ナツと桜

【あらすじ】

 ナツにはヒナタという幼馴染が居た。しかしこのヒナタ、少し変わっている。特に誕生日にはなぜかその色が濃くなる傾向があった。そのためヒナタが二十歳の誕生日を迎える今日、ナツは例年通りヒナタのサポートに向かうことになる。
 そんなヒナタだが、毎年の不可解な行動にはどうやら桜が関係しているようだ。ナツのサポートで、ヒナタは通過儀礼とも言える数々の変わった行動をクリアし、最後、桜との儀式を始める。
 しかし、ここであるトラブルが発生する。それによりヒナタは危機的状況に陥り、ナツも決断を迫られることに。だが、そんな窮地だからこそ見えて来る自分も知らない自分が、二人の関係を打ち破るカギになる。


【本編】
 
 ヒナタは踊っていた。春の風を全身に受けながら、鳥のさえずりに合わせて軽やかにステップを踏み、ターンをし、氷上を滑るように進む。おもむろに太陽に向けて手を伸ばすと、生命力を感じる熱と、手のひらからこぼれ落ちる光の筋にうっとりとした。天地のあらゆる知覚情報が刺激となり、ヒナタは天地と一体に、あるいは天地の化身にでもなったかのように、滾るエネルギーをそのままに身体を動かし続けていた。これが四月十六日。これが私の日。

「ヒナタ!」

 名前を呼ぶ声に、グワンと頭を思い切りぶたれたような、でもどこか気持ちのいい感覚がした。振り返ると道の先に、春を纏う爽やか格好をした女の子が、バックの紐を手で抑えながら懸命に走って来ていた。ナツだ! ヒナタは嬉しくって飛び上がり、全身でナツを迎え入れる準備をした。全力で駆けて来るナツを見ていると、その内、口に入れてしまいたいという欲求がムラムラと湧きあがり、ヒナタは大きく口を開けた。

「ちょっと!」

 ナツは飛びかかって来たヒナタを正面から受け止め、その、リンゴが入って来るのを待っているカバのような腑抜けた顔を軽く叩いた。

「ヒナタ! 私が来るまで家で待ってるって約束だったじゃん!」

 ヒナタは叩かれた頬を押さえ目を丸くしていたが、間もなく変に脱力した笑みを浮かべた。

「それは無理だよお。だって呼ぶ声が聞こえるんだもん、今日はヒナタの日だよってえ」

「いい加減にして、今日は四月十六日じゃないわ!」

 え。ヒナタは一瞬、時が止まったように感じた。目の前のナツは怖ろしい顔をしている。いや、そんなはずない。朝起きてすぐにベッドの上で確認した、スマホには四月十六日だって。ヒナタは信じられないような気持ちで記憶を遡る。が、その最中、部屋を取り囲んでいた四方の壁が一斉に倒れてしまったような、そんな感覚にヒナタは陥った。いつの間に、ヒナタとナツの周りに人だかりができている。所々から聞き取れないよう計算された不快な話し声と、刺すような視線を感じた。停車した車からはクラクションが繰り返し鳴らされ、向こう側から制服を着た警官が走って来ている。

「逃げるよ、ヒナタ!」

 ナツは立ち尽くすヒナタの手首を取って走り出した。人だかりを強引に突破し、戸惑いと怒りの声を背中に受ける。「待ちなさい!」 すぐに二人の警官が追いかけて来たが、その頃にはヒナタもひとりでに走り出し、一目散に目の前の道を突き進んでいた。

「そんな……」

 ヒナタは走りながらひどく寒気を感じ、吐き気さえ催していた。いつ横を見たって、ナツは怖い顔のままだ。今日が四月十六日じゃない? だったら、私はどんな勘違いをしていたの。ゾクッと、したくもない想像に全身が粟立った。もし、もし四月十六日を本当に飛ばしていたとしたら、その時私は——。

「まだダメ、追いかけて来てる」

 油断したらすぐにでもしゃがみ込んでしまいそうなヒナタに、ナツの言葉がムチのように飛んできた。振り返る暇はなく、ヒナタは今にも泣き出しそうに、だが懸命に走り続けた。

……全く、なんで毎年こうなるのよ。ナツは内心ため息をついた。しかし、もはやお決まりの流れだ。ナツは内から湧き出て来る、この場には不都合な感情を奥歯で噛み殺しながら、ヒナタの横で怖い顔を維持し続けた。


 一機のヘリコプターが、唸りながら低く空を飛んでいる。

「私、ウソは好きじゃない」

「そんなこと言ったってしょうがないじゃん、咄嗟だったんだから」

 二人は入り組んだ場所にあるひっそりとした公園に逃げ込み、土汚れたテントウムシの遊具に身を隠していた。ナツはいくつか空いた水玉模様の穴から外の様子を窺い、その間分かりやすく不機嫌なヒナタは、ブツブツと不満を漏らしている。

「私にとって四月十六日がどれだけ大事な日なのか、やっぱりナツは分かってないんだ」

 声を聞いてナツは振り返る。テントウムシの中で膝を抱えて小さくなっているヒナタだが、それでもずいぶん窮屈そうに見えた。

「ヒナタ」

 ナツははっきりと名前を呼んだ。ナツの靴が鳴らした硬い砂利の音に、ヒナタの肩がビクッと動く。

「お誕生日おめでとう」

 こんな狭い場所に居るからだろうか、その言葉は固く守られていたはずの、ヒナタの柔らかい部分にまであっさりと到達した。すぐ目の前には、裏表の無い安心感のあるナツの笑顔が浮かんでいる。ヒナタは危うく相好を崩しそうになったが、ナツの怖い顔やウソをつかれたこと、自分が不機嫌であったことを思い出し、寸前で堪えた。

「……うん」

 小さく返事だけして、そっぽを向く。

「え?」

 すかさず言葉が飛んできた。ヒナタはぎこちなく首を動かして、もう一度正面に顔を戻す。ナツは逃げ場を無くすようにテントウムシの入り口を塞いでいた。地面にはいくつもの水玉の陽光。ナツのいたずらな笑顔を見ている内に、逃げ場など必要ないことを思い出す。

「……ありがと」

 我慢していたのに、結局最後に吹き出してしまった。そうなったら後はもう、悩ましいことなんて何一つ無かった。


 気分も状況もいくらか落ち着き、二人は外に出て公園のベンチに腰を下ろした。ナツはバックから小さな魔法瓶を取り出して水分補給。ヒナタもそれを少しだけもらう。

「こんな所に公園あったんだね、知らなかった」

 小さな公園だが、取り囲むように植えられた桜の木はどれも大きく立派だった。満開の時はさぞかし見ごたえがあっただろう。縁石に溜まった、少しだけ茶色がかった花びらを見てナツは思った。そして、少し寂しくなる。

