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細菌との戦争

訳者コメント:
 細菌との戦争は、COVID-19、つまり2019年に始まるコロナ禍の中で全開になりました。本書は2008年の発表ですから、10年以上前に著者はこのことを書いていたわけです。コロナ禍によって社会そのものが熱病にかかった様子は、後の『コロネーション』で批評しています。
 現代病の多くが免疫と関係するものであり、アイデンティティーの混乱と絡んでいることが、ここでも触れられます。除菌、抗菌、消臭、キレイを求めるのは、異物や他者を排除する強迫観念なのですが、これを利用して様々な「パーソナルケア」用品が売られ、殺菌剤や消臭剤はどんどんエスカレートしていきます。生身の人間は「汚い」ので、テクノロジーを使ってコントロールしなければならないのです。これは化粧の必要を疑わない態度にも通じます。キレイが当たり前という感覚は、汚いものを「生理的に受け付けない」というほどに強く心理に刻み込まれているので、おそらくこの問題点を単に頭で理解しただけではダメで、人生が変わるような強烈な体験の中で、自分の中にある分断の物語が書き換わらないことには、この態度が変わることはないでしょう。
 このような個人の嗜好によるコントロールとは別に、前節で扱った法制度と一体となっているのが食品衛生行政です。私の住んでいる山あいの田舎では町の水道と繋がっていないので、飲料水は沢水を引いています。それで病気になった人など聞いたことがありません。ところが食品加工や民泊の許可を取るためには塩素が含まれた水を使うことが義務付けられています。さらに加工食品として分類されるもののリストは次第に拡大していき、最近では漬物がこれに加わりました。もはや「お婆ちゃんの手作り」では漬物を販売することが出来なくなってしまいました。減塩指向とサラダのような漬物の流行が背景にあるとはいえ、販売される食品は全て工業製品としてコントロールされていなければならない、というわけです。金銭によって匿名化される商品の世界と、個別特有の発酵食品は、相性が悪いのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


5.9 細菌との戦争

私たちの法制度を形作っているのと同じ前提が、私たちの医療制度をも特徴づけています。ここまで私たちが見てきたのは、個別ばらばらの自己という全てを包み込むパラダイムが、自然をコントロールする〈テクノロジーの計画〉を生み出す様です。法律と教育の場合、コントロールは人間の本性に対して行われますが、医療の場合、対象となるのは身体とその生物学的環境です。いずれの場合も、このコントロールの目的は安全を達成し苦しみを避けることです。

個別ばらばらの他者からなる世界の中で、自分自身を別個の主体として考えることは、自己の利益が他者の利益と根本的に対立することを意味します。私の取り分が多ければあなたのは少なくなり、あなたの取り分が多ければ私のは少なくなります。この基本的な存在論は医学において病気の細菌説として現れていて、私たちが自分自身を別の方法で見るようになるまでは、他のどんな医療パラダイムも傍流ぼうりゅうにとどまるでしょう。

世界を支配することで全ての苦しみを無くそうとする絶望的な計画が具体的な形をとったものが、細菌、より正確には病原体、つまり「病理」の「原因」、言い換えれば病気を引き起こすものに対する、医学の止むことのない執着です。主犯は細菌とウイルスであり、この他にも様々な真菌、プリオン、遺伝子変異、化学物質を含めるかもしれません。敵対的な世界が自らの利益のために私たちをむさぼり食おうとする中で、切り離された自己の完全性を保つために、私たちはさまざまな形の保護とコントロールを行使します。ウイルス性疾患に対する予防接種、「侵入」してきた細菌を破壊する抗生物質(アンチバイオティック、つまり生命に反するものという、この言葉の意味を考えてみてください)、伝染病患者から私たちを守るための検疫、食品や飲料を雑菌から守るための低温殺菌処理、病気の「撃退」に役立つ他の医薬品。

