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世界と恋に落ちる

訳者コメント:
 記号の言語ではなく、音声そのものによるコミュニケーションという直接体験によって自他の境界を消失させ、世界と恋に落ちることが、「再合一の時代」の章の締めくくりとして語られます。
 訳者自身の体験から「世界と恋に落ちる」というテーマに沿ったことを、別の切り口から書いてみましょう。
 20代の頃からダイビングをしています。それを始めたのは、ジャック・イブ・クストーの水中世界の映像などを見て、冒険として憧れたからだったと思います。でも習ってみて感じたのは、それが何とも気持ちの良い体験だということでした。完全に水に包まれて、波に揺られて、浮いている。その皮膚感覚が、言葉にならない何かを体の奥深くに呼び起こします。それはおそらく、母の胎内で羊水に浮いていたときの感覚が呼び覚まされているのです。スキューバを使わずシュノーケリングで素潜りするとき、この感覚を最も強く体験します。息を止めて1分、2分。体内に高まる二酸化炭素に苦しさをこらえつつ、深みから水面を目指して浮上していくとき、産道を通って生まれてくるのはこんな感じだったのではないかと。水面に出て大きく息をして、ああ、生まれ直した!と思うのです。世間一般でダイビングという趣味は、水中写真を撮ったり、魚の名前を覚えたり、潜った回数や場所などをログブックにデータ化するというのが主な活動になっています。(まさに分断の物語!)でも私がそういう物事よりも水中にいるセンセーションの虜になっているのは、私にとって「世界と恋に落ちる」体験だからなのだと思います。魚たちを見ているだけで、それが「何と呼ばれているか」を知らなくても、そこが命にあふれ、命の生まれ出る場所なのが実感できます。その中に入り、一体化するという体験は、愛の営みと言うにふさわしいと、私は思います。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


7.11 世界と恋に落ちる

本章の最後の節では、出現しつつある真実の言語が人間ドラマをどのように変化させ、無意識のうちに筋書が作られる悲喜劇から、意識的な演劇、語り部の偉大な芸術作品にしていくかを説明します。言語を通じて、人類は宇宙が展開する意識的な主体となります。意味を見えなくする余分な言葉のもつれを取り除けば、表象言語は現在よりも豊かで意味のある領域になるでしょう。とはいえ、生活の多くの重要な分野において、言語、特に書き言葉が果たす役割は小さくなるでしょう。なぜなら、理性のように、直線的なテクノロジーのように、お金のように、言語という賜物ギフトがその本来の領分を超えてしまったからです。言葉では基本的に表現できない多くのことを、私たちは言葉を使って表現し、ほとんどの言葉は全く何も表現していません。

〈再合一の時代〉に伴う言語領域の縮小は、すでに始まっている兆候があります。それは、第2章で書いた「言語の危機」に対する反応だと私は思います。その危機の中で、言葉の意味はどんどん薄れ、「コミュニケーションのためにますます大げさな表現を使わざるを得なく」なり、広告は蔓延して全く不誠実なものになり、政治家は日常的に嘘をついてそれがまかり通り、ほとんど全ての演説を、広報、情報操作、誇大広告として軽視します。嘘が蔓延したマトリックスの中で生きている私たちは、全ての言葉を軽視するという自然な反応をします。言葉が(特に印刷された言葉が)どこにでもあるせいで、私たちは耳を貸さず、言葉が不誠実なせいで、それを軽視し裏の意味を勘ぐります。

この危機に直面して、特に若者は他の方法でコミュニケーションするようになっています。これは過去数世代にわたって識字率が驚くほど低下した深い理由のひとつかもしれません。引退する大学教授に尋ねてみるといいです。私が数年前にペンシルベニア州立大学で教え始めたとき、生徒の多くが文章を読めないことに気付いて衝撃を受けました。ページに目を通して解答を引き出すことはできても、段落全体にわたる考えをまとめることはできず、一貫性のある作文をすることもできないようでした。百年前の水準に比べると、アメリカ人は驚くほど読み書きができなくなっています。しかし、私たちの知性が昔より劣っているわけではなく、コミュニケーションに飢えていることにも変わりはありません。識字率の低下はある意味で私たちの魂の資本の強奪であり、また別の認知能力の売却なのですが、もうひとつ重要なのは、現在氾濫している言葉の無意味さや不真面目さに対する半意識的な道徳的反発かもしれません。

