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短編小説 異世界最強整体師

この物語は、誰かを倒すことで強さを証明する話ではありません。

主人公の紗奈は整体師です。剣を振るうことも、炎を放つこともできません。けれど彼女は、人が痛みを我慢しすぎると心まで曲がってしまうことを知っています。肩が上がらない兵士、眠れない騎士、怒りに飲まれた敵、災害の記憶を抱えた自分自身。そうした痛みに手を当て、呼吸を戻し、もう一度立てるようにすることが彼女の戦いです。

異世界で最強になる力が、もし「攻撃」ではなく「回復」だったら。敵を倒すのではなく、敵が戦う理由そのものをほどいてしまう力だったら。そしてその手が、最後には世界の痛みにまで届いたら。

そんな願いを込めて、『異世界最強整体師』を始めます。


第一章 災害の夜、癒し手は転生する

白石紗奈は、人の背中を見る仕事をしていた。

丸まった背中。限界まで張った肩。眠れていない首。笑っていても、腰にだけ本音が出ている人。整体院のベッドにうつ伏せになった客は、たいてい「大したことないんです」と言う。紗奈はその言葉を責めず、ただ手のひらで確かめる。

「大したことない痛みを、何年も我慢してきたんですね」

そう言うと、泣き出す人がいた。

紗奈は魔法使いではない。医者でもない。ただ、誰かが自分の身体に戻っていく瞬間が好きだった。息を吸えるようになり、指先が温まり、眉間のしわが少しほどける。その小さな変化が、彼女にはどんな拍手よりも大切だった。

その夜、雨は街の音をすべて叩き潰していた。

整体院を閉めた紗奈は、傘を諦めてレインコートのフードを深く被った。スマートフォンには避難指示の通知が何度も出ていた。川沿いの地区に住む高齢の常連客が気になり、彼女は帰宅とは逆方向へ走った。

土の匂いが濃くなった。

嫌な予感がした直後、山の斜面が低く唸った。地面そのものが獣のように動き、黒い土砂が道路を飲み込んだ。悲鳴。車のクラクション。割れるガラス。紗奈は足を取られながらも、泣き声のほうへ向かった。

泥に半分埋まった軽自動車の中で、小さな男の子が泣いていた。

「大丈夫、聞こえる? お姉さんが出すからね」

紗奈はドアを引いた。動かない。窓の隙間から手を伸ばし、子どものベルトを外す。腕が泥で滑った。爪が割れた。背後でまた斜面が鳴った。

怖い。

怖いに決まっている。

けれど、子どもの首が不自然に傾いているのを見た瞬間、紗奈の頭は静かになった。呼吸を確保して、首を支えて、焦らせない。何度も練習した災害時の応急対応が身体に戻ってきた。

「ゆっくり息して。そう、上手」

男の子を抱き上げ、近くの大人に押し渡した。

「病院へ。首を動かさないで」

言い終わる前に、世界が崩れた。

次に目を開けたとき、紗奈は光の中にいた。

白ではない。金でもない。朝の雲と水面を混ぜたような、柔らかい光だった。その中心に、長い銀髪の女性が立っている。人間とは思えないほど美しく、けれど泣きそうな目をしていた。

