零れた。
 不意に顔を上げると、血の気を感じさせないバーテンダーの白い顔がこちらを向いていた。ひとことも発しないその目は無表情だが、こちらを充分に理解しているようだった。
「子どもの飲みもんだな。アンタにはちょうどいいか」
 そうしてアイパッチの男はまた、ガハハと笑った。この笑いは彼の癖なのだな、と思うと親しみが湧いた。

「飲みもんが来たみてぇだから、オレは先に失礼するゼ」
 先ほどまでなみなみと注がれていたはずのジョッキは、すっかりと飲み干され、アイパッチの男はお道化るように歯を見せた。そして勢いよくジョッキを机に置き、立ち上がる。タンっと乾いた音が酒場に響いた。
 随分と中途半端に切り上げるものだ、と彼を見上げる。すると、
「おいアンタ。アンタもそんな縮こまってねぇで、こいつと話してやんな」
 それまでアイパッチの男の体の大きさで見えていなかった、ふたつ右隣の男の背中をパァンと叩いた。
「ひぃ……」
 その男はとても細く、華奢な体はアイパッチの男の半分の厚さもなかった。 
「また、どこかで会うこともあるだろうさ。どうせ顔も覚えちゃいないがな」
 ガハハと笑い、アイパッチの男は満足そうに酒場をあとにした。

 気の毒なのは自分か、雑に残された彼か。
 彼はとてもひ弱そうに見える。それにお世辞にも話し上手とは思えない。だが意外にも立ち上がり、言われるがままにスーッと、それまでアイパッチの男が座っていた席に音もなく腰掛けた。

 近くで見るとますます棒切れのようなひとだ、と思った。
 枝のように伸びた彼の右手には、手のひらに隠れてしまうほどの、小さな三角の器が収まっている。彼が移動すると同時に、バーテンダーは瓢箪を精巧に磨き上げたような形の陶器を、彼の手元にずらした。

「それは飲み物ですか?」
 思わず先に声をかけてしまった。
 だが、棒切れさんは気分を害することもなく「酒……だよ」と小さく答えた。こちらの視線に気づくと、瓢箪のようなものを持ち上げ、
「と、徳利というんだ。この中に……ひ、冷えた酒が入っていて。こうして、この、お、お猪口で……飲むんだ」
 こちらを向いて丁寧に説明してくれた。そして「あぁ……そう、だね」と、まるでだれかの声に頷くようにしてバーテンダーに目配せする。
 すると今度は少し形の違う、これまた手のひらサイズのすりガラスのカップのようなものが差し出された。
 不思議そうに眺めていると、バーテンダーが「どうぞ」というように掌を翻した。
「あ……なたも少し、い、いかがですか」
 棒切れさんは、そういって徳利を持ち上げた。
「あぁ、はい」
 すりガラスのカップを持ち上げると、震える手で酒を注いでくれた。

「お……これは」
 カップが小さいとはいえ、いや小さいからなのか、勢いよく吸い込んでしまうと喉がカーっと熱くなった。
「結構、きますね」
 決して不味いわけではないが、苦笑いになってしまう。
「はは……」
 棒切れさんは不器用に笑うと、自分のお猪口をぐいと傾けて見せる。
 体に合わない呑み方をするひとだな、と思った。
「凄いですね」
 それだけ言って、表現しきれない喉の感触を手振りだけで伝えると、
「これが、い、いいんです」
 そう柔らかく微笑んだ。
「へぇ……」
 それは酒に対する感想とも、彼の微笑の印象とも、どちらにも言える答え。

 突如階段を駆け下りる音が響く。
「なにこれ、酒蔵さかぐら? お、あんたさっきのひとじゃん」
 図書室で騒がしく立ち去った男が再び現れた。つくづく彼の動じなさに気が抜ける。
「ちょっとあんた、そっちズレて」
 男は手の甲を無造作に降り、棒切れさんをひとつ隣の席へ移らせると「あんたもズレて」といって、それまで自分が座っていた左端の席に強引に腰かけた。
「まいったよ~。食堂開いてねーじゃん、めっちゃ腹減ってんの、オレ。なんか出してよ。メニューは?」
 矢継ぎ早にそういうと、バーテンダーを見上げた。

