ローカリズムでもある時代
□景色
本来は別物であるふたつの経済システムの合体として資本主義は成立した。ひとつは労働と生産のシステム。物をつくり、農作物を生産し、サービスを提供すること。もうひとつは投資という経済システム。貨幣によって貨幣を増加させる。資本主義は貨幣を増殖させるという論理に制御されながら、労働や生産がおこなわれていく経済システム。
現場では昔と同じように生産やサービスの提供をおこない、しかしこの過程を律する論理は、貨幣の増殖をめざす金融の論理。だから私たちは、企業の利益の確保を意識し、効率を高めたり、高いノルマを課されたりしながら、あるいは希望退職を求められたり、職場に非正規雇用の人たちがふえる現実と向き合いながら、投資、利回り、利子率といった金融の論理を実現するように働かなければならなくなった。
ただ資本主義の時代でも資本主義に適応しない生産や労働の領域も残っている。農地のある生活、職人たちの労働、家庭内での生産活動のなかに。
□本

『新・幸福論—「近現代」の次に来るもの—』 内山節
新潮選書 2013年
目次
まえがき
第一章 こわれたイメージ
第二章 何が終わろうとしているのか
第三章 遠くに逃げていく
第四章 転換期の映像
第五章 新しい胎動
第六章 振り返る先に
あとがき
□要約
今日の世界では、旧来の考え方も方法も成り立ちえなくなっている。だから私たちは近現代の終焉を語らざるをえなくなった。私たちが「人々」として生きなければならなくなった時代の終焉。熱狂という幕が閉じ、虚無という舞台だけが残る。
企業に勤める「人々」でありさえすれば、とりあえず生活は安定し、いつかは住宅も取得できて、老後は年金と預金で暮らす。こんな「人々」の姿が自分たちにとっては虚無化している。
この先にみえているのは増税や年金の破綻、社会保障水準の切り下げ、大量のワーキングプアと一緒にこの社会をつくっていかなえればいけない重さ。「人々」の群れの中に加わっていれば何とかなるというイメージは崩れ去った。
こんな感覚をいだきながらこれからの生き方を模索する時代がすすんでいく。新しく確かな関係を築こうとする人々も生まれてくる。
「人々」でありつづけるしかない時代に虚無をみいだした人たちがつくりだしている動きは、地域、コミュニティの再創造へと、確かな関係によって結ばれた社会の再確立、ともに生きる社会の形成へと向っている。
近現代は基本的に保守主義の時代だった。科学的方法論は正しいという絶対的保守主義、国家の存在自体は前提でありつづけるという保守主義、市民社会が前提にあるという保守主義、経済発展が人々を豊かにすることを絶対化する保守主義。成立したものを追認するという保守的な生き方に巻き込まれていった。世界の富を先進国が独占している間、この保守主義は自分の身に安泰をもたらしていた。
しかし、今日、現実を受け入れても資本主義も国民国家も市民社会も私たちを支えてはくれない。受け入れることに私たちは疲れを感じるようになってきた。とりわけ保障のない時代を生きていることと向きあわざるを得ない若い世代で、受け入れることへの疲れが顕著になってきた。
自由は個人のなかにあるという幻想から、個人を自由にする結び合いの模索へ。
個人のエゴイスティックな社会から、ともに生きる社会へ。
勝ちつづけることをめざす経済から、ともに生きる経済へ。
結びあう世界のなかにローカルな世界をみいだすという意味で、
今日はローカリズムの時代でもある。