「白石紗奈。あなたの命は、あの世界で終わりました」

紗奈はすぐには答えられなかった。

あの男の子は。

それだけが喉に引っかかった。

女神は、紗奈の問いを待たずに頷いた。

「助かりました。あなたが支えた命は、今も続いています」

膝から力が抜けた。泣きたいのに涙が出なかった。身体がないのかもしれない、と紗奈はぼんやり思った。

「私はリュミエラ。これからあなたに、別の世界で生きる機会を与えます」

「転生、ですか」

「はい。けれど勇者としてではありません。あなたの魂に最も近い力を授けます」

女神が手を差し出すと、紗奈の前に二つの光が浮かんだ。

ひとつは、淡い緑の光。触れた身体の歪み、滞り、疲労、痛みの流れを読み取り、整える力。

「ボディケア」

もうひとつは、澄んだ青の光。毒、麻痺、混乱、恐怖、呪い、狂化。正常な状態から外れたものを、本来の姿へ戻す力。

「状態回復」

紗奈は瞬きをした。

「攻撃魔法は?」

女神リュミエラは、少し困ったように微笑んだ。

「ありません」

「防御魔法は?」

「ありません」

「剣の才能は」

「残念ながら」

紗奈は深く息を吐いた。異世界転生という言葉から想像していたものと、だいぶ違う。けれど、胸の奥のどこかは静かだった。

人を壊す力より、人を戻す力のほうが、自分らしい。

「わかりました。やれるだけ、やってみます」

女神の目が揺れた。

「あなたなら、きっと届きます。人だけではなく、この世界そのものに」

その言葉の意味を聞く前に、光がほどけた。

紗奈は森の中に落ちた。

正確には、ふかふかの苔の上に尻もちをついた。空には見たことのない二つの月が浮かんでいる。木々は地球のものより高く、葉の先が淡く光っていた。

「本当に異世界……」

感動する余裕は、三秒で消えた。

茂みの向こうから、低いうなり声がした。現れたのは、狼に似た魔物だった。額に黒い角があり、口元から紫色の泡を垂らしている。紗奈の身体は硬直した。

逃げる。

そう思ったのに、足が動かなかった。魔物の右前脚が震えている。背中の筋肉が異常に盛り上がり、呼吸が浅い。目は怒っているのではなく、痛みに焼かれていた。

「……痛いの?」

自分でも馬鹿だと思った。けれど、そう見えた。

魔物が飛びかかった。

紗奈は反射的に手を伸ばした。指先が魔物の首筋に触れた瞬間、視界に文字が浮かぶ。

【状態異常:狂化毒】
【筋緊張:極度】
【疼痛:強】
【状態回復を実行しますか】

「する!」

青い光が手のひらから広がった。魔物の身体がびくりと震え、紫色の泡が消えていく。次に緑の光が流れ、固まっていた首と背中がゆるんだ。

魔物は紗奈の目の前で、へたり込んだ。

さっきまでの殺気が嘘のように消え、子犬のような目でこちらを見る。紗奈は腰が抜けたまま、震える手で魔物の頭を撫でた。

「よかった。痛かったね」

森の奥から、今度は人の声がした。

「おい、そこに誰かいるのか!」

現れたのは、血まみれの青年だった。革鎧は裂け、片腕を押さえている。年は二十代半ば。金茶色の髪に泥がつき、警戒した目で紗奈と魔物を見比べた。

「そのホーンウルフを、あんたが倒したのか?」

「倒してはいません。治しました」

「治した?」

青年は意味がわからないという顔をした。紗奈も、自分で言っていて少しおかしいと思った。

「あなたも怪我をしています。見せてください」

「待て。俺はカイル、冒険者だ。あんたは?」

「白石紗奈です。整体師です」

「セイタイシ?」

異世界で最初に出会った人間は、紗奈の職業を聞いて、魔物より不思議そうな顔をした。

第二章 冒険者の背中を整える

カイルの傷は見た目ほど深くなかった。問題は右肩だった。

紗奈が手をかざすと、また文字が浮かぶ。

【肩関節可動域:低下】
【筋膜癒着:中】
【疲労蓄積:高】
【睡眠不足:長期】

「寝てませんね」

「今それ関係あるか?」

「あります。身体は全部つながっています」

紗奈は真面目に答えた。カイルは疑わしそうだったが、逃げる力も残っていないらしい。倒木に腰かけ、渋々マントを外した。

紗奈は傷に状態回復をかけ、出血を止めた。それから肩甲骨の周りに手を置く。固い。石のようだった。冒険者という仕事は、常に剣を握り、荷物を背負い、眠れるときに眠る生活なのだろう。

「痛かったら言ってください」

「痛いことをするのか」

「必要な痛みと、いらない痛みがあります。いらない痛みは取りましょう」

紗奈はゆっくり圧を入れた。緑の光が、彼女の手の動きに合わせてカイルの背中へ沈む。肩甲骨の内側、首の付け根、腰の奥。硬く絡まった糸をほどくように、身体の流れを整えていく。