どうやらこの細菌との戦争は大成功だったようで、19世紀に恐れられていた致死性の伝染病はすべて制圧されました。病原菌というイデオロギーは、現代医学の二大兵器であるワクチンと抗生物質が感染症の終焉に果たした役割を、実際には大幅に誇張しています。イヴァン・イリイチによれば、「15歳までの小児の猩紅熱しょうこうねつ、ジフテリア、百日咳、麻疹はしかによる死亡率を合計すると、1860年から1965年までの死亡率減少の90%近くが、抗生物質の導入と予防接種の普及する前に起こっていたことがわかる」のです[39]。コレラ、結核、ポリオ、腸チフスなどの成人の病気も同じようなパターンを示していますが、これは医学の進歩よりも生活環境の改善に起因していると考えられます。にもかかわらず、医療のプロパガンダが私たちに信じ込ませようとしているのは、「現代医学」の崇高すうこうな目的が、いまだにそのような病気に支配されている世界の後進地域にまで医学を拡大することにあるということです。一方、先進国では、抗菌石鹸、インフルエンザワクチン、頻繁な健康診断や早期検診などで警戒を強めれば、さらに健康になれると信じています。

細菌を撲滅しようという運動は私たちの健康に予期せぬ深刻な結果をもたらします。病原性微生物とともに死滅するのが多くの有益な腸内細菌であり、腸内細菌そうが複雑な方法で免疫系と相互作用し調節しているということが、最近の研究でようやく明らかになりつつあります。さらに、常在細菌が腸壁を独占することで競合細菌が取り付くのを防いで私たちを守るだけでなく、バクテリオシンなどの化学物質を分泌して有害な細菌の増殖を抑制することもあります。自然界と同じように、体内の生態系が破壊されると、病原性の酵母やバクテリアのような日和見ひよりみ的な菌が増殖します。カンジダ症の「原因」は酵母菌の一種と特定されていますが、本当の原因は体内生態系の全身的な混乱です。森林も同様で、広範な樹木の枯死はさまざまな菌類のせいだとされています。でもなぜ木々はかつてないほど影響を受けやすくなっているのでしょうか? その理由は身体と同じで、森全体を侵す毒と生態系の破壊です。

抗生物質が初めて発見されたとき、これで細菌性疾患は永遠に克服されたと思われました。しかし、「戦争を終わらせるための戦争 」の多くがそうであるように、細菌との戦いも次から次へと予想外の展開を見せてきました。細菌は予想をはるかに超える速さで抗生物質耐性を発達させ、広く信じられてきた細菌進化の仕組みに関する科学的な思い込みを覆すことになりました。抗生物質の効き目が低下していることへの対応は、そう、もっと多くの抗生物質です。もしもテクノロジーが幸福度を一時的に低下させているように見えるなら、その解決策は明らかに、もっと多くのテクノロジーです。より強力な抗生物質を、より強力な方法で投与するのです。ニュース記事では細菌に対する「軍拡競争」が語られますが、ヒーローのような科学者たちは、古い抗生物質に対する耐性を細菌が獲得する前に、新しい抗生物質の「兵器庫」を増強しようと躍起になっています[40]。その一方で、技術的対策テクノロジカル・フィックスの他の例と同じように、テクノロジーが新たに強化されるたび、その代償は重くなり、カンジダ症などの副作用が現れます。その解決法は? もちろん、もっと多くのコントロールです。カンジダを死滅させる殺菌剤。そして、主剤の副作用を打ち消すために他の薬も使います。いつの日か〈最終的な解決策〉が開発され、元の問題も、その解決策によって引き起こされた問題も、その解決策によって引き起こされた問題も、全て一気に解決され、そして皆いつまでも幸せに暮らすのだと、私たちは思い込んでいるのです。

実際、科学者の中にはそのような最終的解決策、つまり既知のあらゆる耐性菌に打ち勝つ抗生物質群を研究している人々もいます。この試みを、スティーブン・ハロッド・ビューナーは「おそらく、現在地球上で起きている最も危険な行為」と呼んでいます[41]。そのような最終的解決策がもたらす結果に比べたら、カンジダ症など全く大したことのないものに見えるでしょう。考えてほしいのは、例えば細菌がいなければ、地球上のすべての生命はおそらく滅びてしまうということです。草食動物がセルロースを消化する細菌を失ったり、土壌中の窒素を固定する細菌がいなくなったりしたらどうなるか、想像してみてください。にもかかわらず、現代の抗生物質の残留物は、地下水、土壌、そして生物の組織中に定常的かつ広範囲に検出されています。このような終末シナリオのどれも現実のものにならないことを私は願っていますが、ひとつだけ確かなことがあります。〈他者〉との戦いを激化させるなら、結果はひとつしかありません。私たちが世界にすることは全て、私たち自身に対してすることになるのです。

