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【歴史】「大藤原京」再考―考工記・坊令の限界と三山都市論の再評価

はじめに

 古代の都城は、単なる行政機能の集積地ではなく、国家の理念や支配構造、さらには自然地形や宗教的象徴性までもが織り込まれた空間でした。とりわけ藤原京は、日本で初めて本格的な条坊制を導入した都城として知られ、その都市構造や規模、理念的背景をめぐって、長年にわたり多くの議論が交わされてきました。
 近年、藤原京の復原をめぐって注目を集めているのが、いわゆる「大藤原京」説です。これは、小澤毅氏が提唱したもので、中国古代の制度書『周礼』考工記に記された理想的な都城像を参照し、藤原京を南北・東西ともに約5キロメートルに及ぶ十条十坊の大規模な都城として復原する立場に立っています。この説は、発掘成果の一部や律令制下の制度理念と結びつけられ、一定の支持を得てきました。
 しかしながら、この復原案には、いくつかの方法論的な問題が内在していると考えます。とくに、規範文献を実測遺構よりも優先する姿勢や、最大値を積み上げて都市規模を構成する手法には、慎重な検討が求められます。こうした問題意識のもとで再評価されているのが、岸俊男氏が提示した「大和三山に囲まれた藤原京」説です。岸氏は、藤原京の北限を耳成山・香具山・畝傍山の地形的枠組みに求め、都市の象徴的構造と実際の遺構分布との整合性を重視しました。
 この岸説を継承・発展させたのが西本昌弘氏です。西本氏は、発掘成果に基づく遺構密度の分析や、地形的制約、文献史料との整合性を重視し、「大藤原京」説に対して批判的な立場を明確にしています。とりわけ、藤原京の北限を「岸説」と明言し、三山に囲まれた都市構造こそが実態に即した復原であると論じています。
 本稿では、まず「大藤原京」説の成立過程とその方法論的問題を検討し、次に坊令と条坊復原の限界を明らかにします。そのうえで、岸俊男説に基づく三山都市論を再評価し、西本昌弘氏の遺構密度分析を踏まえて、藤原京の京域を再定義します。さらに、藤原不比等の邸宅と宮城の近接性が都市構造に与えた影響を検討し、藤原京の拡張不能性と平城京遷都の論理的必然性を明らかにしたいと考えています。


