「The Perfect Humanity」第1話
1.目覚め
パブロは、自身の血液で円形に描かれた幾何学模様の中央に横たわっていた。その幾何学模様は、中央から外側へと伸びる難解な迷路のように入り組んでおり、太い線で描かれた外周は、さながら内部の人間を閉じ込めるための魔法陣のようだ。
少しずつ意識を取り戻し始めたパブロは、何かを口にしようとしたが、「うう」やら「ああ」やらの、意味のある言語にならない呻き声しか発することが出来なかった。手足を動かそうとしたが、身体を少しよじらせることすら困難だった。頭の中は重く黒い霧が支配し、ぼうっとした感覚で満たされていた。なんらかの薬の効果だとパブロは直観した。
右の脇腹に鋭い痛みが継続的に続いており、そこへ手を伸ばすことは出来そうにないが、そこから血液が流れ出ていることは察しがついた。この魔法陣はその血を利用して描かれたのだろう。
「目が覚めたか、パブロ」
反射的にパブロは視線を声の主——ニルヴァンに向け、強い憎悪感を伴って睨み付けた。ニルヴァン——通称ソーサラー・キラー。刑事であるパブロが29歳の頃から約10年間追っている連続殺人鬼。
パブロの視線にニルヴァンは身震いした。恐怖からではなく、愉悦が身体を走ったのだ。
「ああ……ようやくだ」
ニルヴァンは大きく息を吐いた。先ほど駆け巡った快感は即座に失われ、灰色の倦怠感が後頭部に広がる。
「もう終わりにすべき時が来たんだ、君も私も。お互い、疲れ切っている」
ニルヴァンはパブロの頭を優しく撫でた。「君が失血で死ぬ前に完成させないとな」
パブロは朦朧とした意識の中で、ニルヴァンの両手に、人間の腕と足のようなものが何本か抱えられていることに気付いた。
「わかるかい? いよいよ君を作品へと昇華することが出来るんだ。この日をどれだけ待ちわびたか」
ニルヴァンは比較的細い腕を、肘が円の中心——パブロの方向だ——を指し、手のひらが外側を向くように、魔法陣の上へと1本配置した。パブロの視界に入る場所に。直後、パブロは身体をうねらせ、憤怒に満ちた呻き声を叫んだ。
「そう、これは君の妻サンドラの腕だ」
パブロから一歩下がったところで全体図を確認しながらニルヴァンは言った。
「5年前に彼女が失踪してからというもの、君は何一つ手かがりを見つけられず、自暴自棄になっていたな。あの時期は目も当てられなかった」
ニルヴァンは床の模様が崩れないよう慎重にパブロに近づき、顔を寄せた。
「10年ぶりの再会にサンドラも喜んでいるだろう」
パブロは魔法陣の周りをゆっくりと歩き、今度は一本の足——ふとももの根元から切断されている——を先程の腕とは反対の位置へと、やはり足先が円の外側に来るよう配置した。
「彼の名前はなんだったかな……」ニルヴァンは左手の指でこめかみを叩き、複雑に絡み合った自身の記憶の糸を手繰り寄せる。
「ああ、彼はグレッグだったな。君の良き相棒。彼は2年前に失踪したんだったよな」
ニルヴァンは鼻歌交じりに、彼の魔法陣の上へ次々に手足を飾り付けていく。ニルヴァンにとって、飾り付けているこの時間だけが、彼から灰色の倦怠感を忘れさせてくれる唯一の安らぎだった。
「彼の件には君も相当参ったようだ。本格的に衰弱し始めていくのを見て、私は少し心配したよ」穏やかな笑みをパブロに向ける。「君がこのゲームを降りてしまうんじゃないかってね」
「これは君に情報提供をしてくれていたキサラギ」
ひとつ手足を置く度に、ニルヴァンは懐かしい思い出を旧友と振り返るかのように優し気な口調で呟いた。「これは君のお母様だね」
こうして、パブロを中心に、切断された腕と足が交互になるようなパターンで次々と配置されていき、15本ものそれらが、パブロを取り囲むように同心円状に並んだ。
パブロは思いつく限りの憎悪の言葉を叩きつけようとしたが、口を開いた瞬間咳き込み、鮮血を吐き出した。それでもパブロは、身体中の血液が煮えたぎるような思いに駆られ身をよじり続けた。
「これは、作品を完成させるための過程であるのと同時に、君の魂を解放するための儀式でもある」ニルヴァンは人差し指を立て天井を見上げた。
「君は……2年前から酒やドラッグに頼るようになって……今ではそれ無しで戦うことは出来なくなってしまった」
ニルヴァンが部屋の奥にあるテーブルの方へと歩いていくのを、パブロは目で追った。テーブルの隣に少し開かれた扉が見え、その奥にふたりの男が倒れているのが見えた。2時間前、一緒に突入した警察官たちだ。くそ、応援を待てという上司からの無線に従っておくべきだった。