カイルが息を止めた。

「息、してください」

「いや、待て、何だこれ」

「痛いですか?」

「違う。軽い。怖いくらい軽い」

彼は右腕を上げた。途中で止まるはずの腕が、すっと耳の横まで上がる。カイルは呆然と自分の手を見上げた。

「三年、上がらなかった」

その声が、急に幼くなった。

「治癒魔法でも駄目だった。古傷だから諦めろって」

紗奈は手を離した。

「完全ではありません。しばらく無理をしないで、あと水を飲んでください」

「あんた、すごいな」

「普通の整体です」

「普通じゃない」

カイルは笑った。さっきまでの警戒が消え、代わりに眩しいものを見るような表情になった。紗奈は少し戸惑った。整体を受けた直後、人はしばしば感情がほどける。安心や感謝が強く出ることもある。だからこそ、こちらが線を引かなければならない。

「私は治療をしただけです」

「それでも、俺には奇跡だ」

その言葉を、紗奈は否定できなかった。

カイルに連れられて、紗奈は辺境町ルーベルへ入った。石造りの城壁、赤い屋根、市場の匂い。地球とは何もかも違うのに、人々の肩こりだけは見覚えがあった。

町の治療院では、白髭の院長が紗奈を疑った。

「整体師? 聞かぬ職だな。治癒師ではないのか」

「身体の歪みや疲れを整えます。怪我や毒は状態回復で対応できます」

「状態回復だと? それは神官の領分だ」

険悪になりかけたとき、薬師の女性が運び込まれた。森で採取中に毒虫に刺されたらしい。唇は紫で、指先が震えている。

紗奈は考えるより先に動いた。

【状態異常:神経毒】
【進行度:中】

「状態回復」

青い光が広がる。女性の呼吸が深くなり、指先に赤みが戻った。治療院にいた全員が黙った。

院長は長い沈黙のあと、咳払いをした。

「……しばらく、ここで働いてみるかね」

こうして紗奈は、異世界で最初の職場を得た。

患者は次々に来た。剣を振りすぎた冒険者。針仕事で背中を固めた仕立屋。出産後から腰痛が抜けない母親。魔力を使いすぎて頭痛に悩む見習い魔法使い。

紗奈は一人ずつ話を聞いた。

「どこが痛いですか」

「いつからですか」

「眠れていますか」

異世界の人々は、最初こそ戸惑った。治療とは魔法をかけて終わりだと思っていたからだ。けれど紗奈は、痛みをその人の生活から見た。何を背負い、何を我慢し、どんな姿勢で生きてきたかを見る。

カイルは毎日のように治療院へ顔を出した。

「護衛だ。あんた、危なっかしいから」

「今日は患者さんではないんですね」

「患者でもある」

「右肩はもう大丈夫です」

「心が痛い」

「それは別料金です」

冗談を返すと、カイルは嬉しそうに笑った。

紗奈はその笑顔に救われることもあった。夜になると、災害の音を思い出す。土砂の唸り。子どもの泣き声。自分の命が終わった瞬間。そのたびに、こちらの世界で誰かの身体に触れている現実が、彼女をつなぎ止めた。

救えなかった自分ではない。

救ったあと、まだ続いている自分。

その意味を、紗奈は少しずつ受け入れていった。

第三章 敵の戦意を喪失させる聖なる手

盗賊団が来たのは、紗奈がルーベルに来て二週間後のことだった。

夕暮れ、市場に悲鳴が上がった。黒い布で顔を隠した男たちが、馬で門を破って入ってくる。手には奇妙な赤い宝石のついた短剣。目が血走り、口元が笑っているのに、額には冷や汗が滲んでいた。

カイルが紗奈の前に立った。

「下がってろ」

「あの人たち、様子がおかしい」

「盗賊なんて大体おかしい」

「違います。あれは、興奮じゃなくて異常状態です」

紗奈の視界に文字が浮かぶ。

【状態異常:狂勇】
【恐怖抑制】
【痛覚鈍麻】
【命令呪縛】

胸が冷たくなった。

彼らは好きで暴れているのではない。恐怖を奪われ、痛みを奪われ、命令に縛られている。

「状態回復は、敵にも効くのかな」

「紗奈?」

「やってみます」

「待て、危険だ!」

カイルの制止を振り切り、紗奈は前へ出た。盗賊の一人が短剣を振り上げる。怖い。足がすくむ。けれど、整体院で何度も触れた背中を思い出した。怒鳴る人ほど、痛みを隠していることがあった。