その理由は、実際には、私たちは他の生命から切り離された別個の存在ではないからです。細菌との戦争は、そうでない振りをしようとする私たちの試みの一側面にすぎず、この見せかけは私たちの懸命な努力にもかかわらず崩壊の危機に瀕しています。

人類は地球上のがんに例えられてきました。癌とは、本来の機能を忘れ、自らの生存がかかっている身体そのものを猛烈な増殖によって死滅させる恐れがあるにもかかわらず、身体の資源を消費し続ける組織です。地球における人類の役割について、これ以上正確な描写があるでしょうか? ならば、私たちが世界に対して行ったことが、私たちの体内に肉体的に現れることに、何の不思議があるでしょうか?

個人のレベルでも、自分自身の一部が本来の機能を超え、生命体全体から精力を奪い取ります。その部分とは生き残りを基本とする自我エゴであり、本来なら人生の目的を果たすために費やされるべき年月と活力を浪費してしまいます。その代わりに、人生は無意味で些細ささいで無常なもの、つまり偽りの安心感や一時的な快適さ、条件付きの自己受容を与えてくれるものばかりを追い求めることに捧げられます。言い換えれば、自己強化という精神の器官が、程々の生物学的安全性と快適性を作り出すという本来の仕事を忘れ、全てを飲み込む巨大な腫瘍に成長したのです。癌の多くは自分に対するこの裏切りが身体化したものだと、私は思います。

しかし、もし病を侵略と見なさないのであれば、私たちは病をどう解釈し、どう治療するのでしょうか? 結局のところ、ウイルス、細菌、がん細胞は、非常に直接的かつ明白な方法で死を招くように見えますし、少なくとも[症状が起こる状態とは逆の作用をする化学薬品を用いる]アロパシー逆症療法が本当に効くことはあります。「虫を殺す」ことで患者は回復するのです。「がん細胞さえなければ、もう大丈夫なのに」と考えたくもなります。「カンジダさえなくなれば、もう大丈夫なのに。」「エイズウイルスを殺すことさえできれば、私は元気になれるのに。」病原体が問題の原因であり、それを取り除けば病気が治るというのは明白なように思えます。

この考え方はニュートンとダーウィンの科学にある基本的な信条から生まれたもので、その前提となるのは目的のない無個性な宇宙です。病原体が侵入してくるのは単にそれが可能だからであり、それ以外の目的は無い。私たちの利益と病原体の利益は根本的に対立している。宇宙とはまさにそのようなものであり、無数の個別の存在が資源を奪い合っているのだ。

癌にかかりやすい体、カンジダにかかりやすい体、エイズにかかりやすい体があるのは、いったいどういうことなのでしょうか? 病原性ライノウイルス培養液を付けた綿棒で鼻の粘膜をぬぐっても、なぜ被験者の半数しか風邪をひかないのでしょうか? さらに言えば、なぜある森の一角にはツタウルシが生え、別の一角にはホウセンカが生え、別の一角にはセイヨウカラシナが生えるのでしょうか? なぜイナゴは特定の時期と場所で大発生し、目に入るすべての植物の葉を食べ尽くすのでしょうか? 還元主義的に考えると、私たちは一般的にこれらの出来事を偶然の産物と見なします。診断されたばかりのある癌患者が、「癌の宝くじに当たったみたいだ」と答えたのを覚えています。統計的に言えば、それぞれの病気にかかる人の割合は決まっています。あなたは不運な一人になるのでしょうか? 統計的に言えば、植物の種子は風など媒介経路の変数に従って無作為に分散します。なぜここにアザミが生え、あそこにゴボウが生え、なぜその反対ではなかったのでしょう? それは単なる偶然の産物なのです。[訳註:欧米人にはゴボウを食べる習慣がないので、ここでは雑草。]