1.「大藤原京」説の成立とその方法論的問題

 藤原京の復原をめぐる議論は、20世紀後半から21世紀にかけて大きく展開してきました。とりわけ注目されるのが、小澤毅氏によって提唱された「大藤原京」説です。小澤氏は、藤原京の都市構造を中国古代の制度書『周礼』考工記に記された理想的都城像に照らして再構成し、従来よりも大規模な条坊構造を持つ都城として復原しました。この説では、藤原京は南北・東西ともに約5キロメートルに及ぶ十条十坊の規模を持ち、後の平城京に匹敵する広がりを有していたとされます。
 この復原案は、考古学的発掘成果の一部、すなわち藤原京の従来の京域を超える範囲で検出された条坊道路遺構や、律令制下の制度理念と結びつけられるかたちで一定の支持を得てきました。とくに、律令国家における条坊制の制度的意義や、宅地班給の単位としての坊令の存在を重視する立場からは、十条十坊という構成は制度的に整合的であると理解されてきた経緯があります。
 しかしながら、この「大藤原京」説には、いくつかの方法論的な問題が内在しています。第一に指摘されるべきは、規範文献である『周礼』考工記の記述を、実在の都市構造の設計図として直接的に適用している点です。考工記に記される「国中九経九緯」「方九里」などの記述は、あくまで理想的な都城像を示すものであり、実際の中国古代都市においてもその通りに建設された例は極めて稀です。したがって、これをそのまま藤原京の復原に用いることには慎重であるべきです。
 また、小澤氏の復原案では、藤原京の外縁部、たとえば院ノ上や下明寺などで検出された条坊道路遺構を、京域の拡張根拠として積極的に取り込んでいます。しかし、これらの道路遺構は、必ずしも都城の中枢機能を担っていたとは限らず、郊外の官衙や倉庫、あるいは交通路の一部として設けられた可能性も否定できません。道路の規格が一致するからといって、それをもって京域の一部と断定するのは、機能論的な検討を欠いた飛躍といえます。
 このような「最大値主義」に基づく復原手法は、都市の実態を過大に評価する危険性を孕んでいます。発掘成果において検出された最も外側の遺構をもって京域の限界とみなす手法は、造成途中の未使用地や郊外施設をも都市本体とみなす誤りに陥りやすくなります。都市の復原においては、遺構の「存在」だけでなく、その「密度」や「機能」、さらには文脈的な配置関係を総合的に評価する必要があります。
 この点において、岸俊男氏が提示した「大和三山に囲まれた藤原京」説は、地形的・儀礼的・視覚的構造を重視した復原案として、現在も高い評価を受けています。岸氏は、藤原京の北限を耳成山・香具山・畝傍山の三山によって画定し、都市の象徴的構造が三山の内部に収まることを重視しました。この復原案は、発掘成果における条坊遺構や宮城・官衙・寺院の分布とも整合し、都市機能の集中範囲を的確に捉えているといえます。
 さらに、西本昌弘氏は、岸説を継承・発展させるかたちで、考古学的実証に基づく批判的検討を加えています。西本氏は、三山に囲まれた都市構造こそが実態に即した復原であると主張しています。とくに、遺構密度の分析や地形的制約、文献史料との整合性を重視する姿勢は、制度的理念を過信することなく、実証的制約を踏まえた復原のあり方を示しています。
 このように見てくると、「大藤原京」説は、制度的理念や規範文献を重視するあまり、実際の遺構分布や地形的制約との整合性を欠く傾向があることが明らかになります。都市の復原においては、制度と実態のバランスをいかに取るかが重要であり、理念的な制度構想をそのまま実在の都市に当てはめることには限界があります。とくに、考工記のような規範文献を設計図として用いる手法は、実証史学の立場からは慎重に扱うべきです。

藤原京復原案
藤原京復原模型(岸説+α)