「今年はもう終わりだね」

 ベンチを陰らせる正体を見上げ、サラサラという涼し気な葉の音に耳を澄ませる。ナツは年々、不思議と桜に対する思い入れが強くなっているように感じていた。それは子供ではなくなってしまったことの証明か、この時期に集中した行事と記憶のせいか。別に、桜が散っても陽気な春の日は続く。それに春が過ぎてしまったとしても、次に来る夏は無論、ナツが一番好きな季節だ。それなのに小さな花びらが散ってゆく様を眺めていると、ふと物思いに耽ってしまう。教えでも決まりでもないのに、私の何かがそうさせる。

「どうなの、最近は。特に変わりはない?」

 ナツは気を紛らわすためにも、隣のヒナタに訊いた。

「ウン」

 でも形だけ。意識はきっと、どこか遠くに行っている。先程から妙に大人しい。座り方が定まらないのか、一度立ち上がってまたすぐに座ったりしていた。

「そう言えば単位は? きちんと取れたの?」

 適当な話題だ。特に反応を期待していた訳ではなかったのに、ナツが言い終えようとしたその時、「バチンッ!」と、凄まじい勢いでヒナタが手を叩いた。

「そう、たんい! めっちゃいっぱい取ったんだよ!」

 跳ねるような声色。人差し指を突き立てて、さも得意げだ。

「……どのぐらい? 上限まで取ったってこと?」

 ナツは、自分の耳の存在を指で確かめながら訊いた。

「それは知らないけど、でも結構取った方だと思うよ。少なくとも友達の中では一番取ってたし」

「それ、何人なの?」

「二人」

 ヒナタがピースしながらそう言った。二人じゃあ分かんないよ、ナツが笑うと、ヒナタはその後にニコリと笑った。全く相変わらずだなあ。でも、まあ平均以上には単位を取れていると見て良さそうだ。去年の大学入学当初、全く大学のシステムを理解せずぼんやりとしていたヒナタに代わって、届いた資料と履修要項のPDFとにらめっこして時間割を組んでやり、加えて早めに単位を取ることの重要性を説いておいて良かった。甲斐あったというものだ。ほっと安堵のため息をつく。

「でもすごいじゃん。この調子で二年終わるまでは沢山取っちゃいなよ」

 ナツはやんわりと釘を刺しつつ、笑顔を作った。けれど、今度のヒナタは何も反応しない。途端に興味を無くしてしまったのか、遠い目をして、ただ一点をじっと見つめていた。ここら辺も相変わらず、毎年の四月十六日と言った感じだ。ナツは濁りの少ない咳払いを一度した。そして静かにため息をついた。しかし今度のため息は、自分自身を落ち着かせるために。

 そっか、二人も。

 ざわざわと、ナツの心が揺れている。どうしてこんなに心が揺れているのか、ナツは咄嗟に自分で分からないようにした。目を閉じて耳を塞いで、真っ黒い箱に閉じ込めて。

「………」

 すると、前触れもなくヒナタが立ち上がった。表情の読めない顔に目だけを大きく広げて、砂利を踏みしめながらその足は遊具の方向へ。背中が少し曲がり、定まらない足取りは見る人を不安にさせる。そうだ。ナツは水面から顔を上げたような気分でいた。いま心が揺れているのは紛れもなくヒナタなのに、支える側の私が揺れててどうするの。ナツはパンッと両頬に気合を入れ、すぐにヒナタの後を付いて行った。

 ヒグマみたいだ。いつかに抱いた、この状態のヒナタに対する印象をナツは思い出して、そして今回もやはり同じように感じていた。置いてある遊具をまるで知らない物のようにソロソロと触れたり、地面の小石を拾ったと思うとすぐに捨てたり。突然立ち止まって辺りを見渡したと思うと、一瞥もしていなかった方向に歩き出したり。要するに、今のヒナタが一体何を考えていて、何をしたいと思っているのか、全く想像ができないのだ。それどころか、時折自分の手足を珍しそうに眺めたり、顔のパーツを指でずーっと確かめていたりもして、もはやヒナタ自身すら分かっていないんじゃないか、と思えてしまう。ナツはそんなヒナタを少し後ろに付いて見守りながら、静かに時が過ぎるのを待っていた。

 それにしても、どうしてヒグマなのか。もっと正確な例えがあるだろうと、ナツも思っている。飽くまで、ナツの生涯で見知ってきたものの中で一番近かった、というだけだ。ただ、直感で抱いた印象というのも案外バカにはできない。それなりの大きさ、雰囲気、愛くるしさ、そして怖さ。あれから少なくとも七・八年は経ったが、現状、これに代わる例えは見つかっていない。なにより、ナツ自身が気に入っていた。苦しんでいるとも取れるヒナタの今の状態をクマなど、少し悪いような気もするが、一年の内たった一日だけだ、許してもらおう。

 ヒナタは相変わらず二足歩行に慣れていないみたいに歩いていたが、その足がおもむろに止まった。錆びの目立つブランコの前、二つの座板が風で不規則に揺れている。すると、ヒナタはブランコを囲む柵をひょいと乗り越え、右の方に座った。なにをナツは勘違いしていたのか、小さすぎて座れないんじゃないかと思っていたブランコの座版に、ヒナタの身体はすっぽりと収まっている。そしてヒナタは地面を思い切り蹴ると、ブランコを漕ぎ始めた。先程とは一変、弾けるような笑顔を浮かべている。どうやら、今年はこれで決まったみたいだ。ナツはブランコの反対側に周ってから、左の方に腰を下ろした。ヒナタはすっかりブランコに熱中していて、その震動が鎖越しに伝わってくる。さて、これから数時間どうしようかな。別に一緒になって漕ぐ必要はないんだけど。ナツは座板にお尻を付けたままゆっくりと後ずさった。チラチラと公園の外が気になる。でもまあ、ギリギリ十代だし。ナツは遠慮気味に足を地面から離した。ぐあん。するとブランコは、そんな小さな葛藤などお構いなしにナツの身体を前に運んだ。その容赦の無さが懐かしくて、心地良くて、気づけばナツも夢中でブランコを漕いでいた。


 何が引き金か、桜の木に止まっていた十匹ほどの鳥たちが一斉に飛び立った。ギイ、ギイ。ヒナタの漕ぐブランコの止め金具が、無視できない程の悲鳴を上げている。ナツは、その見たことも無いブランコの角度に愕然としていた。これでは一回転してしまうのも単純に時間の問題では、本気でそう思えた。