科学のパラダイムシフトによって、この考えは急速に時代遅れになりつつあります。第6章では、協力、共生、環境の目的が、競争と併せてどのように自然を定義する力となっているかを述べます。その結果として想定できるのは、病気にも目的があって、それは肉体的、遺伝的、あるいは魂のレベルにあるという可能性です。たとえば、多くの古来の伝統医学の主張では、風邪やインフルエンザは有害な生活様式によって蓄積された副産物を一掃するのに役立つのです。最近の研究によると、ウイルスは私たちの細胞に遺伝情報を伝達するという役割を持っています。

イナゴの大発生、ゴボウやアザミ、ガンの宝くじには、無作為性とは別の説明があります。アザミの種がここで芽を出し、ゴボウの種があそこで芽を出したのは、それぞれがその場所の土の化学的状態に独自の完璧な貢献をするからだとしたらどうでしょう? もし土がこのことを知っていて、それぞれの植物に適した化学的性質を差し出すことで、種子の芽生えと苗木の成長を「誘う」のだとしたらどうでしょう? もし地球上の全ての存在が、全体の集団的な幸福に貢献しているとしたらどうでしょう? 病害生物は例外なのでしょうか? もしかしたら、「病原性」ウイルスやバクテリアは、個人的にも集団的にも、実は人間に良い影響を与えているのかもしれません。

無作為な「感染」というパラダイムは、コントロールという企てに関わってきます。私たちが細菌を、自らの生物学的利益(生存と繁殖)のために私たちから「資源」を奪おうとする天敵と見なすとき、合理的な対応とは、天敵にそれらの資源を与えず、天敵から身を隠すか、そうでなければ撃退すること、つまり戦うか逃げるかの反応です。インフルエンザの「餌食」になるのが他の人ではなく、ある特定の人でなければならないという必然的な理由はありません。逆に、インフルエンザがあなたではなく私に感染したのは、私自身の体に特有の理由があるからだと私が信じるなら、コントロールという企てはもはや意味をなしません。私の体がウイルスにとって好ましい場所であるなら、いずれウイルスは侵入し増殖するでしょう。身体は病気と健康、あるいは浄化、再生、維持のサイクルを繰り返しているのかもしれず、そのため必然的に時々風邪をひくのであり、風邪をひくのが避けられないような状況になるのです。風邪やインフルエンザのような病気は、ある種の排泄機能を果たしているのかもしれません。毒素を粘液とともに排出し、毒を熱で焼却し、細菌を招き入れて副生成物を除去するための掃除屋として働かせるのです。身体は時々集中的な大掃除をする必要があるのかもしれません。

あるとき医者のコラムで読んだ覚えがあるのは、濡れたり冷えたりすると風邪をひくというのは「俗説」だというアドバイスです。「ウイルスが風邪を引き起こすのです」とその専門家は述べ、「俗説」は選択的記憶によるものだと断じました。たまたま濡れた後で風邪をひいた時のことを思い出し、因果関係を捏造するというのです。私は逆張り主義者なので、寒気さむけが風邪の原因になることはすぐに分かりました。おそらく実際に起こっているのは、寒気が作り出す体内環境がウイルスにとって理想的なものとなり、やがてウイルスが増殖して症状を引き起こし、おそらく粘液の排出によって、(中国伝統医学の用語を使うなら)余分な「寒湿かんしつのエネルギー」を身体が排除するということです。寒湿のエネルギーがなくなると、ウイルスは活発に働けなくなり、免疫システムによって急速に排除されます。ウイルスは恒常性維持のための体外器官と見なせるかもしれません。

風邪ウイルスとの接触を徹底的に遮断したらどうなるでしょうか? まあ、いずれウイルスが侵入するか、あるいはもっと悪いことが起こるまで、寒湿という内部気候はいつまでも続くでしょう。この推測の裏付けとして、ほとんどの人が風邪やインフルエンザから回復した後は、病気にかかる前よりも気分が良くなるという単純な事実を考えてみましょう。前より弱ってしまうかと思うでしょうが、そうではなく、元気を取り戻したように感じることが多いのです。中国伝統医学は、この説をさらに裏付ける格言を残しています。「小病にならなければ、いつか大病になる。」風邪やインフルエンザがもつ掃除の機能が何らかの理由で働かなくなると、毒素やエネルギーの不均衡が蓄積し、大きな病気になります。おそらく、全く手つかずの環境であれば違ったことになるのでしょうが、現代の生活様式と環境に毒が満ちていることが意味するのは、今では時折病気になることこそ健康のあかしだということです。