紗奈は手を伸ばした。

「状態回復」

青い光が男の胸に触れた。

男の動きが止まった。短剣が石畳に落ちる。目の濁りが消え、代わりに恐怖が戻ってきた。彼は自分の手を見て、震え出した。

「俺、何を……」

次の男。次の男。紗奈は走った。剣を避けるたびに頬が切れ、腕に痛みが走った。それでも、青い光は広がり続けた。狂勇が剥がれ、命令呪縛がほどけ、盗賊たちは次々と膝をつく。

ある男は泣いた。

「娘が、人質に……逆らえなかった」

別の男は吐いた。

「痛い。怖い。俺、こんなに怖かったのか」

戦意が消えていく。

町の人々も、冒険者たちも、何が起きているのかわからず立ち尽くした。誰も殺していない。誰も燃やしていない。なのに襲撃は止まった。

最後に残った盗賊の頭目だけが、赤い宝石を握りしめていた。

「来るな、化け物!」

紗奈は息を切らしながら言った。

「化け物じゃありません。整体師です」

「意味がわからねえ!」

頭目が突っ込んでくる。カイルが間に入ろうとした。紗奈は首を振る。

「大丈夫」

彼女は頭目の手首を取った。脈が暴れている。肩が上がり、呼吸が浅く、背中が硬い。強い人の身体ではない。追い詰められた人の身体だ。

「あなたも、もう休んでいい」

状態回復。

青い光が赤い宝石を砕いた。頭目の身体から黒い霧が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。武器を握っていた指がほどける。

「俺は……戦いたく、なかった」

紗奈は膝をついた。足が震えていた。カイルが駆け寄り、彼女を支える。

「無茶をするな」

「すみません」

「謝るな。怒りにくいだろ」

カイルの腕が少し震えていることに、紗奈は気づいた。

「心配、しました?」

「当たり前だ」

彼の声はまっすぐだった。

「あんたに何かあったら、俺はたぶん、もうまともに立っていられない」

紗奈は目を伏せた。好意だ。しかも、治療直後の一時的な感謝ではない。彼は彼自身の意思で、紗奈を大事に思っている。

嬉しくないわけがなかった。

けれど同時に、怖かった。

自分のスキルは、相手の身体だけでなく心にも触れる。ボディケアで安らぎを与え、状態回復で恐怖をほどく。その結果として向けられる恋情を、ただ受け取っていいのだろうか。

紗奈はカイルの腕からそっと離れた。

「ありがとう。でも、私の力で気持ちまで変わっているなら、私はちゃんと考えたいです」

カイルは一瞬傷ついた顔をしたが、すぐに頷いた。

「俺の気持ちは俺のものだ。だけど、あんたが怖いなら待つ」

その誠実さに、紗奈の胸は少しだけ痛んだ。

翌日、王都から騎士団が来た。

先頭に立っていたのは、銀の鎧を着た長身の男だった。整った顔立ちに、氷のような灰色の目。彼は捕らえられた盗賊たちを見て、それから紗奈に向き直った。

「私は王国騎士団長、レオン・アルヴァレス。君が、敵の戦意を奪った癒し手か」

「奪ったというより、異常状態を戻しました」

「同じことだ。戦場では、それが最強の力になる」

レオンは膝をつき、紗奈に頭を下げた。

「王都へ来てほしい。君の手を必要としている者が、あまりにも多い」

紗奈は、遠くの空を見た。

二つの月の下で、何かが静かに痛んでいる気がした。

第四章 王都の歪み、恋と信頼

王都グランフェルは美しい町だった。

白い城壁、青い屋根、広場の噴水。けれど紗奈には、町全体が肩をすくめているように見えた。市場の人々は笑っていても呼吸が浅い。兵士たちは背筋を伸ばしすぎて腰を痛めている。貴族の馬車から降りる人々は、首を固めたまま優雅に微笑む。