「ヒナタはさ、ブランコいつぶりなの?」

 ナツは何とかヒナタの勢いを止めようと話しかける。

「全然! 小学生から乗ってないよ!」

 マヌケみたいに大きな声でヒナタが答える。

「私ブランコ大好きだったんだよ。思い出した!」

 激しいブランコの往来と、ドップラーらしき現象のせいでナツは頭が痛くなってきた。地面に足を付けてブランコを止める。ナツの視線の先、広場の方では、少し前から地元の小学生らしき子供たちが玉遊びをしていた。どうも、こちらの存在が気になってるようだ。

「ねえ、大丈夫?」

「うん!」

 ギイ、ギイ。ヒナタは漕ぎ続ける。最高地点ではピンと足を伸ばし、最低地点では足を折って鉄球のように身体が縮こめて。一連の動きがその道のプロのように少しも淀みが無い。まあ、言っても止まる訳ないよね。ナツはブランコに座ったまま空を仰いだ。文句のつけようがない晴天がどこまでも広がっている。記憶では、四月十六日に雨が降ったことは一度もなかった。日差しは強いのに暑さは感じず、いかにも地球が生命の星であることを知らしめるような清々しい風が吹いている。ナツはゆりかごのように揺れる(揺らしている)ブランコに誘われるように、今日まで続くヒナタとの少しだけ奇妙な日々を想った。

 ヒナタの誕生日における一連の行動は毎年の事だ。詳しいことは知らないし、知る必要もないから訊いてもないけど、こと四月十六日においては、ヒナタはヒナタで無くなってしまう瞬間がある。例えば、今年は『ブランコ』だった訳だけど、去年は『ボーリング』、一昨年は『歌』のように、何か一つの物事に対して数時間と没頭し続ける。水辺に泳いでいる魚を五六時間凝視していたこともあった。そして忘れもしない。ヒナタが『走る』と決めた六年前の今日、ナツは地獄を見た。

 日が傾き始めてからも際限なく走り続けたヒナタ。当時バスケ部に所属し、まだ体力があったナツも遂についていけなくなり、見知ぬ土地ではぐれてしまった。すぐにヒナタの家に連絡をして、警察と親切な近隣の人たちも巻き込んで、深夜までヒナタの行方を捜した。

「ナッちゃん、ありがとうね」

 家まで送ってくれたヒナタのお母さん。その表情から服装から鮮明に覚えている。結局、次の日の登校時間ぐらいに、隣町でもない町の交番に保護されて、無事に帰って来たらしい。わざわざ家までお母さんと一緒に謝りに来てくれたけど、当の本人は「なぜこんなことになったのか」と当惑している風だった。あの時ばかりはヒナタのことが分からなかったし、底知れ無さに恐怖さえ感じてしまった。

 それに加えて、ヒナタはこの日を境に人が変わってしまう。つい前日まで仲良くしていた友人に、突然よそよそしい態度を取り始めて関係がぎくしゃくしたり、趣味嗜好、得意不得意さえ変わり、それは随分と周りを困惑させた。ナツは毎年欠かさずヒナタの誕生日を祝いながら、その度にヒナタのフォローに徹し、高校卒業までの学生生活の大半はヒナタに費やしたように思う。

 ナツは時折、特にヒナタのクラスの前で終わりを待ちながら、通りかかるクラスメイトと手を振って別れた時なんかに、もし、ヒナタがヒナタじゃなかったら、全く別の学生生活が待っていたのだろうな、と空間に空いた穴でも眺めるみたいに漠然と思うことがあった。放課後の過ごし方とか、休日の遊び方、友人関係に恋愛事情だってきっと。それでも、扉が開いて賑やかな教室の中にヒナタの姿を見つけると、そんな妄想は遥か彼方に飛ばされて、ナツはヒナタを特別な笑顔で出迎えた。

 ギイ、ギイ。ブランコから離れた場所でしばらく遊んでいた地元の小学生だが、早々に引き上げるみたいだ。興を削がれた要因に正直すぎる視線を送りながら、未練がましく去って行く。ごめんね、ほんとに今日だけだから。ヒナタは会話が無くなったことなど全く気に留めていない様子で、一回転こそまだしていないが、夢中で漕ぎ続けている。風が一段階冷たくなり、桜の花びらが公園の木々からまた散ってゆく。ナツは小さくブランコを揺らしながら、日暮れを告げる侘しい鳥のさえずりに耳を澄ませていた。


 砂利と靴が摩擦する激しい音が断続的に続いた。気づけば、ヒナタがブランコを止めている。

「ヒナタ?」

 ナツは声をかけるが、瞬時にあの「儀式」が始まることを察した。ヒナタはフラフラと歩いて間もなく、ブランコを囲う柵に摑まると、そのまま屈み込んで立てなくなってしまった。

「やばい、気持ち悪い」

 ぽたぽたと、地面に大粒の汗が滴り落ちていた。漏れ出る嗚咽がナツの心を痛める。

「大丈夫。ゆっくり息吸って」

 ナツはヒナタの背中にやさしく手を置いた。背中はジトっと冷たく湿っている。その息遣いと背中の上下で、ヒナタは言われた通り深呼吸を試みていることが分かった。だが上手く行っていない。

「……!」

 ヒナタがじっと、執念を感じさせるように顔を上げると、すぐに力を無くして落ちた。そして堪えていた分、余計に荒くなった息が再開される。ヒナタの視線の先——ナツにはその意味が分かった。ヒナタの脇から背中にかけて腕を回し、柵を摑んで離さない五本の指を、一本一本引き剥がす。

「頑張って、立つよ」

 ナツは腰を据えてヒナタを抱えると、足腰に力を溜め、そして一思いにヒナタを引き上げた。危ない、年々ギリギリさが増しているような。ナツは辛そうなヒナタの様子を横目で窺いながら、一歩一歩慎重に歩を進めた。そして砂利の地面から外に出て、ブランコから一番近かった桜の木の下に辿り着くと、ナツはヒナタを下ろし、木の幹に寄りかかる形で座らせた。しばらく辛そうに目を瞑っていたヒナタだが、次第にその目が開き、ナツと同じぐらいの時間で元の呼吸を取り戻していた。

「どう、やっぱり落ち着く?」

「……うん」

 ヒナタはそよそよと風に揺れる枝を見上げながら、静かに息をしている。表情が移ろい、しばらく目を開けたり閉じたりしている。この時のヒナタが何をしているのか、その身に何か起こっているのか、ナツには分からない。散る花びらを見ているのか、耳を澄ませているのか、それとも草木のにおいを確かめているのか。ただ、その表情だったり雰囲気だったり、身を委ねている感じだったりを見ていると、ヒナタにとって一番の理解者は桜なのではないか、と思ってしまう。もちろん「私だって」と思うナツも心の片隅には居るが、一概にヒナタへの理解度で推し量れるような話ではないことは、ナツ自身が一番分かっている。

