見出し画像

【歴史】日本古代における皇后制の成立と東アジア的背景

はじめに

 皇后という存在は、日本古代の政治構造が大きく変わろうとしていた時期に姿を現します。7世紀以前の日本では、天皇の妻たちを指す語として「后」が用いられていましたが、その意味は後世のように嫡妻を示すものではありませんでした。複数の皇族女性が「后」と呼ばれ、称号の使い分けも必ずしも固定されていなかったことは、当時の政治文化がまだ制度としての枠組みを持っていなかったことを示しています。
 一方で、7世紀後半の日本は、皇統の整理や皇族の再編が急速に進み、天武・持統朝において国家の制度化が本格化していきました。律令制の整備とともに、皇后という地位が制度として確立され、皇太子と結びついた新たな皇統継承の枠組みが形づくられていきます。この変化は日本内部の政治的要請だけでなく、同時期の東アジア世界、とりわけ新羅の制度との関係を抜きに語ることはできません。
 皇后制の成立は、単に称号が整えられたというだけではなく、皇統の在り方そのものを再編する試みでした。その背景には、皇族の構造変化、皇統の固定化、対外関係の変動など、複数の要素が複雑に絡み合っています。本稿では、先行研究の整理から出発し、皇后制成立以前の「后」語義の検討、日本内部の政治的背景、東アジア比較、そして皇后の権能の問題へと議論を進め、皇后制がどのような歴史的文脈の中で生まれたのかを明らかにしていきたいと思います。


1.先行研究と「大后」概念の再検討

 日本古代の皇后研究は、戦後の岸俊男氏による一連の論考を起点として展開してきました。岸氏は、皇后を皇位継承資格をもつ極めて重要な地位と位置づけ、皇后を天皇と並ぶ政治的存在として捉えました。この見解はその後の研究に大きな影響を与え、皇后を王権構造の中核に置く理解が広く共有されるようになります。
 この岸説を批判的に継承したのが小林敏男氏です。小林氏は、皇后を天皇の共同統治者とみなし、皇后が天皇とともに政治的決定に関与したとする「共同統治者説」を提示しました。小林氏の議論は、皇后を単なる后妃ではなく、天皇と対をなす政治主体として理解する点に特徴があり、皇后研究の方向性を大きく規定しました。
 こうした議論をさらに制度論的に整理したのが荒木敏夫氏です。荒木氏は、天皇を核としつつ太上天皇・皇后・皇太子などが相互補完する「王権の多極構造論」を提示し、皇后を王権を分掌する一極として位置づけました。この多極構造論は現在でも広く参照され、皇后を天皇権力の一部を担う存在として理解する枠組みを提供しています。
 しかし、これらの研究は共通して「大后」を皇后の前身とみなし、7世紀以前から皇后に相当する地位が存在したという前提に立っていました。この前提に対して、2000年代以降、批判的な再検討が進みます。大平聡氏は、律令制以前の段階において王妻が王権を分掌したとは考えがたいと指摘し、大后に政治的権能を想定する従来の理解に疑問を呈しました。
 さらに、遠藤みどり氏は、「大后」は制度的地位ではなく尊称にすぎず、律令制下の皇后とは連続しないと主張しました。桜田真理絵氏も「大后」の語義を再検討し、大后を皇后の前身とみなす研究手法そのものが誤っていると論じています。これらの研究は、大后と皇后を連続的に捉える通説を根底から揺さぶるものでした。
 こうした議論を踏まえ、浅野咲氏は、大后は7世紀に皇族の権威を強調するために創出された称号であり、皇后とは制度的に断絶していると位置づけました。大后は皇族出身のキサキを上位に置くための称号であって、皇后のように皇太子の母としての制度的役割を担うものではありませんでした。
 以上の先行研究を整理すると、従来の皇后研究は「大后=皇后の前身」という前提のもとに構築されてきたことが明らかになります。しかし、この前提は史料的根拠に乏しく、7世紀以前の「后」や「大后」の語義を十分に検討しないまま制度史的議論が進められてきた側面があります。皇后制の成立を正確に理解するためには、まずこの前提を取り払い、制度としての皇后がどのような歴史的条件のもとで創出されたのかを改めて問い直す必要があります。