命にかかわるような症状でない限り、私はその症状が完全に身体に現れるのに任せます。風邪薬やインフルエンザ治療薬は、私たちの体が病原体を招き入れる目的そのものを妨げてしまいます。その過程を支援し、安全にやり通すために体が必要とするものを与える方が、ずっと良いのです。必要とするものが何であるかは病気の性質によって異なり、有能な治療者ヒーラーならそれが何なのか解明する手助けをしてくれるかもしれませんが、必ず必要となるのは安息です。病気療養は、肉体的な毒素とともに、日常生活のストレス、心配事、多忙さのような「精神的な毒素」を一掃する機会にもなります。

もし病気を起こす生物が人間という種と互恵的な共生関係にあるのなら、細菌との戦争は重大な誤りです。私が次章で展開する主な概念的手段の一つは、共生生物を私たちが相互に依存し合う別個の存在としてではなく、自己の一部として捉えることです。したがって細菌との戦争は、私たちの文化が抱える自他の取り違え、つまり私たちが何者であるかをめぐる混乱のもうひとつの側面なのです。現代に大流行している病が自己免疫疾患なのは驚くに値しません。最も基本的なこととして、免疫系は自己と他者を区別するものです。私たちが何者であるかについての集団的な混乱は、免疫系の障害として身体に現れます。因果関係がかなり具体的である場合もあって、例えば小児ワクチン接種の一般化と、子どもたちを苦しめるさまざまな免疫疾患の増加との関連があります[42]。最もよく知られているのは自閉症との関連で、これは脳のミエリン[中枢神経の外側を覆う脂質]に対する自己免疫攻撃として理解できます[43]。私の個人的な経験で最も印象的なのは、子供たちの間でアレルギーが甚だしく増加したことです。私が子供だった1970年代には、クラスに1人か2人ぐらいアレルギー体質の子どもがいましたが、かなり珍しいことでした。当時は特に生後2年間に接種されるワクチンの数がずっと少なかったのです。現在では、子供に何かを食べさせる前に、まずアレルギーの有無を親に聞かずに済むことなどほとんどありません。

コレラ、チフス、天然痘、ペストといった致死性の病気についてはどうでしょう? それらを人類と共生する友とみなすのは、少なくとも個人のレベルでは難しいことです。にもかかわらず、生態学的、遺伝学的、あるいは魂のレベルで、これらの病は有益な機能を持っている可能性があります。いずれにせよ、致命的な急性伝染病はほとんど過去のものとなってしまいました[44]。公衆衛生のエネルギーは次の流行への備えに注がれ、当局が不安を煽るのは、テロリストが伝染させる天然痘、新型インフルエンザ、エボラ出血熱のような外来病、SARSサーズのような新型感染症などの脅威です。これらに集中することで、私たちは過去のいくさの武器を使って過去のいくさをしているのです。この種の敵に対しては、ワクチン、抗生物質、隔離などのコントロール技術が有効なのです。

現代の新しい病は、それらと異なる種類のものです。癌、関節炎、慢性疲労症候群、アルツハイマー病、クローン病、多発性硬化症、糖尿病、エイズなどは、コントロールの医学をものともせず、ワクチンや抗生物質の全盛期を凌ぐ研究費が投入されているにもかかわらず、その治療法はほとんど進歩していません。重要なのは、これら新しい病の全てではないにせよ、そのほとんどが免疫系の機能障害に関係しているということです。それらは、私たちと世界との関係を決定づけているのと同じ、自他の混乱を反映しているのです。