「ナツ」

 ヒナタが名前を呼んだ。少し距離を空けて見守っていたナツは「なに?」と明るく答えて側に近寄った。ヒナタはリラックスした様子で、桜を見上げている。

「ほら、もうだいぶ散ってる」

「そうだね、今年は結構早かったね」

 あの瞬間が、近づいてきている。ナツは気を利かせる。

「どう、上手くできそう?」

「うん」

 ヒナタは一度体勢を直して、頭を木の幹に押し当てた。

「できると思う」

 それからヒナタは目線を上にあげて、そのままじっと桜の木を見上げていた。

 日が暮れてからそこまで経っていないが、公園は恐ろしく静かだ。土汚れたテントウムシや錆付いたブランコ、その他の遊具たちもそろって沈黙している。そんな頃、ナツは桜の木の根元で右往左往する生き物の影を見た。尻尾の感じで多分リスだと思う。そのリスはどこかジタバタした様子で、素早く動いては立ち止まってを繰り返し、心細そうに辺りを見渡している。大方、寝過ごしてしまったのだろう。ナツは少しだけ緊張がほぐれたような気がした。リスは小さく跳ねながら隆起した木の根を越え、ヒナタが寄りかかっている桜の木に、重力を感じさせないスムーズさでよじ登った。しかし、その動きが途中でピタリと止まる。すぐ横にヒナタが居るが、そちらを気にしている様子は一切無い。むしろその先に警戒心を向けているようで、遂には登るのを止めてしまった。辺りを見渡し、今度はヒナタの長い足を飛び越えた。足の間でしばらく逡巡、そしてもう一方の足も越えてから、あの特徴的な尻尾が見えなくなった。その間ヒナタは一つも動かず、足元に広がる大きな桜の影が、風でわずかに振れているだけだった。

「ヒナタ?」

 沈黙に耐え兼ねてナツは声をかけた。何だか、例年より時間がかかっているような気がしたから。

「ねえ、どうしよう」

 ヒナタの声が、強張っている。

「見つかんない」

「え?」

 ナツはとりあえずヒナタの元に駆け寄ったが、心中穏やかではない。こんなこと、初めてだった。ヒナタと同じように上を見上げると、影の濃淡で奥行きこそ分かるが、昼時とは一変した真っ黒い桜の内部が見えた。

「何が見つからないの?」

「どこにも見つからないんだよ目印の光が! 全部真っ暗なんだ!」

 ヒナタは酷く混乱しているようで、自分の言葉により一層興奮してしまっている。

「ヒナタ、落ち着いて。毎年できてたんだから今年も大丈夫だよ、ゆっくり探せば絶対に見つかるよ」

 ナツは自分の役割に沿って言葉を投げかけるが、その声にどうしても不安が滲んでしまう。

「違うよ、ほんとにどこにも無いの! なんで。どうしよう、ほんとにどういう意味か分かんない」

 ヒナタは足をバタつかせ、髪を掻きむしった。呼吸が荒くなり、二つの目が地上に打ち上げられた魚のように動いている。

「ああどうしよう、し、やばい。私どうにかなっちゃうかもしれない」

「なんでよ、なんでいきなりそんなことになるの!」

 叫ぶようにナツが言うと、ヒナタはウッと一瞬言葉を詰まらせ、胸を押さえた。

「……私じゃない何かがもう私の中には居るの。今にも私に変わろうとして内側からガンガンガンガン叩いてるの。でもそれが誰なのか分からない、目印の光が無いと私には全く手に負えないんだよ! 形も大きさもぐちゃぐちゃで全然何か分かんない。それなのに、桜がもう…」

 黒い花びらがひらひらと、確実に桜の木から数を減らしている。

「なに、桜の花が大事なの? だったら……ほら、あの桜だったらここよりも花が残ってるんじゃない?」

「ちがう、ちがう」

 ヒナタは疲れ切った声でそう繰り返した。それを聞いたナツは、グッと奥歯を食いしばった。何よ、何が違うのよ。私だって分かんないんだよ。するとヒナタが突然、自身の右手と左手を合わせた。そしてゆっくりと時間をかけながら、指と指が絡み合い、向きを変えて形を変えて、それはぐちゃぐちゃと動き始める。まるでヒナタとは別の何かが、命を持って蠢いているように。ヒナタの息がひどく荒い。そして、それを見るヒナタの表情が尋常ではなかった。

「待ってヒナタ! お願いだから一回落ち着いて!」

 ナツはヒナタの身体を正面から抱きしめ、とにかく耳元に言葉をかけ続けた。しかし、腹の辺りで押さえつけたはずの何かは蠢き続け、ヒナタはうわ言を言ったりして依然パニック状態のままだった。

 毎年上手く行ってたのにどうして、何で今になってよ。ナツはヒナタを必死に木の幹に押さえつけ、「落ち着いて」と願うことしかできないことが、悔しくて、涙が出そうだった。十数年も一緒に生きて来て、結局私はヒナタのことを何も知らない。花びらを散らしながら聞こえる桜の木のざわめきが、低い笑い声のように聞こえた。この先にどんな結末が待っているのか、ナツにはたまらなく怖かった。かと言って何もしてやれない、言っていることすら理解できない。もういっそ、全てを放棄して逃げてしまいたかった。……するとナツの頭は瞬時に、それも自分でも信じられないほど生々しく、ヒナタに関する苦い記憶や不条理を引き合いに、この場から逃れることの正当性を説き始めた。今までよくやってきたよ、でももう手に負えないよ。時間も労力も割いたけど、最後まで報われなかったね。一体誰の言葉かも分からない言葉たちが、頭の中をそこらじゅう駆け巡り、止めどがなかった。仮に天使でも悪魔でも、この場にナツの手を取る存在が居たのなら、逃げ出していたのかもしれない——。

 それでも。ナツは震える唇を噛みしめ、目を閉じていた。ドクドクドクと、どちらのものか激しい鼓動が聞こえる。耳元で聞こえるヒナタの息遣いも、自分のものとは違う。抱きしめている今、体温だって違うことを知った。

 私は、ヒナタが好き。

 ぱっと、隠れていた太陽が現れたみたいな、眩しい思いがした。突然だった。あまり突然さに、天使も悪魔も逃れようがなかった。あれ、一体何を思い悩んでいたんだろう。誰も居なくなった真っ白い地面の上で、ナツは首を傾げた。夢から覚めたような気分だった。私に対するヒナタがどうこうとか、一切関係ない。私がヒナタを好きなだけじゃん。すると、足元に黒い箱が転がっていることに気づいた。晴れない疑念と無残な現実をひたすらに閉じ込めてきた箱。しかし真っ白い地面の上でそれは、ただのゴミのように見えた。ナツは躊躇なくその箱をこじ開けると、閉じ込められていた中身が真っ白い世界に一斉に飛び出し、あっという間に世界の標準になった。酸素だけではない。窒素も生まれ二酸化炭素も生まれ、一酸化炭素だって生まれた。でもそれでよかった。この黒い箱だってそう、私のためじゃなくて、ヒナタのために使うべきだったの。そして、ナツは冷たい風がそよぐ世界に目を開けると、まるで言葉が通じない相手に想いを伝えるように、優しい声で言った。