嘘にうんざりしているので、特に若者たちは音楽などテキスト以外の表現にますます目を向けるようになっています。一つの流れが始まるのを見ている気がします。その兆候のひとつが、マイスペース、フェイスブック、ユーチューブといったウェブサイトの爆発的な人気で、そこではテクノロジーのおかげで、言葉だけでなく、写真、音楽、音声、動画を共有できます。一方、商業既得権の側は、テクノロジーが可能にした音楽の制作・流通の民主化に対して必死の戦いを挑んでいます。ほとんど誰でも最小限のコストで音楽(と動画)を制作し、録音し、配信することができます。ギフト経済への回帰のために技術インフラはすでに整っていて、あとは現在のような搾取的で中央集権的な利子に基づく金融制度の終焉を待つだけです。遠隔通信における文字の優位は終わりを迎えるかもしれませんが、これが画期的な展開なのは、約5世紀前に印刷機とともに始まった一時代の終わりを告げるものだからです。もちろん文字には文字ならではの機能があり、本は何らかの形で生き残るでしょう。でも文字による公共・長距離コミュニケーションの独占状態は、ラジオの時代以来ずっと退潮しつつありましたが、ついに終わりを告げようとしています。言葉はより限定された領域に君臨することになります。ウェブ上ではポッドキャストやビデオストリーミングがコミュニケーションの主要メディアとして文字を駆逐する日は近いかもしれません。すでに多くの人が文字で書かれた本よりもオーディオブックを好むようになっています。ビデオ機能付きの携帯電話の登場で手紙を書くことはほとんど忘れられた技術となりました。はたして、本当の意味での識字率は近代以前のように人口の3%程度にまで後退するのでしょうか?

テクノロジーによって仲介されるのであろうとなかろうと、私たちはいにしえの〈アダムの言語〉へのたどたどしい回帰を始めようとしているのでしょうか? それとも、アバターと音声シミュレーターが作る、何も現実ではない仮想現実VR世界という新たな極限に向かって、分断の体制は進み続けるのでしょうか? 私が思い描く未来では声と歌と顔のコミュニケーションに戻ります。歌とハミングを主なコミュニケーション手段とするピラハ族は私たちに過去と未来を見せてくれます。少なくとも、彼らが見せてくれるのは未来の可能性です。結局のところ、私は間違っているのかもしれません。もしかしたら、私たちが生きている間も、千年後も、〈再合一の時代〉は訪れないかもしれません。あるいは、両方の世界が共存し、私たち個人がどちらで生きるかを選ぶのかもしれません。いずれにせよ、仲介されないコミュニケーションに回帰する上で最も重要な側面は、直接的で個人的なものです。この兆しも既にあって、オーセンティック・ムーブメントコンタクト・インプロコンティニュアム・ムーブメントのような変革の技術は、人々が身体と声の〈原初の言語〉の語彙を取り戻すのを助けます。ぜひ試してみることを勧めます。言葉なしで可能なコミュニケーションの親密さを実際に体験する方が、本書を読むことよりもずっと効果的に、〈再合一の時代〉は可能であり私たちの目前に迫っていることを納得させてくれるでしょう。それを隠しているのは、私たちの恐れと習慣と信念だけです。

人類の神話的な原初の言語である〈アダムの言語〉は、嘘をつくことも、主体と客体の分離も認めません。話者の声は心身の状態の一部なので、話者がどんな状態なのか推測する必要はありません。他の人の本当の声を理解するためには、自己と他者の境界を溶解させるほどの深い親密さを必要とし、さらに促進しますが、最近このような親密さが存在するのは、母親と乳幼児の間、時には父親と乳幼児の間、そして最も信頼できる恋人同士の間での特別な瞬間だけです。かつて、〈分断の時代〉がまだそれほど進行していなかった時代には、石器時代の親族集団の人間関係において、このような親密さが普通だったと私は信じています。今日のような言語は必要ありませんでした。原住民がテレパシーとも言えるようなコミュニケーション能力を示すという記述は、尊敬を集める人類学者が報告した者も含め、数多くあります。こうしたコミュニケーションは人間関係に限ったことではありませんでした。というのも、当時の人々は自然との深い親密さを享受しており、多くの証言によれば、動物、植物、森林、風、雲の言語を理解できたからです。

これらの言語は今日の言語を構成している抽象的な記号体系とは非常に異なっているため、もはや言語という名前で呼ぶべきではないでしょう。今日の言語は、原初の〈アダムの言語〉を腐敗させ、退化させ、時には模倣しつつ往々にして難解になったものです。原初の言語を使ったコミュニケーションは、自己と他者との一時的な融合を伴いますが、それは話している当の他者に「なる」ことであり、他者の本質が音や臭いや動きの中に赤裸々に表れるほどに他者を深く理解することです。臭いをごまかせないのと同じように、〈アダムの言語〉で嘘をつくことは不可能です。隠したり、覆い隠したり、抑えたりすることはできても、常にその下に存在するのです。

