リハーサルは終わりだ (チャールズ・アイゼンスタイン)
訳者より:コロナ禍のもたらした社会の神経症「パンデマニア」を乗り越えて、もっと美しい世界に向かって歩み出そう。そう宣言する詩的な文章です。チャールズ・アイゼンスタインの書籍『コロネーション』収録のエッセイ日本語訳です。
リハーサルは終わりだ
チャールズ・アイゼンスタイン著
2021年10月10日
友人が直面するジレンマのことを私に書き送ってきました。彼女が所有する会社は何百人もの人々を雇っていますが、彼女は口に出すのもはばかられる〈あれ〉のことを強く批判しています。彼女は社会の正気が回復するまでレーダーに捕まらないように切り抜けようとしているけれど、大規模雇用者への義務化が迫る中、もうすぐレーダーがこっちを向くだろうと彼女は言いました。彼女はどうするのでしょう?
彼女のメモが私の中に呼び起こした内なる独白を、みなさんとシェアします。
* * *
正気に戻る? 正気は他人が取り戻してくれるようなものではない。それを取り戻さなければいけないのは私たちだ。私たちの代わりに他人が勇気を出してくれるのを待っているわけにはいかない。私たちが何者なのかを選び取る通過儀礼の瞬間に、私たちは立っている。黙って従うか行動するかの選択は、宣言なのだ。私は何者になるのか? 世界はどんなものになるのか? その世界を実現するビジョンのために、私の身を危険にさらす覚悟はできているか? それは私を行動に駆り立てるように仕組まれた挑戦などではない。それは単に真実なのだ。私の選択を通して、ありのままの私自身を知ることになる。私は自分が選ぶものになる。リハーサルは終わりだ。
* * *
多くの人々は権威を信頼し規則には進んで従う。彼らにはジレンマも、通過儀礼の瞬間も、自己を定義し世界を創る選択の地点も、まだないのだ。
でも権威の物語が不条理へと退化し、その規則が圧政へと退化するとき、私たちのますます多くがこの選択を前に立つ。
真実を大きな声で口に出して生きるか
嘘によって生き、秘した抵抗で自分を慰めるか。
自分が正しいと思うことをするか
圧力に屈して、自分の信じていない言葉で自分を慰めるか。「しょうがなかったんだ」と。
そう、私たちの多くはこのような選択の地点に来たのだ。リハーサルは終わりだ。
* * *
もしかすると、思うに、もしかすると今は勇気を出すときではないかもしれない。もしかすると今は声を上げるときではないかもしれない。もう少し安全になるまで待とう。
だが勇気を出せるほど安全になることは決してない。けっして。
今でなければ、いつ? 私でなければ、誰が?
私が敢えてやろうとしないことを他の人がするのを、私は待つのだろうか? 用意はできた。もう長い間、私たちは準備を続け、覚悟を決めた。リハーサルは終わりだ。
* * *
これは「いま行動しろ」というメッセージではない。圧力、強制、賄賂、脅迫を受けるな。自分が何をいつすべきか、私からも誰からも指図されるな。私たちが戦っているのは、お互いの選択に命令を下す時代を終わらせるため、あなたが何をすべきか私の方が良く知っていると考えるのを止めさせるため。
私はあなたが正しい選択を知っていると信頼する。信頼されることが、信頼に足る人になることへの入口となる。あなたが勇気を持つと信頼すれば、あなたは勇敢になる。人々が私のことを勇敢だと思えば私が勇敢になるのと同じように。勇気は個人が成し遂げるものではなく、コミュニティーの働きなのだ。それは他人に伝わる。それは互いの目覚めだ。
勇気とは、あなたが行動する時が来たと知るなら行動することだ。都合の良い時ではない。ただ時が来るのだ。「もうたくさんだ!」という瞬間だ。「何かすべき時だ」という瞬間だ。しがらみに真実が勝る瞬間だ。
その瞬間にあなたが行動するのは、勇敢だからではなく、必要だからだ。あなたには時が来たのが分かる。なぜ今なのか? それは時が来たから。他の理由は要らない。
勇気とは、あなたのすべきことを、時が来たら実行すること。それを知りながら否認すれば、あなたの心を箱に閉じ込めることになる。人生は苦役になる。絶望が霧のように立ちこめ、全てを灰色に塗りつぶす。希望は萎れ、後に残るのは希望的観測という乾いた抜け殻。そしてあなたは、「大事な時が来たのに、私はここですべきことをしなかった」と知りながら、残りの人生を生きる不安に直面する。
リハーサルは終わりだ。
* * *
私が勇敢でないなら、どんな理由があって他人が勇敢だと期待することができようか? 勇気と臆病はどちらも他人に伝わる。私の選択が人間性の原則を打ち立てる。それが宣言するのは私が何者かということだけではなく、人間とは何者かということでもあり、世界がどうあるべきかということでもある。ひとつひとつの選択は、したがって祈りなのだ。私たちの選択が聖なる創造物の骨格となる。
それが理由で、共時性が勇気のまわりに形を現すことが非常に多いのだ。共時性は、勇敢な選択に沿って現実が変化し、確率の法則が破れることだ。
その創造の力を見れば、絶望が誤った前提から出たものだということが分かる。自我の弱腰な理屈は逆転する。自我はこう言う。「それが上手くいって私は大丈夫なことを保証してくれるなら、私はそれをやろう。」自我はこう言う。「他の人たちも大勢が抵抗すると約束してくれるなら、私も抵抗しよう。無駄ではないと証明してくれ。他の人たちも加わると保証してくれ。」神はこう言う。「保証がなくとも危険を冒して実現したいと思うほど、あなたがもっと美しい世界を望んでいると、私に見せてみよ。そうすれば、あらゆる計算の及ばぬような結果を、あなたは見ることになろう。」
あなたの選択の時は来たでしょうか? その時が来たらあなたには分かるでしょう。時が来たことが分かる感覚からは、誰も逃げることはできません。あなたがここまで読んだなら、その時は近くまで来ています。私の言っていることが、はっきりとあなたには分かります。
リハーサルは終わりです。
原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/the-rehearsal-is-over
【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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