「なに? メニューないの」
 この男には宿の仕組みが通じていないのか、バーテンダーも心なしか不機嫌そうに見える。
「食事、できてないんですか」
 あれから彼は、どこにいたのだろうか。
「だってだれもいねーじゃん。そしたらこっち、電気ついてるみたいだったから」
 だれもいない……。
 またか、と小さく思った。
「ここの階段は短くてよかったよー。ここなんなの? 階段地獄?」
 一体彼はどのくらいの時間階段を昇り降りしていたのだろう。そう思うと少しおかしくもあり、気の毒でもあった。
「あんた、なに飲んでんの? あれっポン酒じゃん、しっぶ」
 手元のお猪口に目を落とす。

「に、日本酒……」
 静かに棒切れさんが訂正すると、
「あぁうん。だからポン酒だろ。なにおっさん、時代錯誤なカッコしてんね。浴衣?」
 周りを気にすることなく大きな声で答える。
「き、着流し」
「あぁなんでもいいや。あんたはなに飲んでんの」
 相変わらず騒がしい。知り合いという気安さはありがたいが、ここで騒がれるのはなんだか、居心地が悪い。
「コークハイ。あ~オレ洋酒とかダメなんだよね。ビールないの、ビール。それよりなんか食うもんだしてよ、オレもうどうにかなっちゃうよ」

 バーテンダーを窺う。相変わらず不機嫌な態度。目が合う。
(ビールか……)
 そう思うと、先ほどジョッキを掲げていたアイパッチの男の顔が浮かんだ。彼が残っていたら乾杯でもしていたかもしれない。
 そう思った途端、自分と彼の前にジョッキグラスが現れた。
「うぉっ。見た? 今見た、これ。勝手に出てきた。魔法? え、ここってそういうとこ? 異世界転生?」
 またわけの解らないことを言う。
 するとどこからか「しーっ」と、窘めるような声が聞こえてくる。

「あぁ、ね。黙って飲めってね。はい、はい。カンパーイ」
 そういってグラスを傾ける。つられてグラスを持ち上げると、彼は喉を鳴らしてビールを飲み干した。
 そこまで礼儀知らずというわけではないらしい。
(悪いひとではない……)
 だが、いかんせん騒がしい。
「なんだこれ。発泡酒? クラフトビール? まぁいいや、オカワリ」
 無言のバーテンダーにグラスを突き出す。
「ねぇ。なんか、ツマミないの」
 腹が減ったという彼には遠慮がない。飲み物よりも食事が欲しい、それは先ほどから訴えている。だが食堂も通らなかった彼に、この状況で食事は提供されるのだろうか。

「あんたは? なんか食べない?」
 言われて急に、自分も空腹なのだと気づいた。
「えーと、」
 戸惑い、バーテンダーを見る。思いつかないでもないが、気まずい。

「わぁお、串焼き! でもなんで3本。ふたり分なんだから割れる数で出そうよ」
 言うが早いか、彼は串を掴んで頬張る。
「あんたも食べなよ」
 この状況なら当然、ふたり分で出てくるはずの皿の上の串は3本。だが彼の前には置かれていない。これが何を意味するのか。
「もっと肉々しいのが食いたいとこだけど、まぁいいや。じゃんじゃん出しちゃってよ。あ、でもオレ、金持ってねーけど……」
 さっきまでの勢いも虚しく、急に口の動きを止める。

 果たして「お金」という対価がこの宿に通じるのか。彼との違いに答えが見つからないまま、串に手を伸ばす。今自分が、いちばん欲しい味だった。
「ま、いっか。請求されたらここでバイトでもすりゃいいし。オレが代わりにバーテンやってもいいよ。あのひと愛想なさすぎ」
 また場を乱すようなことを言う。
「バイト?」
 聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「働いて返しゃいいっしょ」
 働く、という概念はこの宿にもあるのだろうか。

