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第31話 ロンドンで一番「お帰りなさい」と言われた場所


ロンドンに8年半住んだ中で、一番「我が家」のように感じた場所があります。

それは、ソーホーにあるジャズクラブ、Ronnie Scott’sでした。

ロンドン赴任後、真っ先に向かったのもこの店です。

東京でもブルーノート東京やコットンクラブにけっこう通っていましたが、1959年創業の老舗ロニスコにはロンドンならではの重厚感がありました。

気がつけば会員になり、8年半で何百回も通うことになります。



あまりにも通ったので、ほぼ全員のスタッフに顔を覚えられていました。

体格の良いドアマンは、私を見るとウィンクしながら扉を開けてくれます。

「今日は遅いじゃないか」

「予約してないんだ」

「何だって?ちょっと待て」

そう言って中へ消え、しばらくすると戻ってきます。

「オーケー。1人なら入れるぜ」

受付へ向かうと、お兄さんもお姉さんも笑顔です。

“Welcome back!”

ロンドンで一番「お帰りなさい」と言われた場所でした。

別の夜、一緒に来たイギリス人の友人は一様に驚いていました。

「君、完全に顔じゃないか!すごいな、ここで知られてるなんて」



ある日など、受付のお姉さんが笑いながら言いました。

「あなた、今週、本当に毎日来てるじゃない!!」

すると彼女は慌てて続けました。

「あ、いや、批判しているわけじゃないのよ」

「本当に好きなんだな、と思って」

「ありがたいことだわ」

ロンドンでジャズクラブの受付からそんなことを言われるとは、赴任前には想像もしませんでした。



ロニスコはロンドンを代表するクラブです。

アメリカの一流ミュージシャンが次々と出演し、中には毎年のようにやって来る人もいます。

ロンドンというとロックやクラシックのイメージが強いかもしれませんが、ジャズも相当なものです。

マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスも演奏した歴史ある場所で、数々の名演がライブ録音として残されています。



私が特に好きだったのは、客席との距離感です。

会員になると出演情報が一般発売より早く届きます。

私は情報が届いた瞬間に予約を入れていたので、かなりの確率で最前列に座ることができました。

最前列というのは本当にすごいものです。

文字通り、目の前にあのミュージシャンがいます

サックスなら、吹いていない時のタンポのカタカタという音まで聞こえます。

客席で聴いているというより、ステージの一部になったような感覚です。

ある日など、Marcus Millerのベースのネックが目の前まで迫ってきて、思わず仰け反ったこともありました。

たぶん、そのまま座っていても当たらなかったのでしょうけれど。



ジャズファンというのは、自分もそうだからよく分かるのですが、基本的には演奏に集中したい人種です。

今日はどんなアドリブが飛び出すのか。

どんな演奏になるのか。

そういうことに意識が向いているので、知らない人と積極的に話そうという人は意外と多くありません。

ですからロニスコの最前列で相席になると、反応はだいたい二つに分かれます。

笑顔で

“Hi!”

と言う人。

もう一方は、

「俺に話しかけなくていいぞ」

というオーラを全身から放っている人
です。

私は一応、誰にでも “Hi!” と声をかけることにしています。

その後は相手次第です。

ところが不思議なもので、ひょんなことからどちらからともなく、

「先週の○○見たかい?」

という話になった瞬間、

「おお!君もいたのか!」

と一気に距離が縮まります。

そのうち、

「あのライブにも来ていたのか?」

「君も相当だな」

などと言いながら、すっかり友達になってしまうのです。



そんなきっかけで知り合いになり、「今度は一緒に行こう」という話になって、実際に二人でライブへ行くようになったジャズ仲間も少なくありません。

ロンドンにいる間はもちろん、帰国した今でもSNSで連絡を取り合っています。

もともとは、たまたま隣の席になっただけの他人でした。

それが今では友人です。



そんな中で、特に印象的な出会いがありました。

ある夜、チェルシー地区の住宅街にひっそりと佇むジャズクラブ「606 Club」で、終演後に見知らぬ男性から突然声をかけられたのです。

「ヤァ、また会ったね。君、先週もロニスコに来ていただろ?」

「あぁ、いたよ」

「やっぱりな。だって君はどこにでもいるじゃないか」

「いいライブの日は必ず君を見かけるんだ」

「それにしても、よく覚えているね」

すると彼は少し笑いながら言いました。

「実はね、俺がしょっちゅうジャズを聴きに行くものだから、妻に浮気を疑われることがあるんだ」

「えっ?」

「どこのクラブへ行っても君を見かけるだろ?」

「あぁ(笑)」

「うちの奥さんはベトナム人なんだ」

「それでさ、もしかしてあいつ、知り合いの探偵を雇ったんじゃないか?って、本気で思ったんだよ」

「ヒェー!」

「でも今日わかった」

「探偵じゃなかった」

「ただのクレージーなジャズファンだったんだな」

私は心の中で、

「それはお互い様だろう」

と思いました。

その夜、話していてすぐにわかりましたが、彼はフランス人でした。奥さんはベトナム人。私は日本人。

私たちをつないだのは、ジャズだけでした。



ロンドンには素晴らしい音楽の場所がたくさんあります。

ロイヤル・アルバート・ホールもあれば、魅力的なジャズクラブも数え切れないほどあります。

それでも私にとって特別なのは、やはりロニスコです。

レジェンドたちの演奏を聴いた思い出もあります。

けれど、それ以上に大切なのは、

“Welcome back!”

と迎えてくれる人たちがいた
ことかもしれません。

そしてジャズという共通言語だけで、国籍も素性も関係なく友人になれたことも。

ロンドンで一番「お帰りなさい」と言われた場所。

それが私にとってのロニー・スコッツなのです。

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