「手の震え、胸の動悸、後悔、罪の意識……根が真面目な君にとって、その苦しみは耐え難いだろう。だがそれも、もうすぐ終わらせてあげられる」
テーブルに目を落としていたニルヴァンが再びパブロの方を振り向いた。その手には刃渡りの長いナタが握られている。
「ここがゴールだ、パブロ」
ニルヴァンの目に決意の光が宿り、速い足取りでパブロの方へ歩き出した。パブロは呻きながら身をよじるが、次の瞬間にはニルヴァンはパブロの顔のすぐ近くにしゃがみこんでいた。
「ふたりでこれを完成させよう」ニルヴァンは顔をパブロの顔へと近づけ、その目をしっかりと覗き込んだ。
衝撃がパブロの身体に走り、絶叫が部屋に響く。直後に右肩が激しく痛む。意識が頭の裏側から抜け落ちそうになる感覚。点滅する視界の中、パブロは自身の右肩を見た。そこにあるはずの右腕は失われていた。
「最後のピースが揃ったな」ニルヴァンは手にしたパブロの右腕を見つめた。その視線の熱量は、まるできらめく鉱石に見入る少年のようだった。やがてニルヴァンは、その右腕を丁寧にパブロの傍らに飾り付けた。
ニルヴァンが再びパブロの目に視線を合わせた瞬間、パブロの身体に再び衝撃が走る。今度は右の脇腹だった。視界は次々に黒や赤や緑でいっぱいになりながらも、パブロの視線はニルヴァンの目に釘付けにされていた。
パブロの右の脇腹には、ナタが深く刺し込まれていた。ニルヴァンはパブロの目を見続けながら、ナタを持つ手をねじっていく。パブロは一瞬だけ痛みに身体を痙攣させたが、突如痛みの感覚が途切れ、温かな液体に包まれる感覚が股や胸に広がっていった。
視界が徐々に狭くなっていき、強烈な眠気がパブロの意識を支配し始めた。
「おやすみ、パブロ」
視界いっぱいに映るニルヴァンの無垢な笑顔が、差し込む太陽の光と溶け合い、やがて全てが真っ白になった。
* * *
ひときわ大きなトラックの振動に身を揺られ、パブロは目が覚めた。
周囲を見渡すと、大きな布に包まれた暗いトラック荷台の中に、誰が見ても明らかに規定の積載量を超えた数の人々がすし詰め状態で座っている。彼らはみな顔を伏せていた。メキシコからアメリカへと密入国するためにこのトラックへと乗り込んだ彼らは、息をひそめて計画の成功を祈っているのだ。パブロと、パブロの母マリアナもその中のひとりだった。
パブロの家は、世界共通と言っても差し支えないほどの、片田舎にある典型的な一家だった。つまり、酒と違法薬物と暴力が日常の中にあった。父エドァルドは、土木作業員として20年働いていたが、ある日不慮の事故で右腕を失った。エドァルドを雇っていた会社は、彼を援助するどころか、早々に解雇通知を叩きつけた。それからエドァルドは長らく職に就くことが出来ず、そのストレスからアルコールと違法なドラッグに溺れていった。
そしてやがて、エドァルドは自身の妻マリアナと息子であるパブロに、日常的に暴力を振るうようになっていった。その暴力性は日に日に苛烈を極め、ついエドァルドは一線を越えた。
ある激しい雨の夜、寝静まるパブロの首に、エドァルドは手をかけた。当時5歳のパブロにはどうすることもできなかった。遠のく意識の中で、パブロの記憶に残っているのは、父の怒りに満ちた表情と、父の頭頂部に突き立てられた斧の刃の輝き、そして、自身を強く抱きしめ泣き叫ぶ母の声だけだった。
新しい生活、というものに、パブロは少なからず心を弾ませていた。暴力の無い日常、安定した仕事、母の安寧。この密入国が成功すれば、新しい人生が手に入る——。
トラックが減速したことに気付き、パブロは空想から覚めた。母の話によれば、到着には少なくとも8時間は掛かる筈だったのだが。トラックのドアの開閉音が聞こえ、その近くで、別の車両のドアの開閉音が聞こえた。近くに別の車両が居るという事実に、パブロの頭の中はパニックに陥っていた。幼いながらも、この密入国が何者かに見つかれば、よくないことが起こるということは理解していた。
トラックの運転手が知らない言葉——おそらくアメリカの母国語だろう——で短く何かを言った。それに相手も短く返答する。母の方を見ると、母はパブロの不安に気付き、優しく頭を撫で微笑んだ。だが、その微笑みは引きつっていた。