「もう1本貰っていい? 」
 満面の笑みで求める顔が子犬のようで拒めない。
「ねぇ、もっと景気よく出してよ! 腹減ってるって言ってんのに、他にないの」
 声を荒らげる彼は、空腹のあまり苛立ちを隠さない。
 すると右隣の棒切れさんが、小ぶりの魚が乗った皿をこちらに流してくれた。
「すみません」
 申し訳なく苦笑いを返す。と、
「なんそれ」
 すかさず彼が問う。
「め、めざしじゃ……ダメかい」
「めざしぃ? めざしってなに? まぁいいや」
 遠慮もなく手を伸ばし、口に入れる。
「かった……しょっぱ。なんだ、これ」
「はは……やっぱり、ダメかい」
 また強く出るのかと、こちらが身構える。
「着流しー。あんた、顎強いんだねぇ」
 目を丸くして答える。まるで祖孫のやり取りを見ているようだ。
「バーテン! ビールは」
 あまりに遠慮がないので、飲みかけだが自分のグラスを差し出す。
「いいの! サンキュ」
 そして、渡したばかりのビールがもう一度現れる。
「ほら! 魔法じゃん。あんたの前だけ出てくる」
 説明しがたい。
 どこかで咳払いが聞こえる。周りの客は静かに飲みたいのだろう。

 そのまま会話が続くかと思いきや、沈黙が流れた。彼の方を見やると、カウンターに突っ伏して寝ている。
(なんなんだ)
 棒切れさんの方に目を向けると、同じように呆れた顔をしていた。
 そこでなんとなく、先ほどアイパッチの男が自分にしたように、彼に同じ質問をしてみることにした。
「あなたは、夕食になにが出てきましたか?」
 棒切れさんは、一瞬驚いたような顔をして、
「し、塩むすびと……み、味噌汁です」
 小さく視線を落とした。
 塩むすびがどんなものかは想像がつかなかったが、その答えは知っているような気がした。
「へぇ」
 味噌汁は「汁」というくらいだから、飲み物だろうか。
「母、は……三角が、苦手で」
 棒切れさんはなにかを思い出したように小さく笑った。
(三角、が好きなのかな)
 手の中のお猪口に目を落とす。

 棒切れさんはしきりに、自分のお猪口の上で徳利を逆さに振る。どうやら、中の酒が空になったようだ。すると彼は、
「あぁ」
 諦めのような、安堵にも似たため息をついて、静かに椅子を離れるしぐさをした。
 アイパッチの男もそうだったが、親しみある笑いや微笑みのあとは皆、席を立つのかもしれない。
「行かれるのですか」
 ちょっと寂しいような気もするが、潮時のような感覚もまたあるのだ。
 彼はおもむろに、
「こ、ここに……泊まる人は、か、必ずなにか忘れて……帰る」
 独り言のような言葉を残して去っていった。
 その言葉に、
(このひとはなにも憶えていなさそうだ)
 なんのてらいもなく、隣で寝息を立てている彼を見た。

 手持ち無沙汰になった。
 なんとなくバーテンを見やる。当然、答えはない。
 先に出されたコークハイの氷が溶け二層になっている。ひとくち……甘ったるい。上の方が水っぽいのも、お約束だ。でも、これが好きだったのだ。

 カウンターの奥にまだ人がいる。随分とくたびれた様子だ。
(ひとは疲れていると、着ている服までくたびれて見えるのか)
 その姿はまるで、根っこでも生えているかように固まっていた。それとも長い時間、ここに居座っているのだろうか。
 ふと目が合ったような気がしたが、すぐに視線は外れた。
 ずっと動かない。酒場に溶け込んだ置物のようだ。

 ビールグラスを手に取り、酒場の様子に目を配る。

 奥の暗がりに、目立たないよう体を丸めて座っている老婆がいる。魔女……だろうか。隠そうとしているようだが、とんがり帽子で解ってしまう。
 なにやらぶつぶつと呟きながら、目の前のスープボウルに両手をかざしている。なにかの儀式なのか、スープを見つめたまま周りを気にする様子もない。

