板前時代の思い出〜失敗続きの使えない小僧時代〜
こんばんは。
前回も書きましたが、板前時代、最初の1年(追い回し)は料理人としての仕事はあまりやらせてもらえず.
・朝ごはんの目玉焼きを作る
・弁当のご飯の詰め込み
・弁当の出前、出前下げ
・仕出しの出前、出前下げ
・各部署の補助役
が、追い回しの主な仕事でした。
朝ごはんを食べ終わったら昼の営業前の弁当の仕込み。
弁当箱は高価な輪島塗りで、その当時値段は確か1200円〜6000円位だったと思います。
1200円、1600円は1段重、それ以上は3段重のお弁当を、昼だけで200食位、夕方は50食位作っていました。
そこに詰めるご飯が白飯の俵形のもの、季節の炊き込みご飯、これを詰めるのが弁当での追い回しの仕事のでした。
朝10:00〜12:00までの間に2回に分けて作り、配達、戻ってきてまた配達。
配達が終わったら前の日の弁当箱の下げもの。
戻って来るのが大体14:30位。
そこからお昼ご飯の用意の補助。
15:00位からお昼ご飯を食べて休憩。
16:00から夜の弁当の詰め込みを初めて出前。
夜は店の座敷の料理、仕出し(厨房がない女将さんと中居さんがいる会合などをするお屋敷?みたいなところ)の料理が各部署で作られるのですが、当時、私を含めて同期の追い回しは3人いたので、出前を行かない人は各部署の補助をしていました。
器を出す、盛り付けの補助、が主な仕事でした。
私が担当したのは、口代わりと呼ばれる部署。
その口代わりの料理は、コースで2品出すため、1番忙しい部署でした。
何百とある器を盛り付け前に、器の倉庫(なんか回転式の器をしまう大きな機械でした)から出して、盛り付けや、中居さんまで届けるのが主な仕事でした。
当時、お座敷に合計80名様くらい、仕出しが合計20名様くらいの料理をコースで出していましたから、営業中はもうバタバタだった記憶が…
その中で私が出前に行かない日、口代わりの補助をやっている時、器を出す仕事を3回続けて、間違えた器を出してしまい、口代わりの兄弟子から、お前はいらないから厨房の片隅で立っていろ!と叱られました。
目の前で、皆んなが次々と料理を仕上げているのを見ながらただ立っているだけ…
次の日も…
他の部署の兄弟子に何かやる事はありませんか?と聞いても、お前は立っていろと言われたんだろ…
なら立っていろと…
もう最初の1日目は、なんで自分だけこんなところで突っ立っているんだ!同期の追い回しは、スムーズに器出しや、盛り付けをしているのに…
もう使えない自分が、悔しいというか嫌になる気持ちの方が強く、ただ、ただ、厨房の風景をボーッと見ていたのは今でも鮮明に覚えています。
3日目の仕事終わりの帰る時、口代わりの兄弟子から、他の人の仕事を見て何がダメだったかわかるか?と…
同期の追い回しは、器だしはもちろん、その器を並べる時も、盛り付けの順番や、盛り付け場所によって器を置く場所や、用意する小物を、取りやすいところに置くなど、兄弟子がどうしたらやりやすいか、を考えながら仕事をしていました。
黒木は何も考えず(考えないというか考える余裕がなかった)ただ器を出して置いただけ、多分、私の時は毎回やりづらかったんだろうなと思いました。
それからは、その都度、その都度、兄弟子が何を考え、私達に何を求めているのかを、事前に頭の中でしっかり準備しながら、チーム?コンビ?として動けるように、意識して動こうとした結果、その後からは少しずつ、口代わりの兄弟子からも仕事を任されてきました。
私は本当に頭が悪く、1つの仕事が出来るまでは、相当時間がかかった、出来の悪い小僧時代でした。
でも諦めると、今までやった時間を、もう一回やるのは絶対に嫌だと、諦めずに続けていたから今があります。
バイト時代は仕事がちょっと出来たと思い込んでいただけで、いざ社会に出ると、こんなにも使えない自分と向き合うという、絶望がありましたが、諦めないで、なりたい自分を、その時から常に思い続けて行動するという事を覚えてからは、バカなりに少しずつですが、夢に近づく事が出来たのかなと…
今まで沢山の方々に迷惑をかけながら、料理という仕事を頑張ってきましたが、今でも常に考えて、夢に向かって諦めずに行動する。
そうすれば少しずつですが夢に近づいてきているのを実感出来てきているので、あの時諦めないで良かったなと思える、50を過ぎたオッサンの思い出でしたf^_^;
それではまた。