荷台の中の人々は、一言も発さなかった。もちろん、みな恐怖や混乱や緊張に支配されていたのもあったが、勘付かれたら終わりだということを知っていたのだ。静寂を保つために、自身の指を強く噛んでいる者もいた。とにかく全員が顔を伏せ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
パブロは荷台の外に居る者たちの声に耳を澄ました。相変わらず何を言っているのかはわからなかったが、決して友好的な議論にはなっていないことだけは伝わってきた。我々を追ってきた者が、大きな声で何かをまくしたてるように言うと、銃声が2発聞こえ、それから長い沈黙が訪れた。
パブロは震える唇を噛み、震える足を左手で押さえつけながら、右手を上着の懐へと入れ、そこに仕舞っていた鋭利なガラス片を握りしめた。そのガラス片は、かつてパブロが住んでいた家の窓ガラスだったものだ。父エドゥアルドによって窓ガラスは破壊され、ガラス片はしばらく床に転がっていたが、母と家から逃げ出すとき、そのガラス片をパブロは懐に忍ばせたのだった。父が死んだあの夜、自身に武器があれば、母にあんなことをさせなくて済んだ。それを忘れないためだ。
ますます大きくなっていく自身の心臓の鼓動音をパブロは憎んだ。この音が、外に居る男に聞こえてしまったらと思うと、胸のあたりがギュッと痛んだ。荷台の誰もが、恐怖で叫びそうになるのを堪えている。
——どうか、荷台の扉よ、開かないでくれ。
直後、太陽の光が荷台の中に差し込み、その強い光にパブロは目を細めた。荷台の入口の隙間から、大きな男の姿が見えた。男は不自然なほど陽気そうな笑顔で中を覗き込んでいる。
「ほーら居たぞ。アメリカの寄生虫どもめが」
男は流暢なスペイン語でそう言った直後、何か黒いものを構える動作をした。銃だ。その銃口が母マリアナに向けられるのを見て、パブロはとっさに地面を蹴り、男に飛びかかかった。それからのことは、パブロにはまるで全てスローモーションのように見えた。パブロが男の懐に飛び込むのと同時に、向けられた銃口が発光するのが見えた。
* * *
目を開くと、強い光がパブロの目を刺した。驚きのあまり大きく息を吸い込むと、喉が異常に乾いていることに気付き、同時に激しく咳き込んだ。周囲の異様な寒さに身震いすると、強い頭痛と耳鳴りが遅れてやってきて、尚も続く強烈な光の刺激から逃れようと、パブロは目を細めて身をよじった。そこで初めて、パブロは自身が何かに拘束されている状態であることに気がついた。
「落ち着いてください」女性の声が聞こえて、パブロが声の主の方へと視線を向けた直後、強烈な光は消失した。
「どうなってる?」パブロの質問に女性はしばらく答えなかった。その間に、パブロの目が徐々に暗闇になれていった。どうやら自分は、人間ひとりが辛うじて横になれるくらいの、非常に狭い部屋の中——見たところ、精神病棟か、実験施設のような場所——に居て、ベッドらしきものに身体を拘束された状態で横たわっているらしい。
次にパブロは女性の方を見た。彼女は20代前半くらいの風貌で、ブロンドヘアに青みがかったグリーンの目をしている。警備員の制服のようなものを着ており、右手にはスティックライト——先ほどの強烈な光はこのライトのせいだろう——が握られていた。今は無感情な表情で、パブロの全身をくまなくチェックしている。
なるほど。状況から察するに、誰かが俺をあの地獄のようなニルヴァンの魔法陣から救い出してくれて、今は病院のベッドにいるのだ。パブロはそう結論づけた。
「俺は、死ななかったのか」とパブロは静かに呟いた。自身が生き残ったことに、喜びや安寧は特に感じられなかった。あの地獄は、まだゴールではなかったという事実が、鉛のようにパブロの心を消沈させた。
「このライトを見てください」女性がそう言うと、手にしていたライトを点灯して、パブロの右目を照らした。「眼球を上に向けて」と女性が指示する。パブロは黙ってそれに従った。数秒間の照射が終わると、次は左目で同じ手順を繰り返し、女性は「"再起動"に問題は無いようですね」と言った。
「再起動?」パブロは彼女が放った言葉を繰り返した。随分と変わった表現の仕方をすると思ったからだ。
「ええ、なにしろ随分年季の入ったレトロな技術ですから。正直言って、再起動する確率は、おそらく0.000174%くらいだろうと思っていましたが、幸運でした」
女性はそう言うと、パブロの両手と両足の拘束具をひとつずつ外していった。最後に右手の拘束が外され、パブロはベッド——拘束台といった方が正しいように見える台——から身を起こすと、ひとつの違和感に気付いた。右手の拘束?