 中央の丸テーブルには愁いを帯びた老人がたたずんでいる。酔っている気配は伺えないが、テーブルの上には空の瓶が数本無造作に転がっていた。ひとりで座っているのになぜか対面にもグラスが置かれ、時折乾杯しているようでもあった。
(だれかを悼んでいるのだろうか)
 注視しすぎたのか、老人と目が合った。
「あ」
(怒鳴られる……っ)
 思わず目を閉じた。
 だが、なにも起こらなかった。
「若い人はいい」
「え?」
「何度でもやり直せる」
 気づけば、老人は手に持った酒瓶をこちらにかざし、
「後悔のない旅を」
 そう言って席を立つ。
(後悔……)
 一瞬の違和感のあと、じわりと胸に残る。
「ありがとう、ございます」
 届いているかは解らないが、いい夢が見れたらいい、と満足気な彼の背中を見送った。

 すぐ後ろの丸テーブルには古いドレスを着た女性と、動きにくそうな甲冑を纏った騎士風の男が向かい合って座っている。
 女性はまだ若そうなのに、その表情は悲壮感に満ちていた。煤けてはいるが、よく見ると胸元と腰からのベールがウェディングドレスのように見える。向かい側の騎士風の男は、彼女のお付の者だろうか。彼もまた、彼女以上に申し訳ない顔をして俯いている。その深刻さがなにかを物語っていた。
 ふたりの目の前にある、手のつけられていないワインは祝いのためではないのだろうか。

 あまり見ていては申し訳ない、とカウンターに向き直る。聞くともなく、背中に微かな会話が流れてきた。
「……結局、間に合わなかったのですね」
「あなたにも申し訳なかったわ……」
「お役に立てず…… むしろ台無し……」
「だれも悪くないわ。初めからなにもなかったのよ」

 ここは憶測でものを見てはいけない。考えかけてやめた。彼らの心もまた疲弊しているのだ。
 みな、疲れている。そう、自分も……。

第五夜 子守唄

 すっかり飲み干したビールグラスを眺めていると、静かにホットワインが差し出された。バーテンダーの表情にも、先ほど感じた冷たさはなく、その目にほっとした。
「ありがとう。よく眠れそう」
 木製の持ち手がついたマグを両手で包むと、階段の方から甲高い靴音が聞こえてきた。

 彼女に会うのは2度目だ。今度はグラスも葉巻も持っていない。心なしか、視線も先ほどより強く感じる。

 1度目は暗がりでよく見えなかったが、間近で見るとなかなかの美人だ。体の線を隠さないドレスもまた、彼女らしい。
(飲みに来たのだろうか)
 そう思ってバーテンダーを見やると、おもむろにカウンターの下からヴァイオリンを取り出した。
「まさか」
 もう一度彼女を振り返る。
(歌うのか!?)

 バーテンダーが目を閉じ、静かに弓を弾く。
 それはジャジーな子守唄。

Fuzzy mind, hazy night
(曖昧な心、ぼやけた夜)

Fuzzy mind, hazy night

(曖昧な心、ぼやけた夜)

A faded photo in my mind
(心の中の色褪せた写真)

A timeless smile left behind
(置き去りにされた、色褪せない笑顔)

Just a ghost of a memory
(ただの記憶の亡霊さ)

Is this real, or just a dream?9
(これって現実?それともただの夢?)

Who is waiting? Is it you, or is it me?
(待っているのはだれ?あなた、それともわたし?)