戦争が近い。

その緊張が、町の姿勢を変えていた。

紗奈は神殿の一角に治療室を与えられた。看板には、誰かが気を利かせてこう書いた。

「聖整体院」

「少し大げさです」

「王都では大げさな名前のほうが信頼される」

レオンは真顔で言った。彼自身もまた、治療対象だった。鎧を脱いだ彼の背中は、見事なほど固まっていた。責任感でできた鎧を、筋肉の上にも着ているようだった。

「団長さん、寝ていますか」

「必要な分は」

「何時間ですか」

「三時間」

「足りません」

「戦時体制だ」

「身体は戦時体制に合わせて壊れてくれません」

レオンは黙った。紗奈は肩甲骨の下に手を置き、ゆっくり圧を入れる。彼の呼吸が乱れた。

「痛いですか」

「いや……」

「我慢しないでください」

「我慢していない」

「今、しています」

レオンは観念したように息を吐いた。その瞬間、背中の緊張が少し緩む。紗奈は緑の光を流しながら、固まった筋肉をほどいた。

施術が終わると、レオンはしばらく起き上がらなかった。

「団長さん?」

「すまない。身体が、自分のもののようだ」

「元々あなたのものです」

「忘れていた」

彼は起き上がり、紗奈を見た。氷のようだった目に、初めて熱が宿っている。

「君に触れられると、命令ではなく、願いを思い出す」

「願い?」

「守りたい。勝ちたいではなく、守りたいのだと」

その日から、レオンの態度は変わった。紗奈を単なる戦力として扱わず、彼女が無理をしないように予定を調整し、危険な依頼を断った。

王弟ユリウスも、紗奈の患者になった。

彼は美しい人だった。白金の髪、琥珀色の目、柔らかな物腰。だが、身体はひどく冷えていた。魔力が多すぎるせいで常に頭痛があり、夜は悪夢を見るという。

「王族は弱音を吐く場所がないのです」

ユリウスは笑った。

「だから身体が代わりに叫んでいます」

紗奈がそう言うと、彼は驚いた顔をした。

「あなたは、怖い人ですね」

「よく言われません」

「見たくないものを、優しく見つけてしまう」

状態回復で魔力酔いを鎮め、ボディケアで首の緊張を取る。ユリウスは施術後、初めて深く眠った。目覚めた彼は、紗奈の手を両手で包んだ。

「この手を、王宮に閉じ込めたくなる」

紗奈は手を引いた。

「閉じ込められるのは困ります」

「冗談です。半分は」

「半分が怖いです」

ユリウスは苦笑した。

「では、残り半分は誓いにしましょう。あなたが自分の意思で歩けるよう、私は権力を使う」

そして傭兵ガレス。

彼は紗奈を信じなかった。

「揉んだくらいで強くなるなら、戦場に治療師はいらねえ」

大柄で傷だらけ、口が悪く、患者としては最悪だった。けれど彼の膝は限界だった。紗奈が膝裏に触れた瞬間、ガレスは顔をしかめる。

「そこはやめろ」

「痛いんですね」

「痛くねえ」

「痛い人はみんなそう言います」

ガレスは舌打ちしたが、逃げなかった。施術が終わると、彼は立ち上がり、何度も膝を曲げた。

「……くそ」

「悪化しましたか?」

「治った。だから腹が立つ」

それから彼は毎週来た。花を持ってくることもあった。紗奈が困ると、「道に落ちてた」と嘘をついた。

紗奈は三人の好意に向き合いながら、自分の線を守った。

「私は、癒した相手の気持ちを利用したくありません」

そう伝えると、レオンは「ならば信頼から始める」と言い、ユリウスは「選ぶ権利をあなたに返す」と笑い、ガレスは「惚れたもんは仕方ねえが、困らせる趣味はねえ」とそっぽを向いた。