21世紀の病に対して無力な私たちは、代わりに微生物の世界に対してこれまで以上に極端な手段を講じています。細菌との戦争の表れの一つは、抗菌石鹸、全ての外食産業従事者が使うゴム手袋、アジアでのSARS「流行」の際に登場した(そして場合によっては法的に義務付けられた)ゴムひも付きマスクの普及です。これらの手段は自己と世界を隔てる物理的な障壁となり、私たちを互いから、そして自然から隔てる心理的な距離を具体的なものにします。ときおり私が見る悪夢のようなビジョンは、お互いの吐いた息をフィルターを通さずに吸うことそのものが嫌悪され、違法とされ、誰もがガスマスクを着用し、人間との接触はすべてゴム製品やコンピューター端末を介して行うような未来です。

同じように恐ろしいのは、鳥インフルエンザに関する現在のヒステリーです。この病気は野鳥によって家禽かきんに感染するため、一部の当局は鶏の放し飼いを禁止する新たな規制を実施しようとしています。しかし最も感染しやすいのは免疫系が衰弱している屋内ケージ飼いの鶏であり、実際に病気を蔓延させるのは工場式の養鶏方法です[45]。これに関連する提案が米国で出されていて、全ての家畜の皮下にデジタルタグを埋め込むことを義務づけるというものです。どこでもコントロールのテクノロジーは同じ形を取ります。あらゆるものを分離し、閉じ込め、番号を振るのです。

そのイデオロギー的な基盤が変わらない限り、これらの傾向のどれも弱まることはないでしょう。医療用マイクロチップはすでに利用でき、人間の皮下に埋め込んで様々な生理状態を監視できるようになっています。アジアではSARSのとき、公共施設に入る条件として体温測定が行われました。伝染病の可能性は集団を検疫し移動を規制する根拠となり、医学的な口実で正当化された国内パスポート制度を作り出します。このような措置は全て、分離とコントロールという考え方からすれば完全に理にかなっています。

私たちの細菌恐怖症は、清潔さという全般的な嫌悪感が特定の形をとったもので、支配欲の真骨頂の表れです。清潔さは神聖さとほぼ同じだと言われますが、それは神がこの大地から切り離されている場合にのみ当てはまります。汚い(ダーティー)のダートとは土の意味で、文字通り世界以外の何物でもありません。清潔な身体と清潔な家を維持することは、自分自身を世界から切り離すことです。社交の場に不潔で臭いまま現れることほど無礼なことはありません。土と一体であることは、野蛮であるということであり、土の世界から上昇していないということであり、心や精神より肉体の側にいるということです。大人がベタつくものに不快を感じるのも同じような理由からです。親なら誰でも知っているように、幼い子供はベタベタすることをまったく気にしません。しかし、ベタつくということは文字通り世界(他者)が自己に付着するということです。したがってベタつきは、自己と世界の物理的な分離を脅かすことによって、私たちのコントロールの感覚を侵害するのです。

〈細菌との戦い〉の最後の非常に重要な側面は、食品供給が絶対に無菌であることへのこだわりです。牛乳やビールなどの低温殺菌は均一性や賞味期限に関係したもので、安全性はその理由というより正当化です[46]。均一性、賞味期限、標準化といった経済的動機を補強するのが、より根本的な動機であるコントロールです。例えば牛乳が、完全に滅菌され、酪農場から加工工場、スーパーマーケットに至るまでその状態が保たれている限り、感染の可能性はなく、完璧に安全であり危険はありません。コントロールによる健康です。

これと対照をなす生態系のパラダイムで求められるのは、より広範な健康の観念で、それは牛や放牧地、農家や加工業者の健全性にまで及びます。生乳は実はかなり安全ですが、健康な牛から採れたものに限られ、現在の(工業的な)酪農法では不可能です。牛が健康でいられるのは、土壌が健康で、野外で放牧され生活し、収量を上げるための人工的なホルモン剤や抗生物質を投与されず、長期的には牛乳を過剰に生産するよう交配されない場合だけです。これらの要件は全て、重量当たりのコスト最小化に反するため、生乳を商品市場に委ねることとは相容れません。コスト管理から製品の滅菌に至るまで、このようなコントロールの全ての側面は互いに補強し合っているのです。