This place doesn’t give out definitive answers.
(この場所は断定的な答えをくれない)

If I remember correctly, ……
(わたしの記憶が正しければ……)

Ghost of a memory

「さァみんな。寝る時間だよ」
 歌い上げると拍手も待たずに彼女はそう言った。

「はは……」
 うっかり涙を落としそうになった。
 沈んでいたはずの心が嘘のように軽くなり、新しい蝋燭の火を灯したような感覚。
 だが、客はまだだれひとりとして立ち上がる者はなかった。

「ブラボー! ブラボー!」
 寝ていたはずの彼が、突然拍手をして見せた。
「起きたんですか」
「いや、寝てねーし」
 なにをいっているんだ!?

「今夜は妙な輩が混じってるね」
 葉巻の女は、先ほどまで棒切れさんがいた席に座った。
「あたしにもホットワインを」
 言うが早いか、既に隣の席にはホットワインが差し出された。
(本当に。まるでこちらの間を読んでいるようだ)
 感心しつつ、彼女になにか話しかけたい衝動に駆られた。ただ、ここで先ほどの歌について話すのは野暮だと思った。

「いやーお姉さん。いい味出してるねぇ」
 葉巻の女はちらりと一瞥するだけでなにも答えない。
「ねぇねぇ歌手なの? ここのひと?」
 それでも彼は諦めない。

「アンタ、うるさいよ」
「いいねぇ、それ。かっこいい」
 悪びれない彼に、葉巻の女は顔を見ることなく、小さく舌打ちした。

「お姉さん、お名前なんてーの?」 
 ここで名を聞くのは……!
「なんなんだい! コイツは」
「す、すみません」
 思わず口をついて出た。

「あんたの連れかい?」
「いえ。そういうわけでは」

「なんだよ、つれねぇな。唯一のお友だちでしょー。でもそっかぁ。オレ、あんたの名前も知らねーや」
 ははっと、彼は乾いた笑い声を立てる。

 ここではだれも、なにも聞かない。
 なのに、彼だけが場の隙間をぬってくる。

 空気を変える意味で、彼女にも質問を投げてみた。
「あなたの夕食はなんでしたか?」
 突飛すぎただろうか。彼女は呆気にとられたような顔で、
「あんた、見てただろう。葉巻だよ、あたしのは」
「葉巻……」
 それは食事じゃないだろう、とも思ったが。なるほど。だからあの時間だったのかと納得もさせられた。

 さて。彼女は客なのか、宿の者なのか。
 客かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 ただ、あの食堂に通されたということは、やはり客なのだろう。けれど「初めてではない」気配きびもある。

「あなたは図書室には行かれましたか?」
 いきなりだっただろうか。
「あぁ、行ったよ。変なものがあったから覗いただけだけど」

「だよね! おかしいよね、あの図書館」
 また彼が割り込んでくる。
 あからさまに葉巻の女の空気が冷えた。

 そこでバーテンダーが、葉巻に火をつけ彼女に手渡した。
 彼女は黙って受け取ると、立ち上がり「いい夜が台無しだ」と言い捨てて煙をひとつ吐いた。
 少し引っかかるが、これ以上話し掛けられたくはないのだろう。

「でも。朝は必ず来るんだよ。だれにでも、平等にね」
 その言葉だけを静かに残し、階段を登って行った。

「あれ、いっちゃうの? ちぇ~」

 この宿にたどり着いた時には漠然と、しばらくここから離れられないかもしれないと思っていた。だが彼女のひとことで、明日は旅立たねばならないような気がした。
 理由はない。ただそれだけがはっきりと残った。

 明日の朝、もう一度あの図書室に行ってみようか。けれど、それが必要なのかは解らない。朝になれば、なにかが見えてくる気もする。

 今夜は思いがけずたくさんのひとと出会った。
 ここがどこで、自分がどこに向かっているのかすら思い出せないのに、不思議と偶然だけが繰り返された。

 傷を負った戦士。
 人付き合いの苦手な優男。
 帰る場所のない旅人。
 魔法を忘れてしまった魔女。
 婚約者を失った女。
 人を殺しかけた騎士。

 そして……。

第六夜 忘れ物

 まだ話し続ける彼を残したまま、酒場をあとにした。
 呼び止められたような気もしたが、もう相手をする気力はなかった。

 追いかけてはこないようだ。 

 少し酔ったのか、階段を上る足が重い。
 大して飲んでもいないのに。

 部屋の中は静かだ。
 まるでここだけが地球で、扉の向こうには宇宙が広がっているような孤立感を覚える。安全なはずなのに、取り残されたような不安がじわじわと沁みてくる。