私たちが他の人に自分の本当の声をさらけ出し、言葉の背後にある声を本当に聞くとき、境界は言葉にできないほど甘い親密さへと溶けていきます。ここには全面的な信頼が必要で、私たちが世界を競争相手と見なしているときには不可能なので、このようなことは今ではめったに起こりません。〈再合一の時代〉には、こうした境界への執着は徐々に薄れていくでしょう。深い豊かな関係の中で生きることができるように、私たちは臆することなくそれらを手放します。他の人々や全ての他者とこのような親密さを結んで生きる人々にとって、人生は現代の私たちには想像もつかないような深みのある意味を、あらゆる瞬間にたたえているのです。何もしないでただ座っていることが、圧倒されるほど官能的な体験となります。そのような状態で達する至福は強烈で、何かをする理由などなく、ただ在るのみです。言語などあらゆる種類の概念化は、私たちをこの状態から遠ざけ、世界から意味を奪います。(でも、言葉と声の両方に同時に同調できる可能性はあるでしょうか? なぜ私たちは言語に始まる分断の旅に乗り出したのでしょうか?)

その至福の状態への憧れは、私たち皆の心の奥深くに埋もれていて、私たちの作った分断の小さな世界には決して満足しないように私たちを突き動かします。私は幸運にも、ほんの数回ですが〈アダムの言語〉を完全な形で体験することができたので、このことがわかります。電話線で隔てられていた私とこのもう一人は、声を通して完全に融合し、私となんじの区別はなくなりました。全ての音において、彼女の全存在が私に、そして私の全存在が彼女に現れていました。この結びつきの強さを伝えるのに、言語ではまったく不十分です。「私の」とか 「彼女の」というような言葉は、そこに存在していなかった分断を暗示するものです。

名前、数字、言葉、そして物理的な分断の下でその時を待っているのは〈帰郷〉で、あなたはそれを生涯待ち望んでいたのです。時にそれは湧き上がり、私たちは自己を救うためにその先へと走り出ますが、残された足跡は、人生とはどうあるべきか、どうありうるか、どうなるのかを約束し、思い出させてくれます。

〈アダムの言語〉でのコミュニケーションは語り合う者同士の深い親密さの時であり、本人たちにとって絶対的に固有なものです。〈原初の言語〉は向き合う話者の数だけあります。親密さを共有していない第三者にとって、〈アダムの言語〉には鳥のさえずりほどの意味しかなく、そこに表れているのは最も粗野な感情の状態だけです[51]。しかし親密な人にとっては、微かなささやきの一つが無限のニュアンスを伝えます。同じ言語が二つとないだけでなく、二人の間で同じ言葉は二つとありません。それぞれの瞬間が唯一無二であるように、それぞれのコミュニケーションも唯一無二なのです。無限の体験を有限へと落とし込むことはありません。〈原初の言語〉を話すことは愛の営みに似ていて、性的情熱を声に出すことが、現代の成人に〈アダムの言語〉が発露する数少ない機会のひとつなのも、確かに偶然ではありません。でもいつの日か私たちは世界と恋に落ちるのです。

〈アダムの言語〉の痕跡は詩や音楽にも見られます。詩人や詩的な傾向のある散文作家がよく知っているのは、「詩ではメロディーの構造が先にあって、それがある程度まで文章の構造を決定する」ことです[52]。想像することしかできませんが、言葉がなかったら詩はどうなっていたでしょう。それは歌であり、何を指しているわけでもない音の叫びであり、にもかかわらず意味を含んでいて、ジャズ・ヴォーカリストの自発的なスキャットや、アメリカ先住民のヴィジョン・クエスターに降りてきたスピリット・ソングに似ているかもしれません。自発性はこの種のコミュニケーションの重要な特徴です。それは他者を征服することでもなく、自分の枠組みを押し付けることでもなく、世界を有限の名前の集まりに落とし込むことでもありません。ジョセフ・エペス・ブラウンによれば、アメリカ先住民が儀式で使う歌は決して彼らの作曲ではなく、むしろ精霊から与えられたのだと主張しています[53]。

