悪人の「くらし」と3つの石
ここのところ、悪人というテーマで鶴見俊輔から始まり、ソローやターシャの文などを引用しながら、「くらし」をみていく記事をつづけています。それらはひと昔前に流行ったミニマル・ライフに近いものを感じます。ミニマル・ライフは今後も僕たちにとって魅力的に映りつづけるのでしょうか。
ソローの文で、これもミニマル・ライフっぽいなと感じるのがありました。
わたしの机の上にはライムストーンが3個あるのだが、毎日ほこりを払ってやらなくてはいけないと思って、ぞっとした。わたしの心の家具はほこりをかぶったままなのだ。わたしはうんざりして、ライムストーンを窓から投げ捨ててしまった。

さすがソローですね。せっかく手に入れた物を投げ捨ててしまうとは。
たしかに物はあればある分だけ、その物一つひとつに対してメンテナンスやらケアやらをする必要が出てきます。手のかかるものもあれば、手のかからないものもある。毎日使うようなものもあれば、押し入れの奥にしまい込んで何年も陽を浴びないままのものもあります。
僕のくらしには一体どれだけの物が、本当に必要な物なのでしょうか。僕は、自分の過ごしている部屋を見渡したり、押し入れに何が入っているのか点検したりする必要があるのかもしれません。それを、どんな基準をもって見渡したり、点検するか。
貧乏が楽しいものになったら、それはむろんもう貧乏ではない。所有の少ない人ではなく、渇望の多い人が、貧しいのです。
『ローマの哲人 セネカの言葉』中野孝次
十世紀に源信という僧が著した『往生要集』にすでに、
足ることを知らば貧といへども富と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。
という文言が見える。
こういった十世紀も二十世紀も前の人の言葉を参照して、基準を設けるのもいいのかもしれません。
バブルの絶頂期に、いわばミニマル・ライフの美徳があることを伝えていた中野孝次は、経済的に豊かになりモノに金に溢れていた日本社会に、警鐘を鳴らしていました。
世間ではともすれば金銀でも持物でも多く所有すればするほど人は幸福になると信じているようであるが、これくらい間違った考え方はない。むしろそれは逆なのであって、所有が多ければ多いほど人は心の自由を失うのである。
・・・人は所有が多ければ多いほど所有物に心を奪われて、心は物の奴隷になってしまう。
最近の僕は慌てて、押し入れや本棚から使わなくなった服やら読まなくなった本やらをメルカリで売って、物を減らしています(笑)