「時間はまだあるよ、一緒に探そう」


 ゴトン。

 ヒナタの内側で、何かが音を立てた。振り返ると、実体が無く手の付けようがなかった何者、化け物が忽然と姿を消し、代わりに小さな四角い箱が一つ、真っ白い地面に転がっていた。一体、何が起きたの。ヒナタは恐る恐るそれを手に取った。箱は動き出すとか蹴破られるとか、そう言った気配は一切ない。正面には堅牢そうな錠が取り付けられ、しっかりカギがかかっていた。誰がこんなことを……。ともかく、一時的とはいえ化け物の動きを封じることはできた。身体もまだ自由に動かせる。今のうちにこの化け物の正体を明らかにしなければ。ヒナタは頭上の存在に目を戻した。

 どうして見つからないんだろう。化け物が暴れていない分、いくらか落ち着いて目印の光を探すことができているが、新たに花びらが散る度、焦りが募る。想像もしたことがなかった。もし、化け物の正体を突き止められないまま桜が完全に散ってしまったら、ヒナタはどうなるのか。化け物が身体を乗っ取り暴れ回るのか、はたまた意識の戻らない植物人間になるか。恐怖に怯えた目は枝の動きや花びら、葉の揺れなど表面的な変化を見つけるばかりで、探し物には全く機能してくれない。時間ばかりが無為に過ぎていく。ダメだ。ヒナタはゆっくりと目を閉じる。休んでいる暇なんて無い、という焦りはあれど、底からのし上がって来るような睡魔の存在が無視できなくなっていた。ねえ。ヒナタは心の内で桜の木に問いかけた。今の率直な心持ちを目の前にぶつけながら、それを燃料に、衰弱し始めた肉体を少しでも奮い立たせようと思った。

 ねえ、ごめんください。一応訊くのだけど、あなたはまだ葉桜だよね? ……そうだよね。良かった。私もあなたとおんなじだから。だったら分かるでしょう、私今ものすごく苦しいの。あなたから目を離すとすぐにでも身体が散り散りになってしまいそう。私はね、あなたほど強くも賢くもないから生きるのにヒントが必要なの。そう、それを今あなたに訊いてる。時間がないの。あなたが葉桜から葉桜じゃなくなる時点が、どこかにあるよね。それは桜ごとにたったの一枚に定まっていて、当然あなたも例外じゃない。そしてその瞬間はまだ訪れていない。だから私は、その転換点となる花がどれかを知りたい。それが分かれば私も、あなたと同じタイミングで新たな私になれる。
 どうしてだろうね。私以外のみんなには必要がないことみたい。頭のいい先生もよく分からないって。多分、私は人より頭が悪いんだと思う。でもさ、私からしたらみんなの方がよく分からないんだよ。だって生まれてから死ぬまで、区切りも無くずーっとそのままで生き続けてるんだよ。たった一年でこんなに身体も心も変わって、ぐちゃぐちゃなのに、それはみんなも変わらないはずなのに。その状態を数十年も続けて平気なんだって、すごいよね。でも、だからこそ私はあなたたちに親近感を抱いてるの。春夏と成長した後に一旦全ての葉を散らして、春に新たな花を咲かせるそのリズムが、みんなよりもずっと私に近いと思った。それ以来、誕生日にはあなたたちを頼るようになって、昔に比べて随分楽に乗り越えられるようになったんだよ。
 うーん、毎年の桜は言わずとも示してくれてたんだけど、あなたはどうしてかな。ああ、不親切だとか微塵も思ってないんですよ。ただ不思議に思っただけ。毎年当然のように示されたものが今年突然見えなくなって。あなたが私に隠す道理もないですから、ね。

……分からない。でも多分、根本的に何かが間違っているんだ。ヒナタは夢か現か、真っ白い地面の上の小さな箱を持ち上げてみた。箱、この箱が悪さをしてるのか。いや、この箱に化け物を閉じ込めておかなかったら、今頃私はどうなっていたか。そうだ、現に箱には錠が付いている。カギさえあれば開けられるというなら、明確な答えがどこかにあるはずだ。なのに。ヒナタは湿っぽいため息をついて、仕方がないと分かっていながらも尋ねずには居られなかった。化け物、あなたは一体誰なの。今までの私と、何が違うの。

「すごいね、桜の木って」

 ナツが、すぐ横でそう呟いたみたいだ。桜を見上げるナツの顔は陰っているのに、どこから光が差しているのか、その目はキラキラと水晶のように輝いて見えた。ナツはヒナタの視線に気づいたのか、続けた。

「だって、五十年とか百年とか、そういう単位で生きてるんでしょう? この桜だって私たちが生まれる前からずっと生きてて、私たちが死んだあとも生き続けるんだろうし。そういう存在って今の私たちにとっては相当レアだよね」

 ゾウ、カメ、クジラ…。長命そうな動物の名前を頭に浮かべたが、どれも及びそうになかった。

「それに、桜ってこんなに大きかったんだね。びっくりした。初めてじゃないはずなんだけど、下から見上げたら高さはすごいし、この枝の広がり方を見たらこんなに屈強な幹になるのも納得。それなのにつける花はあんなに小さくて繊細で、毎年みんなを、人も鳥も、虫だって喜ばせてるんだから。比べて私は、二十年程度しか生きてもないくせにそんなことさえすっかり忘れちゃってて。ほんと、嫌になっちゃうよね」

 グスッ、とナツが鼻を啜った。

「私、花が咲いてる時以外どれが桜の木かなんて気にしたこともなかったし、訊かれても分からなかったと思う。春になったら急に湧いて出て来るものだとすら思ってたのかもしれない。でも実際には違った。桜の木は、私なんかよりよっぽど長生きで、頼りになって、雨にも風にも負けずに力強くて」

「………」

 ヒナタは黙っていた。黙っている他無かった。こんなに一息で語るナツを見るのは初めてかもしれなかった。するとナツは注意を引くように、あえて靴音を立てながらヒナタの方を向いた。