〈アダムの言語〉は私たちの遠い遺産であるだけでなく、生まれながらに持つものであり、未来でもあります。この言語を習得する過程は、他の言語とは全く異なります。記号の言語が必然的にAとBを同一視し、分断と疎外を伴うのに対し、〈アダムの言語〉はAとBの各々、全体の各部分、時間における各瞬間の唯一性を具現化するものであり、分断ではなく合一が必要です。〈アダムの言語〉を学ぶには、私たちを隔てている人工的な境界を取り払い、我と我が物という因習をやめる必要があります。それを他者と話すということは、その他者をもう他者でなくなるほど愛するということです[54]。その愛が親密で信頼に満ちたものであればあるほど、自我の壁を取り払う自由があればあるほど、互いの〈アダムの言語〉に対する理解が高度に発達し、普通の言葉の必要はなくなっていきます。

〈アダムの言語〉を他者と話すことがその他者と恋に落ちることだとすれば、動物、植物や無機的プロセスの言語を理解するには、まさに世界と恋に落ちることが必要なのです。〈アダムの言語〉は自己と世界の障壁を溶かすことで生まれます。こうした障壁の無益さ、人為性、事実性が、現代社会の崩壊によってますます明らかになるにつれて、私たちの話す言葉は減り、生まれながらに持つものを自然に使うようになるでしょう。

世界の言語を学ぶこと、これはなんと美しく実りある科学の定義でしょうか! 科学、つまり世界の言葉を学ぶことによって、より深く世界と恋に落ちるのです。それは、支配やコントロールの心理構造メンタリティ、自然に対するベーコン流の審問とは全く異なるものです。その始まりは、科学者が細胞や恒星、生態系や代謝の複雑さ、生命の奇跡を理解したときの畏敬の念にあります。それは自然における神の存在への回帰です。それは科学という旅の集大成です。自然をばらばらに切り刻み、分離し精製し、浄化し精錬し、結局そのあらゆる場面で、美と驚きと奇跡に満ちた、思いもよらない新しい領域を発見したのです。

名前や数字という無個性な分類によってもたらされる固有性の喪失は、私たちが世界を愛せなくなっている原因であり、またその兆候でもあります。逆に、私たちは恋に落ちるとき、最愛の人をかけがえのない唯一無二の実在の個人として見ます。〈再合一の時代〉とは世界と再び恋に落ちることに他なりません。電子でさえ、無個性なものなどありません。全ては唯一無二であり、特別であり、それゆえ神聖な存在なのです。物理学では四世紀にわたる探求によって、複雑な現実を一般的な基本粒子に作用する普遍的な法則に落とし込もうとしてきましたが、「基本」粒子の種類が増えるにつれ、既知の物理的な力が統一を頑なに拒むにつれ、そして不確定性という事実を理解するにつれて、この企ては崩壊しつつあります。電子でさえも、その行動には何にも落とし込めない個性、予測不可能性があり、それは単に私たちがより微細な原因について無知であることによる錯覚ではありません。それは原因に隷属することなく、自律した〈選択者〉なのです。電子がそうであるように、陽子も中性子も、それらでできたあらゆる物もそうです。しかも、この個性は独立して存在する性質ではなく、宇宙の他の部分との関係においてのみ理解できるものです。素粒子物理学では「測定」という現象にそれを見ることができ、これは実は関係性が顕在化しただけのことです。生物学では関係性の網の目の中にそれを見ることができ、これがあらゆる生物を定義し維持します。人間の心理学においては、同じ原理が私たちに絶対的に唯一無二な個人としての地位を与え、その個性は世界の他の部分との関係が無限に集まってできるものです。

世界と恋に落ちると、全てを神聖なものと認識し、扱うようになります。従来の宗教の認識では、あるものは神聖であり、その他は平凡で、生気がなく、部品のように交換可能な質量マスとみなしています。神聖であるということは、特別性、唯一性、神聖な目的を持っているということです。何かをそのように見るのは、恋に落ちるということです。

〈再合一の時代〉とは、精霊信仰アニミズムという〈原初の宗教〉への回帰です。もはや宇宙を聖と俗、霊界と現世に分けることはありません。あらゆるものが神聖なのは、電子の一個、水の一滴、そして人間ひとり一人に至るまで、全てが唯一無二であることを知っているからです。もちろん、私たちはこのことをすでに知っています。私たちは長い間それを知っていましたが、「ロジャースさんの隣人」(「あなたは特別です」)や中途半端に理解された聖典の領域にそれを追いやり、人々や集団にレッテルを貼って決め付けを続けました。それが生活の基盤となっている世界を想像してみましょう。多くの神話で予言された、もっと美しい世界がやって来るのです。スピリットが息づく世界、そして世界に息づくスピリチュアリティ。ニューエイジ・スピリチュアリティの核となるメッセージは、「あなたは神聖だ」というものです。ディーパック・チョプラからトマス福音書まで、ルイーズ・ヘイからバガヴァッド・ギーターまで、万物に内在する神性の教えは、〈再合一の時代〉のスピリチュアリティを予言しています。より高次のものを求めて物質世界を捨てるのではなく、物質世界を愛し、受け入れ、全てを神聖なものとして扱うのです。