 深く息を吐き、ベッドに腰を下ろす。

 ベッドサイドには湯気を立てたミルクに、クッキーが添えられていた。
 ありがたい。宿の計らいだろうか。
 なぜミルクなのだろう。こんなものを飲む習慣はなかった。それにクッキー、この形には見覚えがある。

 照明が揺れる。
 窓の景色が変わった。

 あれはどこだろう。
 陽差しの中、ひとつの家族が楽しそうに過ごしている。それぞれ別のことをしているのに、同じ空間にいるというだけで温かい。
 自分にもそんな時間があった。ただ、それがどんな光景だったのかは、うまく形にならない。

 窓辺に吸い寄せられるよう立ち上がると、ポケットの違和感に気づく。
 すっかり忘れていた。ポケットに手を入れる。そこにはなにかの「隙間の形」だけ。だが確かになにか在る。

 思い出しかけて、そのまま腰が落ちる。
 ミルクに手を伸ばす。ひとくち。甘くない。砂糖は要らなかった、と思う。
 クッキーを手に取る。口に含む。それが順番だった。そんなやりとりを知っている、気がした。

 ひとすじの涙が零れた。

終夜 揺らいびと

 翌朝、帳場には見知らぬ人影があった。
 宿の主、だろうか。だが輪郭がはっきりとしない。

 そこに「いる」というより、そこに少しだけ濃い影が揺らいでいる。見ようとすると薄れてしまう、実態のない残像のようなものだった。 

 帳場の前を行き交う人影。宿にやってきた客か、これから旅立つ者か。だがそれらがすれ違うことはない。
 旅立つ者には出ていく足音だけが響き、たどり着いたばかりの者はまだ意志が揺らいでいるためかぼんやりとしている。

 今朝は旅立つ者の足音がよく響く。

「もう少しいらしてもいいですよ」
 その言葉にどこか救われたような顔を見せる。まるで、ずっと前から欲していた言葉をやっと受け取ったかのように。
 感じ方はそれぞれだが、みな、来た時のような重苦しい表情ではない。

 宿の朝は忙しなくやってくる。廊下を行き交う足音も、たどり着いた時のようなたどたどしさはなく、はっきりとしている。

 いつの間に眠ったのか、気づくと朝になっていた。飲みかけのミルクだけが、昨夜のできごとを語っていた。
 ゆっくりと身を起こし、荷物を確認する。たいした荷はないはずなのに、なぜか手が止まる。このまま部屋を出るだけのはずなのに、腰が上がらない。

 ふと、図書室の光景が脳裏に浮かんだ。
 はっきりと立ち寄る意思があったわけでもないのに、ソファの上の本だけがやけに鮮明に思い出される。なんとなく、ページがめくれたような気がした。

 確かめたいという気持ちが、重い腰を持ち上げる。
 気づけば靴も履かずに、部屋を飛び出していた。

 廊下はとても明るい。
 視覚では捉え切れないひとの気配が、そこにあった。以前の様子とは明らかに違う。
流れに逆らうように、あるいは紛れ込むようにして図書室を目指した。

 室内は静まり返っている。心なしか肌寒い気もした。
 前日の気配はまだどこかに残っていた。だがそれが現実だったのかどうか、確かめる術はもうない。

 まっすぐとソファに向かうが、そこにはなにも置かれていない。
 なぜ、という思いと「やっぱり」という感覚が同時にあった。

(初めからなかった……?)
 いやあの時、確かに本は閉じた。

 辺りを見回し、書棚に向かう。

 相変わらず曖昧な接続詞が並んでいる。気には掛かるが、手に取るほどではない。それでもどこかに、自分のための本があるのではないかと期待してしまう。
 思い出し掛けて空を切る。