他の多くの技術的対策と同じように、食品を滅菌した結果その健康性は低下するのであって、けっして増進することはありません。低温殺菌された食品から酵素やビタミンが失われているというだけでなく、生の乳製品や低温殺菌されていないザワークラウトに含まれる生きた細菌は、実際には腸内細菌そうに貢献し、体に栄養を与え、病気を防ぐのに役立っているのです。有害なサルモネラ菌、大腸菌などの細菌が、無菌の食品を標的にして日和見ひよりみ汚染するのは、殺菌処理されていない牛乳やその他の食品に含まれる本来の良性細菌と競合しなくて済むからです。一度コントロールを開始したら、継続的に維持しなければなりません。

伝統的な食文化では発酵を広く利用することで逆の手法をとっていて、滅菌した培地に単一の微生物を植え付けるような管理された形ではありませんでした。伝統的な発酵は周囲の微生物を活用することで文字通り世界を招き入れるだけでなく、何百種類もの酵母や細菌を複雑に培養したものを用いましたが、それらは互いに共生しているというだけでなく、何世代にもわたって人間と共生してきたものでした。その結果は予測できないようなものでした。洞窟で熟成させたチーズや自然発酵させたワインは、毎回が独特のものでした。したがって自然発酵は、製品の均一性と長期保存性を必要とする工業生産や大量販売の要求とは相容れないのです。

最新の滅菌法は放射線照射で、香辛料や食肉などの食品に広く使われています。その方法の基本は、食品を放射性の核廃棄物にさらし、生きているものを全て殺すのに十分な強さの放射線を浴びせます。驚くべきことに、放射線が照射されると、食品は新たな細菌汚染を受けにくくなります。細菌の生命を育むこともできないのに、どうして人間の生命を育むことができると考えられるのでしょうか? そんなことができるのは分断という物の見方だけです。

現在の食品衛生に対する強迫観念、そして細菌撲滅に向けた運動の全体は、人間の消化器官が犬や豚のものとさほど変わらないことを知るなら滑稽にさえ見えてきます。世界をコントロールすればするほど、世界に対してより過敏になるのです。犬は床から食べたりトイレの便器から水を飲んだりしているにもかかわらず、私たちよりも頻繁に病気になるようには見えませんし、外食産業従事者が手袋を着用するようになってから、健康状態が著しく改善されたようにも見えません。それどころか、免疫系に定期的な試練がないことで免疫系はより敏感になり(私は何かを見逃しているのかもしれないと考えるようになり)、その一方で本当の危機に立ち向かうために必要な練習の機会を奪うことになります。免疫系は過敏になると同時に本当の困難に対処できなくなるのです。甘やかされ、過保護に育てられた現代人との類似は明らかです。


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注:
[39] イリイチ [Illich,] p. 16
[40] 典型例としては、『The Antibiotic Arsenal(抗生物質の兵器庫)』, http://www.microbeworld.org/htm/cissues/resist/resist_2.htm を参照
[41] スティーブン・ハロッド・ビューナー [Buhner, Stephen Harrod,] 『The Lost Language of Plants(失われた植物の言語)』, Chelsea Green, 2002. p. 139
[42] このようなことが起こる一つの経路は、ワクチン培地を介してヒトにシミアンウイルスが持ち込まれることである。たとえば『Journal of Infectious Disease(感染症学会誌)』, 1999年9月;180:884-887 を参照。また、多くのワクチンで防腐剤として使用されている大量の水銀を非難する声も多い。
[43] 『Autism, Autoimmunity and Immunotherapy(自閉症、自己免疫、免疫療法)』:ヴィジェンドラ・K・シン博士による解説, http://libnt2.lib.tcu.edu/staff/lruede/singhfeature.html
[44] このような伝染病がいまだに蔓延している第三世界の地域は、自然からの疎外が西欧のような段階に達していないという意味で、まだ「過去のもの」なのである。
[45] 『Fowl play: The poultry industry’s central role in the bird flu crisis(「鳥の」反則技:鳥インフルエンザ危機における養鶏業界の中心的役割)』, **** http://en.groundspring.org/EmailNow/pub.php?
[46] 低温殺菌の起源と誤った科学についての詳細な議論は、ロン・シュミット著『The Untold Story of Milk(語られなかった牛乳の話)』を参照。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-09/

2008 Charles Eisenstein


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