「ヒナタはさ、ほんとは私が居なくたって十分生きていけたんだよね」

 ズッと、刃物が身体から引き抜かれたような心地がした。当のナツは笑っている。でもそれは不思議なほど見ていて気持ちの良くない笑顔だった。

「そんなこと」

「いや、分かってるの。確かに小学生の時とかはそうだったのかも知れないよ。でももう私たち成人だもんね。毎年起こるその問題も、桜の木の近くでやると上手くいくって方法を自力で見つけてたり、履修登録の話だってただの杞憂、実際私が居なくたって問題なく大学には通えてるし、友達だって作れてるし、自分のことは自分で考えて解決できるようになった。むしろ今日とか、私が来るせいでヒナタが外に出て騒ぎを起こしちゃったわけだし。今だってきっと、私が居るせいで何かが狂っちゃってるんだよ。ヒナタが苦しんでいても、私は何の助けにもならない」

「それは全然話が違う、ナツは何にも悪くない」

「ありがとう。でもそうなの」

そうなんだよ……。ナツは確認するようにもう一度そう言ってから、ヒナタから身体を遠ざけた。ヒナタは引き止めるための言葉を必死に探したが、適切な言葉が見つからない。まるで、知らない人の部屋で探し物をしているみたいに。冷たい風が吹いて、また花びらが散った。疲労と眠気がヒナタの内に積もる。

「ほんとに、いつから勘違いしてたんだろう。ほんとは高校の時も、中学の時だって、私が居なかったらヒナタはもっと学生生活を楽しめてたかもしれないのに」

「ナツ、やめて」

 今のヒナタにはナツを制止させる言葉も、体力も残っていなかった。そっと、ナツの両手がヒナタの手を包み込んだ。目が合って、泣きそうな顔をして。

「もちろん、私はヒナタのことが大好きだし、これからもずっと一番の親友だと思ってるよ。でもこの二十歳の誕生日を期にさ、一旦距離を置こうよ。ネガティブな意味じゃなくて、お互いのために。ヒナタはもう、自分のためだけに生きていいから。ね、そうしよ」

 ハキハキとしていたナツの声がしゃっくりのように唐突に消え入った。影の中で目元を拭っているのが見える。

「ごめんね、泣いて。でも悲しくて泣いてるんじゃないの。ほんとに今まで悪かったなって、悔しくて泣いてるの」

 ナツはすすり泣いた。じりじりと野を焼くような涙が流れていた。

 ああ、そっか。

 だが、この時のナツは知る由もなかった。開けているだけで精一杯に見えたヒナタの目が、影の中で見開かれていたのを。いくら桜の木を探しても見つからなかった目印の光が、錠のカギが、すぐ目の前にある。影にたゆたうそれは、ヒナタに眩しさよりも熱を強く感じさせていた。そっか、そうだったのか。なんでずっと見つからなかったか、やっと分かったよ。ナツは暗闇に溶け込もうと静かに泣いていたが、やはり何も気づいていないらしい。そこでヒナタはグイと光に顔を近づけた。やっぱり全部、ナツのおかげなんだ。そしてヒナタは小さな箱を取り上げると、間もなく、カギを錠に差し込んだ——。

『見つけた』

 ドウッと、公園に強風が吹き荒れた。それは先程から続いていた風とは比べ物にならない、凄まじい突風だった。木々は風に煽られ軋むような音を上げ、公園には今年最後の桜吹雪が巻き起こった。もし、散歩中の人が近くを通ったり、近隣住民が物思いに耽って外でも眺めたりしていたら、超常現象、あるいは不吉の前兆として数週間のウワサになっていたかもしれない。しかし、現実はそうならなかった。この奇跡を目の当たりにしていたのは、この世界の中心に居る、たった二人だけだった。

 ヒナタは、ゆっくりと目の前のナツの顔を見た。白目の領域の小ささから分かる大きくまん丸い瞳と、わずかに歯を覗かせる小さな口。それらがピクリとも動かない。まるで超常現象でも目の当たりにしてしまったようで、しかし、その目は確かにヒナタを見ていた。

「ありがとう、ナツ。おかげで今年も上手くいったよ」

 ナツはコクッと頷いたが、依然表情は固まったままだった。ヒナタは低く咳払いをした。

「ナツが言ったこと、今なら分かるよ。確かにそう。私は毎年四月十六日を迎えていく内に、段々と自分の特性とか体質を理解できるようになって、一人でも何とかこの日を乗り越えられるようになった。昔は死ぬほど嫌でうんざりしていた自分を、少しだけ許せるようにもなった。でもそれも本当に最近の話。じゃあどうやってここまで生きて来れたんだろうって、全部ナツのおかげなんだよ。今がどうとか関係ない。今日をもって今までが全部無くなるわけじゃない。なにより、私が忘れるはずがない」

 ナツの両肩に手を置き、訴える。

「それとナツは桜の話をした。でも大切なことを見落としていると思う。どんなに大きな巨木だって、頑丈な老木だって、一人では生きていけない。土も雨も太陽も、風と虫だって必要だよ。どれだけ強く堂々として見えても、一人じゃ全く成り立たないことなんだよ」

 月がじいいと夜空をなぞっている。ナツはヒナタの初めて聞く声色と語気に圧倒されていたが、耳の奥で音たちは過不足なく言葉となり、ゆっくりとナツの身体に浸透していた。あははっ、突然ヒナタが吹き出した。

「そうだ私さ、さっき桜を見上げながら面白いことを思ったんだ。ねえ、なんで桜って葉桜になるんだと思う?」

 これが質問だと理解するまでしばらくの間が空き、ナツは小さく首を振った。

「どう、分かんない?」

 ヒナタはペロと唇を舐めた。この瞬間、ナツ以外にも沢山の視線が、それも公園中から注がれていることを、ヒナタは肌で感じていた。

「それはさ、忘れないでくれーって言ってるんだよ。桜の花は綺麗だけど二か月と咲けない。でも突然葉っぱだらけになったら誰も桜だって分からなくなるでしょ? だからまだ咲いてる間にアピールするんだよ。私たち、こんな風な葉ばかりの木になるけど、桜ですからねーって。来年の春まで忘れないでーって」

「うそ」

「ほんとだよ。だってほら、誰も反論しないよ」

 すると、公園を取り囲む十数の桜はしんと黙っていて、二人は声を立てて笑った。強がりや照れ隠しすらない、あまりにも正直すぎる沈黙だった。

「それでさ、この話には続きがあるんだよ」

 うん。ナツは小さな声で言った。

「そんな健気なアピールだけど、やっぱり届かないんだよ。みんな忘れちゃう。悪気はないんだけどどうしてもね。でも中には居るんだ。分かったよ、忘れないよって言ってくれる人が。すっかり葉っぱだけになって他の木と区別がつかなくなっても、葉っぱが散って外見の魅力がちっとも無くなっても、ずっと忘れずに側に居てくれて、そして次の年に咲き誇った姿をそっと見届けて、また忘れないよって言ってくれる人が。私はね、そんな人をひとりだけ知ってる」