パブロはハッとして、自分の右肩を左手で掴んだ。そこには間違いなく右肩があり、左手を下にスライドしていくと、しっかりとした右腕があった。ニルヴァンに切断された筈の右腕が。右手の指をゆっくりと開いたり閉じたりしてみると、右手はパブロの思った通りの動きをしてくれた。
「なあ、おかしいことを言ってると思うかもしれないが、俺の右腕……」パブロがそこまで言ったところで、女性は「今はあまり時間がありません」と返した。
「時間が無い? そりゃいったいどういう……」
直後、大きな衝撃が部屋全体を激しく揺さぶった。何かが爆発したような音がどこかでしたかと思うと、警報のようなサイレンが鳴り響いた。パブロがよろけて倒れそうになるのを、女性が肩で支える。
「こういうことです」女性はパブロの顔をちらりと見て肩をすくめた。「今、人間主義者たちの一派がこの施設を襲撃したところです」
「人間主義者?」パブロの質問を女性は無視して言葉を進めた。「あなたがあいつらに捕まる前に、私はあなたを回収しに来たんです」
パブロには全く状況が飲み込めなかった。見覚えの無い施設の部屋。250年前の技術。本物にしか見えない右腕の存在。人間主義者たち。自身を回収しにきた若い女性。
「脱出のルートパスは演算済みです。さあ、行きましょう」
そう言って進もうとする彼女の肩をパブロは振り払った。彼女は振り返り、両手を大きく開いた。「どうしました?」
「俺はあんたが誰かも知らない。あんたと一緒に行くことが安全とは思えない」
パブロは部屋の壁に背中をつけたまま、女性と距離を取りつつ、ゆっくりと部屋の扉の方へと進んでいく。また大きな爆発音が聞こえ、部屋が大きく揺れた。音は先ほどより近づいてきている。さらに、そこかしこで人が走り回っているであろう足音と、怒鳴り声らしき音がこの建物のどこかで響いていた。
「私の名前を知りたいのですか?」そこで女性は手を顎につけ、少し考えた素振りを見せた後、言った。「私のことは……そうですね、ベロニカと呼んでください」
「そうか、ベロニカ。名乗ってくれてありがとよ」パブロは部屋の扉に手をかけた。
「あなたがこのままひとりで部屋を出て、生き残れる確率は0.028%といったところです。彼らはあなたを助けに来たんじゃない。暴力的な手段で拉致しに来たんです」
ベロニカは早足でパブロに近づいていく。パブロは急いで部屋の扉を開き、走り出すために足を踏み込んだが、開かれた扉の先には、銃を構えたふたりの人影が立っていた。片方の男が「下がれ」と言い、パブロは両手を上げて後ずさりする。ふたりの人影は、黒いタクティカルベストに身を包み、さらにフルフェイスのヘルメットをしている。かなりの重装備であることが予想された。
「お前ひとりか?」もう片方の男がパブロに尋ねた。パブロが振り返ると、先ほどまでベロニカが居た場所には誰も居なくなっていた。
再びパブロが男の方を振り向くと、ちょうどベロニカが上空から男に向かって膝蹴りを決めているところだった。パブロに銃口を向けていたもう片方の男が慌ててベロニカに銃口を向けようとしたが、それをベロニカは左手で払いのけた。男は胸元からナイフを取り出そうとしたが、その時にはもうベロニカの右手が男の首筋に突き立てられいた。男は卒倒し、そのまま動かなくなった。
「なるほど。こっちの方が効率的ですね」ベロニカはそう言うと、再びパブロの方へと足早に歩き始めた。
パブロはさきほどベロニカが払い落とした拳銃が足元に落ちているのに気付き、それを拾おうと手を伸ばしたが、ベロニカの右足が先に銃を部屋の隅へと弾き飛ばした。
「おい、ちょっと待っ——」パブロが言い終わる前に、ベロニカの一撃による衝撃が首に走り、直後パブロは崩れ落ちた。
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