 もうここにはないのかもしれない。

 振り返る理由はないはずなのに、気持ちだけが置き去りにされたように感じる。それでも足は、図書室に未練を残さなかった。

 部屋に戻ると、窓辺には眩しい朝陽が差し込んでいた。目覚めたときは意識もしていなかった外の景色が、急に懐かしくなる。

「出発の時間だ」
 身支度を整え部屋を出る。

 階段を降りる途中、なにか踏んだような気がして足を止めた。足元を見ても、振り返ってもなにもない。
(気のせいだろうか)

 階下は騒がしいものと思っていたが、結局だれにも会わなかった。ただ帳場のあたりで、視線だけが一瞬触れたような気がした。だれかが「いる」というより、見られているという感覚だけが背中に残る。

 帳場の前にまずは食事か、と食堂へ向かう。湯気の中、食器の音だけが迎えてくれた。

 そこが自分の席だと言わんばかりに、吸い寄せられるように空いている席に向かった。すでに温かな食事が置かれている。

 席につくと、視界が少しずつひらけていく。

 食事はどれもどこか似ているようでいて、よく見ると違っていた。湯気の立ち加減も、器の形状も同じものではない気がするのに、確かめようとするとすぐぼやけてしまう。
 スープは温かいのに、口に運ぶ瞬間わずかに温度が揺らぐ気がした。冷たいわけではない、ただ不確かなのだ。
 パンはやわらかい。けれどかじった断面がほんの少し、遅れて形を思い出しているかのように見える。すべてが曖昧で、最初からそうだったともとれるのだ。

 食べている、という感覚はあるのに行為だけが先に進んでいく。その味や意味はあとから追いかけてくる。皿が減っていくことが、食した結果からなのか、そう見えているだけなのかも曖昧だった。
 それでもだれも気にしない。気にしないというより、その動作自体が薄いのだ。ここでの食事はもう意味をなしていないようだった。

 旅立つ前の通過儀礼のような食事だった。満ち足りたような感覚だけが、そこにあった。
 顔を上げると、昨夜酒場で見かけた顔ぶれがちらほら見える。会話もなく、視線が重なることはなかったが、食事を摂る者も、食事を終えた者も俯いてはいない。食器の音だけが続いていた。

 どこかで「ガハハ……」という笑い声がしたような気がする。アイパッチの男はもう食事を終えたのだろうか。
 棒切れさんはここにはいないようだ。昨夜の様子を思えば、まだ寝ているのかもしれない。

 とんがり帽子の魔女は今朝もなにかつぶやいている。だがそれが、独り言なのか会話なのかは解らない。ただ、目の前にあるのはスープボウルではなく水晶玉のようだ。対面にだれかがいるようでもあり、ひょっとしたら占いでもしているのかもしれない。

 相手のいないテーブルで乾杯していた老人は、黙々とパンを食んでいる。だがその動きは「食べている」というより、なにかを確認しているようにも見えた。寝巻のままということは、すでに旅は終えたあとなのかもしれない。

 こざっぱりとした服装をしているが、あれはドレスの女性だろうか。一緒にいた甲冑の騎士の姿はない。鎧だけが床に置かれている。あとからくるのか、それとももう別の場所に出掛けたあとなのかもしれない。

 どこか騒がしさのようなものが胸にざわめく。だがそれも、すぐに食堂の音にかき消されていく。
 このままここにいてもいいのかもしれない、とどこか名残惜しさが沁みてくる。それでもどこかへ向かわなくてはいけないような焦燥感もまた同時にやってくるのだ。
 どちらが正しいというわけでもない。ただそのどちらにも少しずつ気持ちが揺れている。この食事はそういった揺らぎをただそのままの形で置いているだけだった。

 みな、朝がくれば行き先は決まっていなくとも出掛けなくてはいけないような気に駆られている。どこかへ、あるいは「行くべき」どこか場所へ向かわなくては、という気ばかりが逸る。