2.制度と実態の乖離―坊令と条坊復原の限界

 律令国家における都市構造の復原に際して、制度的文献の記述は重要な手がかりとなります。とりわけ、宅地班給と密接に関わる「坊令」の設置は、条坊制の構成要件としてしばしば重要視されてきました。坊令とは、日本の古代律令制において、京(都)の「坊(地区)」を管理するために置かれた行政責任者です。条令とも呼ばれ、4坊ごとに1人が設置され、住民の有力者から選ばれ、治安維持、戸籍作成、租税の収集などの実務を担いました。1坊をおおむね240戸程度の宅地単位とみなす考え方が一般的です。この制度的枠組みをもとに、藤原京の条坊構造を復原しようとする試みは、近年の「大藤原京」説において顕著に見られます。
 小澤毅氏は、考工記に記された「九経九緯」すなわち南北・東西にそれぞれ9本の大路を設けるという理想的都城像を出発点とし、これを藤原京に適用することで十条十坊の構成を導き出しました。この復原案では、坊令の規定に基づく宅地班給の制度的要請と、考工記の規範的都城像とを重ね合わせることで、藤原京の最大規模を理論的に構築しています。すなわち、制度的理念に基づいて都市の最大値を先に設定し、それに遺構を当てはめていくという手法が採られているのです。
 しかしながら、このような手法には、制度と実態の乖離という根本的な問題が潜んでいます。まず、坊令の設置は、理想的な宅地班給と都市支配を前提とした規定であり、実際の都市空間がその通りに整備されたとは限りません。律令制の理念が現実の地形や造成技術、既存の集落構造と常に整合していたわけではなく、制度的規定と実際の都市形成とのあいだには、しばしば大きな隔たりが存在していました。とくに藤原京のように、初めて本格的な条坊制を導入した都市においては、制度の運用と現場の対応とのあいだに柔軟な調整が行われていた可能性が高いと考えられます。
 また、坊令設置に基づく宅地班給の実施状況についても、史料的には不明な点が多く残されています。『続日本紀』や『養老令』などの文献においても、藤原京における宅地班給の具体的な実施状況を明示する記述は乏しく、実際にどの範囲まで宅地が整備されていたのかを確定することは困難です。したがって、制度的に想定される最大規模をもって都市の実態を説明しようとすることには、慎重な姿勢が求められます。
 さらに、考古学的な発掘成果を見ても、藤原京の外縁部においては、条坊道路の存在が確認される一方で、宅地や寺院、官衙といった都市的施設の集積は乏しく、都市機能が実際に展開していたとは言い難い状況です。西本昌弘氏は、こうした遺構密度の差異に注目し、都市機能の集中範囲を三山の内部に限定する復原案を提示しています。西本氏の分析によれば、藤原京の条坊道路は、測量や造成のための基準線として広く用いられた可能性があり、必ずしも宅地班給や都市機能の展開を意味するものではないとされます。
 このように見てくると、坊令の設置をもとに藤原京の条坊構造を復原する手法は、制度的理念を過度に重視するあまり、実証的制約との整合性を欠く危険性を孕んでいます。都市の復原においては、制度文献の記述を重視すること自体は否定されるべきではありませんが、それを実証的資料とどのように接続するかについては、慎重な検討が必要です。とくに、制度的理論値をもとに都市の最大規模を先に設定し、それに遺構を当てはめていくという手法は、循環論法に陥る危険性が高く、歴史学的な検証の枠組みとしては適切とは言えません。
 また、制度と実態の乖離は、都市の空間構成だけでなく、政治的・儀礼的な空間の形成にも影響を及ぼしていたと考えられます。たとえば、寺院や官衙の配置、宮城の立地などは、制度的理念だけでなく、地形的制約や視覚的象徴性、さらには政治的意図によっても左右されていたはずです。したがって、都市の復原においては、制度文献だけでなく、地形・遺構・儀礼構造といった複数の要素を総合的に検討する必要があります。

