【聖なる経済学】 持続可能性の再考
訳者コメント:
フィードバックの話が出てきます。フィードバックとは、結果を見て原因を修正することです。それを循環的に繰り返すのがフィードバックループです。車を運転していて、車が右に寄りすぎているとわかったら、ハンドルを「左に」切ります。このように結果とは逆向きに原因を修正するのが負のフィードバック(マイナスのフィードバック)で、システムは目標に向かって安定します。ところが、右に寄りすぎているのにハンドルを「右に」切ると、目標からの誤差は拡大し、それを見てさらに右に切ることを繰り返せば、加速度的に車線を外れていきます。これが正のフィードバック(プラスのフィードバック)で、システムは暴走反応を引き起こしますが、普通は(ガードレールのように)何か別の限界に突き当たって止まります。
経済学が生態学の延長上にあるというのは、エコロジー経済学の主張と同じです。最初に引用されているE・F・シューマッハーは、『スモール・イズ・ビューティフル』の著者として知られる経済学者で、成長の限界について1970年代に警告を発していました。
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第13章:定常状態経済と脱成長経済
有限な世界において、物質消費が無限に増加することは不可能である。―E・F・シューマッハー
持続可能性の再考
これまでの二章では、持続可能な経済のあり方について概説してきました。地球の生態学的限界を考慮し、際限のない消費拡大を構造的に必要とせずに繁栄する経済です。しかし、持続可能性は私たちの最高の目標となるべきものなのでしょうか。
私は「持続可能性」という言葉にずっと苛立ちを感じてきました。まるでそれが目的であるかのように扱われているからです。私たちが何を持続させたいのか、それ故に何を創造したいのかを考えることの方が、より重要ではないでしょうか。美しく、必要不可欠なものの多くは持続可能ではありません。例えば、妊娠などがそうです。ここ最近、持続可能性ではなく移行(トランジション)へと注目が移ってきていることに、私は勇気づけられています。私たちが移行しようとしている先は、現在の生活様式よりもはるかに持続可能になるでしょうが、それが究極の目標ではありません。人生の究極の目標が単に生き続けることではないのと同じです。
〈聖なる経済学〉の中核をなす概念は、経済学が生態学の例外なのではなく、むしろその延長線上にあるという点です。そこで私たちが問わなければならないのは、自然というのは根本的に安定していて、持続可能で、調和がとれたものなのか、ということです。自然には私たちが社会に求める特性が備わっているのでしょうか。自然は調和とバランスがとれたものだという考えを否定し、逆に残酷で競争的で、浪費的な側面を強調する人もいます。この立場に深いイデオロギー的意味合いがあるのは、〈上昇〉という企て、つまり科学技術を通して自然を支配し征服することを正当化するからです。通常、この見方に共感する人々は、原始社会と人間の本性についてホッブズ的な見方をしており、様々な社会統制手段を備えた文明を、残忍な原始時代よりも大幅に進歩したものと見なしています。これは、〈上昇〉の物語の一部であり、私たちの動物的な本性を超越し、人間だけの領域に到達するというものです。
自然を広大な競争の場だとし、個々の生物が生存をかけて争うダーウィン的な闘争と捉える見方は、経済理論全体に深く根付いています。生物学において、このパラダイムへの批判が高まっていますが、それを経済学に移し替えたものは、依然として多くの経済学者や政策立案者の間で支配的な力を持っています。ダーウィンの「利己的な遺伝子」が生殖における自己利益を最大化しようとするのと同じように、アダム・スミスの「経済人」も経済的な自己利益を最大化しようとします。これは、需要と供給の法則を定式化する上で重要な、経済学の根幹をなす前提です。
過去30年間に生物学を襲った重大なパラダイムシフトは、個々の生物を超えた全体の中に見られる、協力、共生、恒常性維持を重視すものでした。さらに、個体や生物種の垣根を超えた遺伝子共有の重要性を示す新たな発見によって、遺伝的完全性という概念そのものが疑問視されるようになりました。生物学における、競合する個別の自己というパラダイムの崩壊は、心理学、社会学、そして経済学における同様の発展と符合します。競争と「適者生存」は、もはやどの分野においても自明の理とはなり得ません。
だからといって、競争が重要でないと言うわけではありませんし、自然が不変だということでもありません。持続不可能なプロセスは自然界でも起こり、異常なことではありません。それらもまた目的を持っていて、システムをある段階から別の段階に移行させるという役割を果たしているのです。
最近の会合で、ある人が私の「回帰の法則」に関する見解に異議を唱え、自然システムは時に他の生物が利用できない大量の廃棄物を生み出し、それが環境全体を汚染すると指摘しました。おそらく彼が考えていたのは先カンブリア時代の大酸化事変のことで、光合成生物が出現し、その廃棄物である酸素が大気を「汚染」したのです。古典的な見方では、この自然の機能不全は地球上の生命の終焉を意味していたでしょう。大気から酸素を除去できる好気性生物が極めて幸運にも出現したから良かっただけのこと。これは自然の調和などではなく、極めて起こりそうもない偶然の突然変異だったのだ。結論を言えば、私たちは自然の調和に頼ることはできず、常に破局の瀬戸際にあり、したがって自然、身体、そして人間の本性に対して技術的な制御を行使しなければならないのだ。これが〈上昇〉のイデオロギーであり、成長という経済イデオロギーと一致し、定常状態経済の理想とは相容れません。私に質問した人はそこまで踏み込みませんでしたが、彼の主張は基本的に、「ゼロ成長経済を正当化するために自然法則を持ち出すな」ということでした。
私は、この破局的現象をより広い文脈の中に位置づけたいと考えています。先カンブリア時代の大酸化事変のような正のフィードバックループが自然界に存在することは事実です。しかし、それらは特別な瞬間、つまり変容を遂げる時に発生するのです。例えば、ホルモンの自己強化的で自己拡大的な正のフィードバック連鎖によって、出産のプロセスが引き起こされるのです。出産は持続不可能なプロセスであり、長引けば母親を死に至らしめますが、目的が達成されると母親は恒常状態に戻ります。正のフィードバックの段階は、生物や生態系を古い定常状態から新しい定常状態へと移行させるのです。
お金についても、まさにこれと同じように考えることができます。お金は、テクノロジーとともに、人類という超生命体の主要な「ホルモン」の一つであり、それが私たちを新たな状態へと向かう持続不可能な道に突き進ませているのです。テクノロジーは過去のテクノロジーの上に築かれ、さらなるテクノロジーを必要とする問題を生み出します。資本は過去の資本の上に築かれ、将来に向かって指数関数的に多くの資本を生み出すことが必要な利子付き負債によって生み出されます。持続不可能であることは確かですが、あるべき時代を超えて長引かせようとしない限り、不自然ではありません。正のフィードバックプロセスは必ず限界に達します。地球の陣痛はある点までしか強まりません。そして、赤ちゃんが生まれます。私たちが指数関数的な成長曲線として警戒しているものは、実際には相転移曲線の一部なのです。
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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-13-steady-state-and-degrowth-economics/
翻訳メモ:
axiomatic:自明の理。axiomは「公理」で、一般に真実であると認められている原理。