2.皇后制成立以前の「后」語義と称号運用

 皇后制が制度として成立する以前、日本における「后」という語は、後世のように嫡妻を示す語としては用いられていませんでした。7世紀前半の史料を丁寧に読み解くと、「后」は皇族女性を広く指す称号として機能しており、正妻・側妻といった序列を明確に区別する語ではなかったことがわかります。この語義の揺れを理解することは、皇后制がなぜ7世紀後半に必要とされたのかを考えるうえで不可欠です。
 その実態を最もよく伝える史料が、「天寿国繍帳」銘文です。推古朝に制作されたと考えられるこの銘文には、欽明天皇の「大后」として堅塩媛、「后」として小姉君が記され、敏達天皇や用明天皇にも「大后」が付されています。さらに、聖徳太子の妃である橘大郎女までもが「后」と表記されています。橘大郎女は皇族ではなく、父は尾治王とされますが、銘文には「尾治王」と「尾治大王」の二通りの表記が併存しています。義江明子氏が指摘するように、これは語りの主体が人物の尊貴性を強調するために称号を使い分けた結果であり、称号運用が固定化されていなかったことを示しています。
 また、銘文には「太子」や「公主」といった中国由来の称号が用いられており、制作主体が中国の制度や文化に一定の理解を持っていたことがうかがえます。にもかかわらず、「后」が嫡妻を意味する語としては用いられていない点は注目に値します。欽明天皇の二人のキサキがともに「后」とされ、橘大郎女のように皇族以外の女性にも「后」が付されていることは、当時の「后」が婚姻関係の序列を示す語ではなかったことを明確に示しています。
 この状況は、『隋書』倭国伝の記述とも符合します。推古8年(600)の遣隋使が隋の官人から王妻の号を問われた際、「キミ」という尊称しか答えられなかったとされる記事は、当時の倭国において王妻の称号が制度化されていなかったことを示す史料として知られています。中国では後漢以降、「后」は皇帝の嫡妻に限定される語として儒教礼説の浸透とともに確立していましたが、日本ではその語義が受容されていなかったことがわかります。
 以上の史料を総合すると、7世紀前半の日本における「后」は、皇族女性や天皇の複数のキサキを広く指す称号であり、嫡妻を示す語としては機能していませんでした。称号の使い分けも固定化されておらず、「大后」と「后」の区別も制度的なものではなく、語りの文脈に応じて柔軟に用いられていたと考えられます。
 このように、皇后制成立以前の日本には、嫡妻を制度的に位置づける枠組みが存在していませんでした。したがって、皇后制の成立は、単なる称号の整備ではなく、皇族の構造や皇統継承の在り方を大きく転換する制度的創出であったと理解すべきです。

3.皇后制成立の日本内部の政治的背景

 皇后制が7世紀後半に制度として成立した背景には、日本内部で進行していた皇統の整理と皇族構造の変化が深く関わっていました。皇后制は外来制度の受容として語られることが多いものの、その前提には、国内で皇統を一本化し、皇族を父系出自集団として再編しようとする動きが存在していました。こうした内的変化を踏まえなければ、皇后制が必要とされた理由を十分に理解することはできません。
 6世紀に入ると、皇統は欽明系に固定されていきます。大平聡氏や仁藤敦史氏が指摘するように、欽明天皇以降、皇位は特定の系統に集中し、皇統が世襲的に継承される傾向が強まりました。この過程で、皇族は父系出自集団としての性格を強めていきます。吉田孝氏や水谷千秋氏の研究によれば、6世紀以前の皇族は母方の親族に依存する度合いが強かったものの、6世紀後半には皇族内部での内婚化が進み、父系を中心とした皇族の再編が進行していました。
 推古朝は、この皇族再編が顕著に表れた時期でした。関根淳氏が示すように、推古朝では欽明系と蘇我氏の結びつきによって皇族の枠組みが再構築され、皇統の一本化が意識的に進められました。推古天皇自身が蘇我氏の出身であることを意識していたとされる点は、皇族と外戚勢力の関係が皇統の形成に影響を与えていたことを示しています。
 こうした皇族再編の一環として創出されたのが「大后」という称号でした。浅野咲氏が指摘するように、大后は皇族出身のキサキを上位に位置づけるために7世紀に創出された称号であり、皇后の前身ではありませんでした。大后は皇族の権威を示すための尊称であり、皇統継承に制度的な役割を持つものではありませんでした。しかし、大后の創出は、皇族内部で序列を明確化しようとする動きの一部であり、皇族の再編が進んでいたことを示す重要な指標です。
 皇統の整理は、舒明朝以降さらに進みます。舒明系皇統が確立したのち、上宮王家の討滅や蘇我本宗家の滅亡を経て、皇統は一系に収斂していきました。これらの政治的事件は、皇統を特定の系統に集中させるための過程として理解できます。皇統の範囲が狭まり、皇位継承の候補が限定されていくなかで、継承の安定を図るための制度的枠組みが求められるようになりました。
 天武朝は、この皇統再編の最終段階に位置づけられます。天武天皇は壬申の乱を経て即位し、皇統の一本化と中央集権化を強力に推し進めました。天武朝の政策には、皇族の序列化、官制の整備、儀礼の統一など、皇統を中心とした国家体制を構築しようとする意図が明確に見られます。その中心にあったのが、直系継承の志向でした。皇統を安定させるためには、皇位を特定の系統に固定し、継承の原理を明確にする必要がありました。
 このように、皇后制の成立は、日本内部で進行していた皇統の整理と皇族の再編を背景として理解する必要があります。皇后制は外来制度の単純な模倣ではなく、皇統を直系に収斂させ、皇族の序列を制度的に整えるための装置として創出されたものでした。