3.三山都市論の構造と藤原京の完成像

 藤原京の都市構造をめぐる議論において、岸俊男氏が提示した「三山都市論」は、制度的理念に依拠する復原とは異なる視点から、都市の実態に迫ろうとする試みとして高く評価されています。岸氏は、藤原京の北限を耳成山・香具山・畝傍山の三山によって画定し、都市の構造がこの三山に囲まれた地形的枠組みのなかに収まっていたとする立場をとりました。この復原案は、単なる地形的制約の指摘にとどまらず、視覚的・儀礼的な構造をも含意するものであり、都市空間の象徴的意味を読み解くうえで重要な視座を提供しています。
 まず、地形的観点から見ると、大和三山は藤原盆地の中央部に位置し、自然地形として明確な視覚的ランドマークを形成しています。畝傍山は西に、耳成山は北東に、香具山は南東に位置し、三山を結ぶとほぼ正三角形に近い構成となります。この三山に囲まれた空間は、地形的にも比較的平坦であり、条坊制の導入に適した造成可能地としての条件を備えていました。岸氏は、この三山の内側に藤原宮を中心とする都市機能が集中していたと考え、都市の北限を耳成山の南麓に設定しました。
 このような復原は、考古学的な発掘成果とも整合しています。藤原宮を中心に、東西に官衙群が展開し、南北には条坊道路が整然と延びています。また、山田寺や大官大寺、薬師寺といった主要寺院も三山の内部に配置されており、都市機能の中核がこの範囲に集中していたことが確認されています。これに対し、三山の外縁部では、条坊道路の痕跡はあるものの、都市的施設の密度は著しく低く、宅地や寺院、官衙の存在は限定的です。こうした遺構分布の偏在は、都市の実態が三山内部に限定されていたことを示唆しています。
 さらに注目すべきは、三山が都市の儀礼的・象徴的構造において果たしていた役割です。岸氏は、三山が単なる地形的障壁ではなく、都市の象徴的枠組みとして機能していたと考えました。とくに、藤原宮の立地は、香具山を東に、畝傍山を西に、耳成山を北に望む位置にあり、陰陽五行思想における四神相応の構造を想起させます。すなわち、香具山は青龍、畝傍山は白虎、耳成山は玄武に対応し、南方には朱雀の象徴として吉野方面が想定されていた可能性があります。このような象徴軸の存在は、都市の設計において視覚的・儀礼的な秩序が重視されていたことを物語っています。
 この点において、考工記に記された「面朝後市」「左祖右社」といった原則よりも、実際の地形や儀礼構造に即した都市設計が優先されていたと考える方が自然です。たとえば、藤原宮の南面には市が設けられていたとされますが、その位置は必ずしも考工記の規定と一致するものではありません。また、祖廟や社祠の配置についても、地形や既存の宗教的聖地との関係が重視されていたとみられます。こうした点からも、藤原京の都市構造は、制度的理念の単純な写しではなく、地形・儀礼・視覚の三層を統合した複合的な空間構成であったと理解すべきです。
 西本昌弘氏は、岸説を継承しつつ、発掘成果に基づく実証的な補強を加えています。西本氏は、三山の内部における遺構密度の高さと、外縁部における都市機能の希薄さを対比させることで、都市の実態が三山枠内に限定されていたことを明確に示しました。また、宮城の東西に官衙群が配置されている点や、条坊道路の分布が三山の枠内で整然と展開している点など、都市構造の完成度の高さを指摘しています。これらの分析は、藤原京が三山に囲まれた中規模の都城として計画的に整備されていたことを裏づけるものです。
 このように、三山都市論は、地形的制約を出発点としながらも、視覚的秩序や儀礼的構造を重視し、都市空間の象徴性を読み解く枠組みとして有効に機能しています。制度的理念に依拠する復原とは異なり、実証的資料と地形的現実に即した都市像を提示する点において、三山都市論は藤原京の復原における重要な理論的基盤となっています。

