見出し画像

◇◇シン・興宗教◇◇

 …新しい信仰のスタイルを興すつもり。イチから宗教教団を作ったり、既存のものを破壊したり、そーゆー面倒くさいのはゴメン。でも、このまま指を咥えて滅び往く現行教団の有り様にもついていけない。僕は僕の信仰を護る為に浄土真宗の新しい信仰スタイルを確立する。

 宗祖親鸞聖人自らは法然門下の弟子の立場であって、共に同じ信を仰ぐ同朋信仰はイメージされていたのかもしれないが、これが教団信仰まで発展し、自身が宗祖として担ぎ上げられるところまで想定していただろうか。

 聴聞を繰り返し、また、教義を学べば学ぶ程に、一心に弥陀に帰命し、この我が身にあててお念仏のお謂われをお聞かせいただき、それを信じ楽しむこと以外は必要ないと思い知る。

 ここまでシンプルでミニマルな仏教信仰に、随分と色々くっつけてしまったように感じる。護寺運営と法灯継承を正義として、教団を護る為の教団に成長した。
 正直、日本の仏教教団なんて、それで良いとされてきたと感じる。葬式仏教、法事仏教などと揶揄されるが、真っ正面から否定するどころか、ニーズに応えてピジネスライクに取り組む一面も見られる。苦笑されながらもそれが求められてきた事実に支えられてきた。

 ただ「これまで」は…だ。江戸時代から受け継がれてきた護持システムは、今や絶滅の危機にある「日本の家庭」がベースであり、もはやその「日本」が、そして「家庭」がハイピッチで様変わりしていく時代にあって、同じ形式・形態で信仰を護ることができようか。教団や寺や僧侶の立場ではなくて、仏法や信心や門徒の存在を護り抜くことが考えられようか。

 「家族」ではなく、「一個人」各々をベースとした信仰スタイルの確立が重要且つ急務なのだ。そして、それは多種多様な「個人」の実情に寄り添う為にも、親鸞聖人の信仰に根差したシンプルでミニマルなものであるべきと思う。

 教団・寺・僧侶はいらない

 存在を否定するという意味ではない。歴史やこれまでの功績、これから期待される役割などなど、それら全てを含めて肯定している。尊い存在としてお敬いすべきところをお敬いする。ただ僕(個人)には必要ない、ということ。理屈も法人格も要らない。誰にも認めて頂かなくて結構。

 だからこそ、これは新興宗教ではなく、仏教の一宗派である浄土真宗にフリーライドする形の新たな信仰スタイルだ。単純に、集団で信仰することを目的とした義務や資金は必要ない。要るのは仏法聴聞ご信心お念仏のみ。一心に弥陀に帰命してお念仏のお謂われを我が身にあててお聞かせいただき、それを信じ楽しむ。これに尽きる。

 『浄土シン宗』
 
とでも名付けておきましょう。

 但しこれは、あくまでも有志の信仰心を前提に存在するスタイルであり、繰り返しになるが既存の宗派・教団への攻撃や破壊行為を目的とするものではない。しかし、集団による理論で生きられないマイノリティーにも、摂取不捨の弥陀のすくいの光は至らねばなるまい。

 僕が最も大切にしたい心は、「至心信楽」。心から仏を信じ、願い求めること、または仏教の教えを信じて喜ぶこと。親鸞聖人の浄土真宗のすくいは、「平生業成」。生きている間に、人生の目的である「業」を完成させ、往生する身になること。死後「浄土往生」の定まった身となること。我が人生においてこれ以上の信楽あることなし。ここをもって、堪え忍んだり、犠牲にしたりする信仰は、極力最小限に抑える努力や工夫が求められる。無論、強制することも一切ない、万事有志。当たり前だが、望んで信じ仰ぐ。←※ココ重要!集団心理や強迫観念や洗脳みたいな類いは不要。

 僕は浄土真宗末寺の住職として、既存の伝統的信仰スタイルの持続を願うご門徒に寄り添いつつ、共に仏法聴聞ご信心お念仏の暮らしを生業として、自身は浄土シン宗のスタイルを追求する所存でなのある。

いいなと思ったら応援しよう!