 気づけば手が、荷物の方へと伸びていた。理由はない。ただそうしてしまった、というだけのこと。

 なにもかもがまるで夢ように、けれど確かなものもある。
 そうして真揺いびとはただの旅人に戻る。それぞれに自分の道へと還っていくのだ。

 初めからなにもなかったかのように、一夜の出来事が解けていく。それでも消えないなにかだけが、こころの澱となって沈んでいる。

 ここはこの世の狭間だろうか、それとも隙間。または既に、別の場所どこかなのだろうか。
 だが、自分は確かに「生きている」のだという感覚だけは残っている。
 根拠はない。ただそれだけが現実だった。

 ひとつだけ、夢ではなかったと言えるものがある。
 旅人のポケットの中には小さな部屋の鍵が残されていた。
 鍵のない宿に「なぜ」と思うかもしれない。けれどもそれは持ち帰るためのモノではなく、思い出すためのモノでもない。
 宿は旅人の邪魔をしない。
 宿は記憶を渡さない。ただ通り過ぎるための証を残す。

 鍵に刻まれた文字はひとつ。
『疲れたら、またおいでください』

 旅人はその言葉をどう受け取るのだろう。
 懸念か、安堵か。
 立ち止まり、感触を確かめ、踏み出すのか、引き戻されるのか。

 旅人はそれを意味としてではなく、ただの重さのように感じていた。手の中に残るには軽すぎて、失うには少しだけ確かすぎる。
 それでも不用意に試そうとすると、また輪郭だけが不安定になる。

 行き先は決まっていない。それでも足は、知っているかのように旅路を急ぐ。選んだわけではなく、選ばれているような実感だけが残っていた。

 どこで耳にしたのか定かではないが、噂では、主は時折顔を出し「ずっとだれかを待っている」のだ、という。
(はて、だれに聞いたのか……)
 その記憶もまた朝の光に透けていくようだった。

「……おーい」

 どこからか声が聞こえる。
「なぁ。ここどこよ?」

 昨夜の騒がしさがまだ、階段の途中で迷っているのか、どこかで躓いているようでもあった。
 けれど答えを返す者はいない。
 あれほど騒がしく、なにかを求めて彷徨っていたはずなのに、今はその形だけが階段の隅でおとなしくしている。

「おーい。友だち」
 呼び声だけが少し遅れて振りかかる。

 けれどもだれも振り返らない。
 朝の光はいちいち影を拾わない。

 ただ、ほんの一瞬。
 帳場の影が、わずかに掠れた。
 だれかがそこに「いる」というより、呼ばれる音にだけ反射するように、溶けきれないなにかが重く押し流される。

 しゃらしゃらと、光が激しく乱反射する。鈴が転がるような、子どもの笑い声のような、そんな感覚にとらわれる。

「友だちってだれだよ」
 光が応えているのか、風が笑いを堪えているのか解らない。微かなこだまだけが空回りして、言葉だけがやまびこのようについてくる。
 だが返事はない。あるいはもう、返す必要がないのかもしれない。
 この宿では、呼びかけは届くが、応答は約束されてはいない。

 階段の途中に、なにかの隙間のような形が浮かび上がっている。
 ポケットに突っ込まれていたような、くしゃっとした形を取るようで、そうでもないなにか。

 だれのものかも解らない。ただ、そこに「在る」。
 触れれば思い出せそうだが、触れた瞬間別のなにかにすり変わってしまいそうで掴めない。
 だからだれも拾わない。 なにかがそっと、書庫に還るだけ。

「なぁってばー」
 声はまだ続いている。

 けれどその声さえも、少しずつ薄らいで行く。
 朝の光に滲むような、光に飲まれてしまうことを惜しむように。

 帳場の影は、もう揺れることはなかった。
 そこにいたはずの気配は、最初からなかったかのように静寂に戻る。

 ただ、ほんの少しだけ。
 だれかを「待っていた」形だけが残っている。

 そして旅人はすべてを忘れて歩き出す。





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ひらさわ たゆ まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します