4.遺構密度と都市機能から見た京域の再定義

 藤原京の復原において、都市の規模や範囲をどのように定義するかは、制度的理念と実証的制約のあいだで常に議論の的となってきました。とくに近年では、発掘成果の蓄積により、条坊道路や建物遺構の分布状況が明らかになりつつあり、都市機能の実態に即した京域の再定義が求められています。この点において、西本昌弘氏の研究は、遺構密度と都市機能の分布に着目することで、藤原京の実態的な範囲を明確にしようとする試みとして注目されます。
 西本氏は、藤原京の条坊道路や建物遺構の分布を詳細に分析し、都市機能が実際に展開していた範囲を三山の内部に限定する復原案を提示しました。とくに、宮城を中心とした東西の官衙群、南方の市、主要寺院の配置などが、いずれも三山の枠内に収まっていることに注目し、都市機能の中核がこの範囲に集中していたと論じています。これに対し、三山の外縁部では、条坊道路の痕跡は確認されるものの、建物遺構の密度は著しく低く、都市的施設の存在は限定的です。
 このような遺構密度の差異は、都市の実態を復原するうえで極めて重要な手がかりとなります。都市空間において、道路や区画の存在は必ずしも都市機能の展開を意味するものではなく、むしろ建物遺構の密度や機能分布こそが、都市の実態を示す指標となります。たとえば、宮城周辺では、政庁や倉庫、寺院、宅地とみられる建物跡が高密度に分布しており、行政・宗教・居住といった都市機能が複合的に展開していたことがうかがえます。
 一方で、藤原京の外縁部においては、条坊道路の存在が確認されているにもかかわらず、建物遺構の検出は限定的であり、都市的機能が実際に展開していたとは言い難い状況です。こうした地域における道路の存在は、都市の造成計画の一環として設けられた測量基準線、あるいは郊外の交通路や官衙施設へのアクセス路としての性格を持っていた可能性があります。したがって、道路の存在をもって京域の拡張根拠とすることには、慎重な検討が必要です。
 また、都市機能の分布を検討するうえでは、建物の種類や配置関係も重要な指標となります。藤原京の中心部では、宮城を挟んで東西に官衙群が配置され、南北に条坊道路が整然と延びています。これに対し、外縁部では、官衙や寺院といった中枢的施設の存在は確認されておらず、都市機能の展開が限定的であったことがうかがえます。西本氏は、こうした分布の偏在をもとに、藤原京の実態的な京域を三山の内部に限定する復原案を提示し、制度的理念に基づく「大藤原京」説に対して批判的な立場を明確にしています。
 このような実証的分析に基づく復原は、都市の実態をより的確に捉えるうえで有効です。制度的理念に基づく復原が、理論的整合性を重視するあまり、実際の遺構分布や地形的制約との整合性を欠く傾向があるのに対し、遺構密度と都市機能の分布に着目する手法は、都市の実態に即した復原を可能にします。とくに、藤原京のように造成途中の段階で遷都が行われた可能性のある都市においては、制度的理念と実態との乖離を前提とした分析が不可欠です。
 さらに、都市の範囲を定義する際には、単に空間的な広がりだけでなく、都市機能の展開範囲を重視する必要があります。都市とは、単に建物が存在する空間ではなく、行政・宗教・経済・居住といった多様な機能が複合的に展開する場であり、その機能の集中度こそが都市の実態を規定します。したがって、藤原京の復原においても、遺構の密度や機能分布をもとに、都市機能が実際に展開していた範囲を京域とみなすべきです。
 このような観点からすれば、藤原京は、三山に囲まれた範囲において都市機能が集中的に展開していた中規模の都城であったと考えるのが妥当です。条坊道路が外縁部にまで延びていたとしても、それは都市の造成計画の一環であり、実際に都市機能が展開していたとは限りません。むしろ、造成の途中で遷都が決定されたことにより、外縁部の整備が未了に終わった可能性も考慮すべきです。