 ヒナタは肩に置いていた手を静かに滑らせ、ナツの手を優しく握った。

「私こそ悪かった。ナツはどれだけ大変でも辛くても平気な顔をしてるけど、沢山嫌な思いをさせてたと思う、感謝の言葉だって全く足りてなかった」

 ナツは俯いて「そんなことない」と首を横に振り、ヒナタを見上げた。

「だからナツ、今日まで本当にありがとう。これからは私の番だよ」

 ヒナタがナツを抱きしめると、ナツの目からぶあっと涙が溢れた。嬉しくて温かいのに、涙が溢れて止まらなかった。ナツはヒナタの胸に顔を埋めると、声を漏らして泣いた。ヒナタはビリビリとしたその感覚を胸に受けながら、固い土から出た小さな芽が、風で揺れるのを見ていた。


「ありがとう。もう大丈夫」

 ナツが合図のようにポンポン、とヒナタの身体に二度触れて、ヒナタは腕を解いた。良かった。いつ腕を解けばいいのか分からなかったから、ヒナタは内心ほっとしていた。公園には葉の呼吸が聞こえそうなほどの沈黙が下りている。そして、二人は同じタイミングで息を吸ってから、同じタイミングで息を吐いた。あはは、ナツが照れ臭そうに笑う。ヒナタはこぶし一つ分も空けずナツと付き合わさっている膝を見て、思い出したようにズボン越しに土の冷たさを感じた。

「………」

 何かを言おうとして、しかしヒナタは無言で立ち上がった。膝の下辺りを両膝共に左右対称な動きで叩く。いつもならここらでぽろっと零していそうな一言二言が、不思議と出てこない。その事実がヒナタを当惑させ、さらに言葉たちは手の及ばない遠くへと離れていく。ヒナタはナツが立ち上がるのを待たずに、回れ右をして桜の木陰から外に出た。全てが間違っているように思えて、ヒナタは一度目をギュッと瞑った。街灯で白んだ砂利の上には、無数の花びらが落ちている。冷たい風に向けて息を吐いてみたが、吐息はもう白くならなかった。ポケットに手を突っ込んで、何かを探して、また手を出して。きっと、暗闇からこの姿はよく見えているのだろう。振り返りたいけど、振り返ることができない。低く咳払いをすると、それが廃校の教室に居るみたいによく響いて、自分のものではないような気がした。

「どうしたの?」

 後ろからナツの声がした。いつもと変わらないその声を聞いて、ヒナタは安心したような、拍子抜けしたような、そんな気持ちになる。

「なんか、ね、時間が経つのって早いなーって」

「ほんとにそんなこと考えてた?」

「考えてたよ」

 ヒナタは動揺を隠すように勢いよく後ろを振り返ると、思いの他ナツは近くに居て、その光の絶妙な陰影がかかった顔が、まるで見事な彫刻を前に圧倒されたように、ヒナタの心をかき乱した。

「でも確かにね。今年もあっという間に四月だもんね。つい昨日まで布団の中で凍えてたと思ったら、もう桜散ってるんだから」

「そうだよ。そうしたらすぐにナツの季節だよ」

 焦りからか、ヒナタは思い付きの言葉にすぐさま飛びつき、それが安直だったことに後から気づいた。何をしてるんだ、私は。顔には出さないように、しかし内心震えていた。ナツは、ヒナタにとっては気が遠くなるような間を空けてから、ぽつりと言った。

「どうかな」

……意味深長な言葉だった。答えてくれただけヒナタは安心していたが、ナツの表情は回答とは裏腹にすっきりとしている。ヒナタはその理由を探して、でも時間内には到底見つかると思えなくて、胸にしまっておくことにした。


 道はいずれ、どこかで繋がる。日ごろ行動範囲の狭いヒナタは、地元とはいえどこか新鮮な気持ちで夜道を歩いていたが、ある路地を抜けて「戻って来た」と分かった途端に、そんな心地は消え失せ、夜道は何の変哲もない家路へと格落ちしてしまった。しかしどうだろう。二十歳になったヒナタは今、見慣れた光景の中にかつての自分の姿を見ていた。ランドセル、リュック、スクールバッグ。襟付きの半袖、ジャージ、ブレザー。二十年という月日の中で、数百、数千という自分が、確かにこの家路を歩いてきたのだ。そして、そんなヒナタたちの隣にはいつだってナツが居た。大雨の日も、大雪の日もあった。繰り返す余震による一斉下校もあった。どんなに晴れた日であっても、体調と気分が優れているとは限らなかった。背丈も変わった、声も変わった。それでもナツは、いつでも側に居てくれた——。

 いつかはその内の一人になってしまうナツが、坂道で不意に足を止め、後ろを振り返った。ヒナタもそれに倣う。眼下には見知った夜景が広がっている。ここらは標高が高いから、夜景はいくらか綺麗に見える。ナツにとってはもしかしたら、この景色が懐かしいのかもしれない。二人の会話は少なかった。車が来ると少し怖い急坂を、今は堂々真ん中を歩いて、少しだけ息が上がって、いつもの分かれ道が近づいて来る。

「今日はこのまま実家に泊まるの?」

「うん。明日は授業午後からだし、そのまま泊まるつもり」

「そっか。結構久し振りなんじゃない?」

「正月以来だから、そうだね」

 意外と経っちゃったな。ナツは苦笑いしながら言った。

「ずっと大学にバイトでしょ? 身体壊してない?」

「うん。別に無理してる訳じゃないから。元気にやってるよ」

「ならいいんだけど」

……そう言われてしまうと、ヒナタは途端にかける言葉が見つからなくなってしまう。ナツは本当に楽しくても、本当は辛くても、同様に振舞うことは分かっている。先程ああ言った手前、助けになりたい気持ちは山々あるのに、今のヒナタには何もかもが足りなかった。洗面所の鏡に映る自分のコンプレックスを見つめているようで、その無力さと言ったらなかった。ヒナタはナツに悟られない程度に空を仰ぎ、夜空に輝く月をじろりと睨んだ。夜が、もっとずっと暗かったら良かったのに。

 坂を上り切ると、二つの顔を持ったカーブミラーが、いつまでも拾われないヒッチハイクのように突っ立っている。二人はそれのすぐ側に立って、若干乱れた息を各々で落ち着かせていた。ヒナタは指先で、背後に聳えるコンクリート壁を撫で、錆びついたカーブミラーの主柱に触れた。そのすぐ側で、ナツの横顔が懸命に酸素を取り込んでいる。何もかもが懐かしかった。単なる高台の丁字路なのに、ナツが隣に居るというだけで、途端にかつての集合場所に元通ってしまう。ましてや、ヒナタは今日の昼過ぎに通ったばっかりなのに。人の存在は、時にモノの価値観や意味合い、時間感覚でさえ簡単に捻じ曲げてしまう。ヒナタは同意を求めるようにカーブミラーを見上げたが、輪っかの並んだ暗いコンクリート道を真っ当に映し出すばかりで、訊いても栓の無いことだった。リンリンリン、すると左の方、ナツの帰る方の道から鈴の音と共にフラフラと揺れ動く光が見えた。リードに繋がれた柴犬と、薄手のカーディガンを羽織ったおじさん。「なんや…?」 ヒナタとナツを窺い見る顔には、そう書いてあった。柴犬の荒い息と鈴の音が坂の向こうに消えると、そこはまた葉の揺れる音が支配する空間になった。