4.皇后制・皇太子制の受容と東アジア比較

 皇后制と皇太子制が天武・持統朝において制度として受容された背景には、日本内部の政治的要請だけでなく、同時期の東アジア世界の制度動向が深く関わっていました。7世紀後半の日本は唐との直接的な交渉が停滞し、新羅との外交が活発化していた時期にあたります。こうした国際環境の変化は、日本がどの制度を参照し、どのような形で受容したのかを考えるうえで重要な意味を持ちます。皇后制と皇太子制の成立は、東アジア的文脈の中で理解されるべき現象でした。
 新羅では6世紀後半から7世紀にかけて、王統の直系継承が強く志向され、王后と太子が制度的に結びつくようになります。『三国史記』によると、真興王は即位時に幼少であったため、生母の只召太后が摂政を務めました。只召太后は先王の娘であり、王太后として政治的役割を果たした最初期の例とされています。また、善徳王・真徳王という二代の女帝が即位したことも、新羅の王統が直系継承を重視し、王族内部での継承を優先した結果と理解できます。女帝即位は可能であったものの、異例とみなされていた点は、日本の女帝即位と共通する特徴です。
 真平王の時代には、王統の神聖性を強調するための真種説話が形成され、王族が釈迦の家系の転生であるとする物語が語られました。盧泰敦氏の研究によれば、これは真平王が自らの直系を他の真骨貴族よりも優位に置くための政治的装置であり、直系継承を正当化するための思想的基盤として機能しました。この直系継承志向は、後の王后・太子制度の整備につながっていきます。
 新羅における制度整備の転換点は、文武王19年(679)の「東宮」創設です。『三国史記』には「創造東宮」と記され、太子の居所としての東宮が制度的に設置されたことがわかります。東宮は太子の存在を視覚的に示す政治空間であり、太子を中心とした王統継承の枠組みを明確化する役割を果たしました。さらに、武烈王2年(655)には王后所生の法敏(のちの文武王)が太子に立てられ、王后と太子の結びつきが制度として確立していきます。王后の地位は、太子の正統性を支える基盤として位置づけられたのです。
 こうした新羅の制度は、日本の皇后制・皇太子制の成立と密接に関連しています。天武8年(679)の草壁皇子に関する別献物記事は、従来脚色とみなされてきましたが、新川登亀男氏はこれを新羅の制度を参照したものと位置づけています。新羅が東宮を創設したのと同じ年に、日本で草壁皇子に関する記事が現れることは、両者の制度的連動を示唆するものです。日本が新羅の制度を媒介として唐の制度を摂取していたという鈴木靖民氏や李成市氏の指摘は、皇后制・皇太子制の受容を理解するうえで重要な視点となります。
 新羅だけでなく、高句麗や百済のキサキ制も比較の対象となります。高句麗では、山上王の「王后」と「小后」、中川王の「小后」、安原王の「正夫人」「中夫人」「小夫人」など、複数のキサキが階層的に位置づけられていました。百済では、責稽王が帯方王女を夫人とし、枕流王の母が阿爾夫人、腆支王の妃が八須夫人と記されるなど、キサキの称号が比較的安定して用いられていました。さらに、武寧王妃墓誌に見える「王太妃」や弥勒寺舎利奉迎記の「王后」など、金石文資料からもキサキの称号が確認できます。
 これら三国の制度を比較すると、新羅が最も早く王后と太子を制度的に結びつけ、直系継承を強く志向していたことがわかります。高句麗や百済ではキサキの序列は存在したものの、王后と太子の制度的連動は明確ではありませんでした。したがって、日本が7世紀後半に皇后制と皇太子制を受容した背景には、新羅の制度が強く影響していたと考えるのが妥当です。
 このように、皇后制と皇太子制の成立は、日本内部の政治的要請と東アジア世界の制度動向が交差する地点で生まれた現象でした。