5.藤原京の拡大限界と平城京遷都の論理

 藤原京は、日本で初めて本格的な条坊制を導入した都城として、制度的にも象徴的にも画期的な存在でした。宮城を中心に、東西に官衙群を配し、南北に整然と延びる条坊道路を備えたその構造は、律令国家の成立を空間的に体現するものであったといえます。しかしながら、この都市はわずか16年という短命に終わり、710年には平城京への遷都が実施されました。この遷都の背景には、政治的・宗教的・地理的な要因が複合的に作用していたと考えられますが、都市構造そのものが抱えていた拡張不能性もまた、重要な要因の一つであったと考えられます。
 まず注目すべきは、藤原京における宮城の立地です。藤原宮は、大和三山のほぼ中央に位置し、香具山を東に、畝傍山を西に、耳成山を北に望む象徴的な空間に設けられていました。この配置は、陰陽五行思想における四神相応の構造を意識したものであり、都市の中心に天皇の居所を据えるという理念的な意図が明確に表れています。しかし、このような象徴的中心性は、都市の拡張に対しては大きな制約となりました。すなわち、宮城が都市の中央に固定されているがゆえに、都市を拡大しようとすれば、宮城の位置を移動させるか、都市構造そのものを再編成する必要が生じるのです。
 とくに東方への拡張は、香具山の存在によって物理的にも儀礼的にも困難でした。香具山は、万葉集にも詠まれるように、古代において特別な宗教的意味を持つ聖山であり、その周辺は禁足地として扱われていた可能性があります。したがって、香具山の東側に条坊を延ばし、宅地班給を行うことは、儀礼的にも政治的にも許容されなかったと考えられます。実際、小澤毅氏が提唱する「大藤原京」説においても、香具山の位置にあたる部分は宅地班給の対象外とされており、制度的理念と地形的現実とのあいだに齟齬が生じていることがうかがえます。
 このような地形的・儀礼的制約に加えて、政治的要因も都市の拡張を困難にしていた可能性があります。とくに注目されるのが、藤原宮の東側に隣接する法華寺の存在です。発掘調査や文献史料により、法華寺の前身が藤原不比等の邸宅であったことは、近年の研究でほぼ確実視されています。不比等は、律令制度の整備を主導し、藤原京の都市計画にも深く関与したとされる人物であり、その邸宅が宮城の至近に位置していたという事実は、政治的空間構成の観点からも重要です。
 この配置は、天皇権力と藤原氏の政治的接近を象徴するものであり、政務や儀礼への即応性を高める意図があったと考えられます。しかし同時に、不比等邸宅の存在は、都市の東側における空間構成を固定化し、拡張の余地を狭める要因ともなりました。香具山という地形的制約に加え、政治的中枢としての不比等邸宅が東側の空間を占めていたことで、都市の拡張は構造的に困難となったのです。
 こうした状況のなかで、都市の拡張を志向する動きが生じたとしても、それを藤原京の枠内で実現することは極めて困難でした。都市の拡張には、単に条坊を延長するだけでなく、宮城の再配置、儀礼空間の再構成、水利や交通路の再整備といった大規模な再設計が必要となります。これは、もはや都市の拡張というよりも、新たな都城の建設に等しい作業であり、結果として平城京への遷都という選択が導かれたと考えるのが自然です。
 この点に関連して、大脇潔氏は興味深い視点を提示しています。大脇氏は、「大藤原京」をそのまま北へ水平移動させれば、平城京の条坊構造とほぼ一致することを指摘し、平城京の外京が「大藤原京」の外縁部に相当する空間を再現したものである可能性を示唆しました。大脇氏の説は、制度的理念の継承と都市計画の連続性を重視する立場から、藤原京と平城京の関係を読み解こうとする試みとして注目されます。
 もっとも、この説にはいくつかの問題点もあります。第一に、「大藤原京」そのものが実証的に成立していない以上、それを前提とした平城京との対応関係もまた仮説の域を出ません。第二に、地形や水利、儀礼空間の構造が両都市で大きく異なることを考慮すれば、単純な「水平移動」として都市計画の連続性を語ることには限界があります。それでも、大脇氏の視点は、藤原京の拡張不能性と平城京の都市構造との関係を考えるうえで、示唆的な補助線を提供しているといえます。
 平城京は、藤原京とは異なり、広大な平坦地に建設され、宮城を北端に配置することで南方への拡張余地を確保していました。また、外京の設定も可能となり、都市機能の分散や拡張が制度的にも地形的にも容易になっています。こうした都市構造の柔軟性は、藤原京が抱えていた拡張不能性を克服するための意図的な設計であったと考えられます。
 このように見てくると、藤原京は、三山に囲まれた象徴的構造を持つ中規模の都城として完成していたものの、その構造的特性ゆえに拡張が困難であり、制度的・政治的要請に応えるには限界があったといえます。香具山の存在、不比等邸宅との空間的関係、造成技術や水利の制約など、複数の要因が重なり合うなかで、藤原京の拡張は現実的な選択肢とはなり得ませんでした。こうした構造的限界こそが、平城京遷都の根本的な動機の一つであったと考えるべきです。

おわりに

 都市は、ただの空間ではありません。そこには制度があり、儀礼があり、地形があり、人々の営みがあります。藤原京という都市もまた、律令国家の理念を体現しようとした壮大な試みでありながら、地形的制約や政治的現実、そして制度と実態のあいだに横たわる緊張のなかで、そのかたちを定めていきました。理想と現実のあいだで揺れ動くその姿は、まさに古代国家の形成過程そのものを映し出しているように思われます。
 「大藤原京」という構想が提示されたことは、制度的理念に立脚した復原の可能性を改めて問い直す契機となりました。一方で、それに対する批判的検討を通じて、地形や遺構、儀礼構造といった実証的な手がかりの重要性も再確認されました。制度と実態のあいだに生じる齟齬を見つめることは、単なる復原の正誤を超えて、古代国家が抱えていた構造的課題や、都市に託された政治的・宗教的意味を読み解くことにつながります。
 藤原京の短命は、失敗の物語ではありません。むしろ、それは制度と地形、理念と現実とのせめぎ合いのなかで、国家がいかに空間を構想し、いかにして次なる都へと歩みを進めたのかを示す、貴重な歴史的証言なのです。


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