「……次はいつになるだろうね」

 何とか間を取り持つように、ヒナタは尋ねる。

「ゴールデンウィーク、今年も分かんないんだよね。また夏になっちゃうかも」

「いいよ全然。頑張ってね」

「うん。ヒナタもね」

「ん? うん」

 テンポの悪い返事のせいで、別れるにはぎこちない空気が流れる——と言うのも、ヒナタはある地点からずっと、考え事をしていた。

『別れる時、「バイバイ」じゃないよね』

 そう。それだけは明確に分かっているのに、いくら考えても他の回答が思い浮かんでいなかった。いや、浮かんでいない訳ではないが、どれも汗びっしょりで見苦しい、情けなくして聞けた言葉ではないような気がした。

「じゃあ、もうそろそろ帰ろっかな。ヒナタも明日あるだろうし」

「別に私はいいんだけど……。そうだね、忙しいのに今日はありがとう」

 ナツは何でもなさそうに首を振った。

「今年もいい一年にしてね」

「うん」

「…あ!」

 一瞬、その場から離れようとしたナツがすぐに元に戻り、ヒナタの顔を覗き込んだ。

「分かってると思うけど、一応今日でヒナタは変わってるんだからね。ちょっとでも何かあったらすぐ連絡してよ。これは忙しいとか関係ないから」

「分かってる。すぐ言うよ」

 相変わらずの油断の無さにヒナタは思わず苦笑した。ナツはそれに安心したような顔をして、また歩き出す。

「またね、バイバイ!」

 ナツは軽快に手を振り、晴れやかな笑顔を残して去った。まるであの頃と同じように。

 バイバイ!

……しかし、ヒナタはそう返さなかった。今にも巣穴に逃げ帰ろうとした自分を制止した力がある。 
 これから私は、ナツの一番の理解者になるんじゃないのか。

「ナツ!!」

 ガッと驚いたように足を止めて、ナツは振り返った。反響が消えると無音にも近い時間が訪れた。耳の奥で忙しない鼓動が聞こえる。自分がこれから何をするのか分かって、緊張し、興奮していた。策なんて無い。練り上げられた文章なんて無い。でも……。息の吸う吐くが分からなくなり、鼻から肺中の空気を一挙に吐き出す。呼び止めたんだ。言え。ありのままの私と、これからの私を。ヒナタは肺中に空気を取り込んだ。

「……私さ。ずっとダメダメだったけどさ。ぜったいに変わるから! だから、桜の木の下で言ったこと忘れないで欲しい。ぜったい、本当にするから!」

 ああ、情けない。いくら大層な言葉を並べたって、中身が空っぽなら虚しいだけなのに。月明りに曝された私は、一体どれだけちっぽけに見えているのだろう。

「忘れないよ」

 まるで背中をさすってくれてるような、ナツの優しい声がした。あ、やばい。どうやら心の奥底に眠っていた記憶を、ナツがくすぐったみたいだ。それが何かは思い出せないのに、なぜかその記憶に付随した当時の感情だけがこみ上げて来、ヒナタは急いで蓋をするためのものを探した。

「八月十八日!」

 気づけば、ヒナタはそう口にしていた。すると脳裏には、ジリジリと地表を焦がす太陽の光と熱、全てをかき消す蝉しぐれ、そして、それらに耐えながらより大きくなる青々とした桜の姿が浮かびあがり、全身から沸き立つようなエネルギーを感じた。

「……ナツの誕生日。それまでにきちんと、話せる所まで頑張るから」

 それを聞いたナツは、力強く頷いた。

「分かった。待ってる」

 そして、全てを言い尽くしたヒナタは手を振った。


 これで、本当に良かったんだろうか。ヒナタは別れてから少しした所で立ち止まり、去り行くナツの背中を見ていた。多分、言ったことは間違っていないと思う。遅かれ早かれ、自分は変わらなくてはいけないと思っていたし、それも漠然とではなく期限を決めたことも良かったと思う。言葉に偽りはないし、掲げた信念は胸に深く刻み込まれている。これがナツのためであるなら尚更だった。でも、これがナツと最後に交わした言葉だったと考えると、何だかやるせなかった。ナツのことだ、また気を遣わせる要因になるんじゃないか。
 その間にもナツはスタスタと暗がりを歩いていく。それにしても、ナツは変わらないな。小学校の時からそうだ。ナツは一度手を振って別れると、二度とこちらを振り返ったりしなかった。今思えば、それも強さだったのだろう。かわいくないなあと思うこともあったけど、やはりその背中はいつまでもヒナタの憧れだった。

 今だったら、言えることもあるのにな。

 弱い私は、終わった後に思うことばかりだ。あと四か月の間にこれを変えなくてはならない。よし。ヒナタは自分自身を奮い立たせ、道に戻ろうとした。
 その時だった。容赦なく先を歩いていたはずのナツが、こちらを振り返ったのが見えた。それがあまりにも信じられなくて、ヒナタは極度の不安を感じた。遠くの弱弱しい街灯に照らされたナツが、こちらに身体を向ける。

「私もお!!」

 いつもより高い声で、微かに、そう聞こえた。そしてナツは大きく手を振っていた。ヒナタはよく状況が飲み込めないまま、手を大きく振り返す。そしてナツはまた背中を向けて歩き出した。

 まさか、いや、でもそんなことって。ヒナタは夢でも見ているような気分で、立ち尽くしていた。その時、頭上からひらひらと舞い落ちる小さな影の存在に気づいた。あっと思ったヒナタは手を少し上にかざしてみると、それは迎えられたように音も無く手のひらの上に載った。月明りで白んでいたがその形で分かる、一枚の桜の花びらだった。ヒナタは瞬時に上を見上げると、コンクリート壁を越えた先に、葉の茂った大きな桜の木があった。それは壁から大きくはみ出ていて、まるでこちらを見下ろしているかのように見えた。もしかして、今までもずっと私たちのことを見ていたの。……桜は答えない。のらりくらりと風に合わせて身体を揺らしている。ヒナタはグッと、その一片に震える思いを込めて、手のひらから優しく零した。もう、これっきりだ。そしてナツに背中を向けると、力強く足を踏み出した。

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