5.皇后の権能とその限界

 皇后制が制度として成立したのち、皇后は皇統継承の枠組みの中で重要な位置を占めるようになります。しかし、その地位が政治的権限を伴っていたかといえば、史料の示すところは明確に否定的です。皇后は象徴的な存在として大きな影響力を持ち得たものの、天皇大権を代行する主体ではなく、制度上の権能には厳しい制約が課されていました。皇后の権能とその限界を検討することは、皇后制がどのような目的で創出され、どのように機能したのかを理解するうえで不可欠です。
 まず確認すべきは、皇后が詔を発することはなかったという点です。詔は天皇の固有権限であり、天皇の意思を国家に示す最も重要な手段でした。皇后が詔を発した例は史料上存在せず、天皇の代行者として政治的決定を下す立場にはありませんでした。皇后宮職が扱う令旨は存在しますが、その内容は皇后宮内部の事務に限定され、国家運営に関わるものではありませんでした。皇后宮職の令旨が限定的であることは、皇后の権限が制度的に厳しく制約されていたことを示しています。
 また、皇后による執政の事例も確認されていません。天皇が幼少であったり、病に伏したりした場合に政治を代行するのは太上天皇や皇太子であり、皇后が政務を担うことは制度上想定されていませんでした。皇后が政治的決定に関与したとされる事例は、後世の物語的脚色や政治的影響力の誇張である可能性が高く、制度としての権能とは区別して理解する必要があります。
 皇后に政治的権限が付与されなかった背景には、皇太子の正統性を守るという制度的要請がありました。皇后は皇太子の母として位置づけられ、その地位は皇統継承の安定に直結していました。もし皇后が強い政治権限を持てば、皇太子の威信が損なわれ、皇統継承の秩序が揺らぐ可能性があります。皇后の権限が制度的に制限されていたのは、皇統の安定を最優先する天武・持統朝の政治構造に適合した結果といえます。
 この構造は、中国古代の皇后制度とも共通しています。後漢以降、中国では皇后は皇帝の嫡妻として強い象徴的地位を持ちながらも、政治的権限は制度的に制限されていました。皇后は後宮の秩序を統括し、皇太子の母としての地位を保障される一方、国家運営には直接関与しないという構造が確立していました。日本の皇后制は、この中国的構造を参照しつつ、日本独自の皇統継承の枠組みに適合する形で受容されたと考えられます。
 皇后は政治的権力者ではなく、皇統の正統性を支える基盤として制度化された存在でした。皇后の地位は、皇太子の正統性を保証し、皇統継承の秩序を安定させるための象徴的役割を担っていました。皇后制の成立は、皇統を中心とした国家体制を整えるための制度的装置であり、皇后の権能はその目的に応じて慎重に限定されていたのです。

おわりに

 皇后という制度は、7世紀後半の日本が自らの皇統をどのように形づくり、どのような秩序を未来へと引き渡そうとしたのかを映し出す鏡のような存在でした。7世紀前半までの「后」が柔軟な称号として運用されていたことを思えば、皇后制の成立は、称号の整備というよりも、皇族の構造と皇統継承の原理を再編するための制度的決断であったといえます。
 その決断は、日本内部の政治的変化だけでは説明しきれません。皇族の父系出自集団化、欽明系皇統の固定化、推古朝・舒明朝を通じた皇族再編といった国内の動きに、新羅を中心とする東アジア世界の制度動向が重なり合い、天武・持統朝において皇后と皇太子を中心とした新たな皇統秩序が形づくられました。皇后は天皇と並び立つ政治主体ではなく、皇太子の正統性を支える象徴的存在として制度化され、その権能は慎重に限定されていました。
 皇后制の成立をたどることは、古代日本がどのように自らの国家像を描き、どのように外部世界と向き合いながら制度を選び取っていったのかを読み解く作業でもあります。皇后という存在は、皇統の安定を支えるために置かれた制度的装置であると同時に、東アジア世界の中で日本がどのように位置づけられ、どのように自己を形成していったのかを示す歴史的痕跡でもあります。
 皇后制の成立をめぐる議論は、今後も皇族の構造、皇統継承の原理、東アジア比較といった複数の視点から再検討されるべき課題を多く残しています。本稿で扱った論点が、その再検討のための一つの視座となれば幸いです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集