ホリスティック医学では患者を愛します。ホリスティック経済学は人とその仕事への愛から育まれ(「それぞれの仕事は唯一無二のものに」)、そしてホリスティック科学は宇宙のプロセスそのものを愛するでしょう。ただ愛し愛される。ずっと、それが私たちの生まれ持つ憧れでした。私たちはその動揺を感じながらも、それを行動に移すことを恐れ、生存不安と機械の論理の奴隷となっています。前者は人間性から行動する「余裕はない」という感覚であり、私たちはコントロールの計画で対応します。後者はあらゆる人や物を何らかの類型の無個性な例として分類することであり、専門的で、冷静で、客観的な手法を適用して対処します。

折り重なる危機が露呈させるのは、機械の論理の欺瞞性と、コントロールという企ての無益さです。私たちが世界と再び愛に落ちるのを、恐怖やイデオロギーが邪魔することはもうありません。その結果、古い二元論は全て崩れ去ります。個人的な関係と経済的な関係の区別はなくなり、経済的な関係は個人的なものとなります。仕事と遊びの区別はなくなり、すべての仕事は遊び心に満ちたものとなります。科学と宗教の区別はなくなり、その両方が導くのは、世界を愛し、宇宙のパターンが展開する中で自分の役割をより完全に理解することです。仕事と芸術の区別はなくなり、どちらも美の創造に参加しようとします。

これら全て、そしてもっと多くのことが、自己と他者という最大の二元論の解消から生まれます。だからといって、私たちすべてが未分化の一体性ワンネスに統合されるということではありません。自然はそんなものではありませんし、私たちもそうではありません。個別ばらばらの自己は、消滅するのではなく、より流動的で遊び心のあるものになり、もはや私たちの現実の永久に変えることのできない特徴ではなくなります。私たちは他の全てのものとの関係を通して自分の個性を感じ定義するようになり、「関係を持つ」のではなく「関係にある」という観点から考えるようになります。関係性が変化し成長するにつれて私たちも変化し、それによって全体の成長に参加し、貢献することになります。

ある霊能者が、現在の世界が崩壊した後に訪れる「百万年の夢」のビジョンを語ってくれたことがあります。夢の中では、世界は心に従って形を変え、主体と客体の区別は流動的です。ひとつの解釈は〈テクノロジーの計画〉の成就で、そこでは私たちのあらゆる気まぐれによってナノテクノロジーが現実を自在に変化させます。でももしかしたら、そのビジョンの意味はまったく違うものかもしれません。夢の中では視点が流動的なので、私たちはまずある登場人物に「なり」、次に別の登場人物になり、そしてその全てを外から見て、夢の全てになることができるのですが、結局すべては(おそらく)頭の中にあるのです。百万年の夢とは、私たちの支配という夢を現実に押しつけることではなく、宇宙が自分を見る夢に私たちが参加することなのです。愛において、私たちは他者と同一化し、その視点から世界を見て、感じて、それによって本質的な合一を実現するのです。それは夢の中でも同じです。世界と再び恋に落ちることで、私たちは宇宙の夢の中に入り、個別ばらばらの自己を解き放つことで、本当の自分へと成長するのです。



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注:
[51] もちろん、鳥のさえずりには私たちが思っているよりもはるかに多くの意味があり、実際、〈自然の原初の言語〉の一部である。この比喩は現代の聴取者を指している。
[52] イヴァン・フォナギー[Fonágy, Ivan], 『Languages within Language(言語の中の言語)』, John Benjamins Publishing, 2001年. p. 181
[53] ジョセフ・エペス・ブラウン[Brown, Joseph Epes], 『Teaching Spirits(魂を教える)』, Oxford University Press, 2001年. p. 35
[54] 愛がないのに、強制的、作為的、性急に境界を解放することは、人を〈アダムの言語〉に近づけるどころか、侵害を招くだけだ。

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-7-11/

2008 Charles Eisenstein

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