紗奈は少しずつ、この世界に居場所を作っていった。

しかし平穏は長く続かなかった。

神殿の奥から、聖女セラフィナが現れた。金の髪に白い衣。人々がひれ伏す本物の聖女。彼女は紗奈を見て、冷たく言った。

「あなたの力は、聖なるものではありません」

「そうかもしれません。私は整体師です」

「人の心を緩ませ、男たちを惑わせ、敵の戦意を奪う。危険な力です」

紗奈は反論できなかった。

危険ではない、と言い切るには、自分でもまだ怖かった。

第五章 大地の痛みと偽りの聖女

セラフィナの告発により、紗奈は神殿裁判にかけられた。

広い礼拝堂に、貴族、神官、騎士たちが集まっている。セラフィナは壇上で告げた。

「白石紗奈は偽りの聖女です。癒しの名を借りて人心を操り、王国の中枢に入り込もうとしている」

ざわめきが広がる。紗奈は胸の前で手を握った。

怖い。

けれど、逃げたくはなかった。

「私は聖女だと名乗ったことはありません」

紗奈は静かに言った。

「私は整体師です。痛みを見て、整えます。人の気持ちを操るために触れたことはありません」

セラフィナの目が揺れた。

「では、なぜ皆あなたに惹かれるのです」

「痛みを一緒に見たからだと思います」

紗奈は答えた。

「誰にも言えなかった痛みを、なかったことにしなかったから」

そのとき、王都の鐘が鳴った。

一度ではない。何度も、何度も。

礼拝堂の扉が開き、兵士が駆け込んできた。

「魔獣です! 黒い裂け目から、災厄級の魔獣が出現しました!」

空が暗くなった。

王都の外壁の向こうに、山のような影が立っていた。獅子の身体に、竜の翼、無数の角。だが紗奈が見たのは、その巨大さではなかった。

全身が痛みに歪んでいる。

骨格がねじれ、魔力の流れが逆巻き、心が叫んでいる。魔獣というより、痛みの塊だった。

騎士団が突撃する。魔法が飛ぶ。矢が降る。魔獣は傷つくほど暴れ、黒い霧を撒き散らした。近くの兵士たちが狂乱し、味方に剣を向け始める。

「状態異常が広がっている」

紗奈は走った。

レオンが並ぶ。

「近づくな。危険すぎる」

「近づかないと届きません」

「なら私が道を作る」

ユリウスが魔法障壁を張り、ガレスが狂乱した兵士の武器を叩き落とす。カイルは紗奈の背を守った。誰かに守られている。けれど、操られてはいない。それぞれが自分の意思で、紗奈の道を作っている。

紗奈は魔獣の前に立った。

黒い霧が肺に入る。恐怖が膨らむ。逃げたい。もう誰かが土砂に飲まれる音を聞きたくない。助けられない命を見たくない。

けれど、魔獣の奥で小さな声がした。

痛い。

紗奈は手を伸ばした。

「状態回復」

青い光が弾かれた。痛みが深すぎる。状態異常というより、存在そのものが傷ついている。

「ボディケア」

緑の光を重ねる。身体の歪みを読む。骨、筋、魔力、記憶。魔獣の中に、かつて人だった魂、獣だった魂、焼かれた森、干上がった川、戦場で捨てられた祈りが絡まっていた。

これは一体の魔獣ではない。

世界の痛みが、形になったものだ。

セラフィナが後ろで叫んだ。

「無理です! それは女神でも癒せなかった傷!」

紗奈は答えなかった。

女神でも癒せなかったなら、人間が触れてはいけないのだろうか。

違う。

整体師は、治せると約束する仕事ではない。触れて、聞いて、今できる一番ましな呼吸を探す仕事だ。

「痛いね」

紗奈は魔獣に額を寄せた。

「でも、もう暴れなくていい」

青と緑の光が混ざった。魔獣の咆哮が、泣き声に変わる。狂乱していた兵士たちが膝をつき、武器を落とした。魔獣の角が崩れ、翼がほどけ、巨大な影は光の粒になって消えていく。

その中心に、小さな黒い裂け目が残った。

紗奈は見た。

裂け目の向こうで、大地そのものが傷ついている。

女神リュミエラの声が、遠くで響いた。

「紗奈。そこが、この世界の痛みの根です」

第六章(最終章) 最強聖女、世界を癒す

黒い裂け目は、王都から北の荒野へ続いていた。

そこは地図に「神代戦場跡」と書かれている場所だった。草は生えず、雨は染み込まず、夜になると泣き声のような風が吹く。かつて神々と人間が争い、女神リュミエラが世界を救うために自らの力で封じた傷。

封じることはできた。

癒すことは、できなかった。

紗奈は裂け目の前に立った。隣にはカイル、レオン、ユリウス、ガレス、そしてセラフィナがいた。

セラフィナは深く頭を下げた。

「私はあなたを恐れていました。聖女である私ができなかったことを、あなたがしてしまうのが怖かった」

紗奈は首を振った。

「私も怖いです」

「それでも触れるのですか」

「触れないと、何が痛いのかわからないので」

セラフィナは泣きそうに笑った。

「あなたは、本当に整体師なのですね」

紗奈は裂け目に手を伸ばした。

瞬間、世界中の痛みが流れ込んできた。

戦争で折れた剣。子を失った母。燃えた森。毒に沈んだ湖。憎しみを教えられた兵士。泣くことを許されなかった王。救えなかった命。土砂の音。あの夜の雨。

紗奈の膝が崩れた。

「紗奈!」

カイルが支えようとする。レオンが結界を張り、ユリウスが魔力を注ぎ、ガレスが裂け目から伸びる黒い腕を斬る。セラフィナが聖歌を歌う。

それでも足りない。

世界の痛みは、人ひとりが受け止めるには大きすぎた。

女神リュミエラが現れた。光の姿は薄く、今にも消えそうだった。

「紗奈、もういいのです。あなたまで壊れてしまう」

紗奈は息を吸った。

身体は痛い。心も痛い。逃げたい。

けれど、整体院のベッドで泣いた人たちを思い出した。ルーベルの冒険者たち。王都の騎士。盗賊。魔獣。痛みは、消せと命じても消えない。聞かれたとき、初めてほどけ始める。

「壊れません」

紗奈は言った。

「私は全部を背負うんじゃない。流れるように整えるんです」

その瞬間、二つのスキルが光った。

【ボディケア 最終進化】
【状態回復 最終進化】
【統合スキル:世界調律】

紗奈の手から、青でも緑でもない、透明な金色の光が広がった。

身体を整えるように、大地の流れを読む。固まった魔力をゆるめ、裂けた記憶をつなぎ、滞った水脈を通す。毒を消すのではなく、毒になった悲しみを元の涙へ戻す。怒りを奪うのではなく、怒りの下にあった願いを見つける。

世界が息を吸った。

荒野に雨が降った。

黒い裂け目が、ゆっくりと閉じていく。魔物たちの目から濁りが消え、遠くの森に新しい芽が出た。戦場に立っていた兵士たちは、敵味方の区別も忘れて泣いた。

女神リュミエラが膝をついた。

「あなたは、私に届いたのですね」

紗奈は首を振った。

「たぶん、みんなが支えてくれたからです」

光が収まると、紗奈の髪には銀の一房が混じっていた。胸元には、女神の紋章ではなく、手のひらの形をした小さな光が浮かんでいる。

セラフィナが跪いた。

「白石紗奈。あなたこそ、この世界を癒した聖女です」

人々も跪いた。

最強聖女。

その呼び名は、すぐに大陸中へ広がることになる。

けれど紗奈は、少し困った顔をした。

「聖女でもいいですけど、整体師も残してください」

カイルが笑い、レオンが肩を震わせ、ユリウスが優雅に微笑み、ガレスが「最強整体師でいいだろ」と言った。

紗奈も笑った。

後日、王都には新しい治療院ができた。

看板にはこう書かれている。

「最強聖女の整体院」

その下に、小さな字で注意書きがある。

無理をしすぎた勇者、寝不足の騎士、恋に悩む王族、戦意が抜けない魔王軍、世界を救いたい女神まで。

予約制。ただし、緊急時は応相談。

紗奈は今日も、誰かの背中に手を当てる。

「どこが痛いですか」

それは、彼女が異世界で手に入れた最強の呪文だった。


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