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【歴史】<近代史探訪コラム2>政党政治の胎動と挫折―第二次伊藤内閣から第一次桂内閣まで

はじめに

 日清戦争を経て日本が国際社会で一定の地位を獲得しつつあった明治20年代後半から30年代初頭にかけて、政治の風景は大きく変わり始めていました。帝国議会の成立期に見られた政府と民党の激しい対立は、制度の定着とともに新しい局面へと移り、政党は議会を足場に政治の中心へ進出しようとします。
 一方で、政府は政党を利用しつつも警戒し、官僚は政党の影響力を排除しようとし、軍部は日清戦争後に発言力を増していきました。さらに、元老たちが首相推薦権を握ることで、政治の構造はより複雑なものになっていきます。政党がどのように政府と結びつき、どのように排除され、どのように再編されていったのか。その動きの中に、明治政治の本質が見えてきます。本稿では、第二次伊藤博文内閣から第一次桂太郎内閣に至るまでの政治過程を、政党政治の胎動と挫折という視点から描いていきます。


1.第二次伊藤博文内閣―自由党との提携と文官任用令

 明治26年(1893)に成立した第二次伊藤博文内閣は、政党との新たな関係を模索し始めていました。第一次議会期の政府は政党を「国家を揺るがす存在」とみなし、超然主義を掲げて距離を置いていましたが、議会が制度として定着し、政党が多数派を形成するようになると、政府も政党を無視できなくなります。そこで伊藤が選んだのが、自由党との提携でした。内務大臣に板垣退助を迎え入れたことは、政府が政党を部分的に取り込み、議会運営を安定させようとする試みでした。板垣は自由民権運動の象徴的存在であり、彼の入閣は政党側にとっても大きな意味を持ちました。
 しかし、この提携は単なる政治的妥協ではありませんでした。伊藤は政党を政府の補助勢力として利用しつつ、政党が官僚制に深く入り込むことを防ごうとしていました。その意図が最もよく表れたのが、明治26年(1893)に制定された文官任用令です。文官任用令は、勅任官―すなわち高級官僚―を「天皇の自由任用」とするものでした。表向きは能力主義の徹底を掲げていましたが、実際には政党員が官僚組織に入り込むことを防ぐための制度でした。政党が議会で力を持ち始めたからこそ、官僚制の独立性を守る必要があると政府は考えたのです。
 当時の新聞は、この動きを「政党の進出を防ぐための制度的防壁」と評しています。伊藤は政党と提携しつつも、政党政治の全面的な導入には慎重であり、官僚制を国家運営の中核に据え続けようとしていました。第二次伊藤内閣の政治は、政党と政府の距離が縮まりつつも、決して融合することはありませんでした。政党を利用しつつ、政党を警戒する。協力しながら、同時に牽制する。この複雑な関係は、のちの政党政治の行方を大きく左右することになります。

伊藤博文

2.第二次松方正義内閣―松隈内閣と金本位制

 第二次伊藤内閣が退陣したあとを受けて成立した第二次松方正義内閣は、財政家としての松方の手腕が期待される一方で、議会との関係では不安定さを抱えた政権でした。明治29年(1896)に成立したこの内閣は、自由党との提携を進めた伊藤とは異なり、進歩党との協力を軸に議会運営を試みます。外務大臣には大隈重信が就任し、松方と大隈の組み合わせから「松隈内閣」と呼ばれました。政党と政府が手を結ぶという構図は、政党政治の成熟を予感させるものでしたが、実際にはその歩みは決して順調ではありませんでした。
 松隈内閣の最大の成果とされるのが、明治30年(1897)に制定された貨幣法です。これにより新貨条例が廃止され、日本は正式に金本位制へと移行しました。日清戦争の賠償金を背景に、金本位制を導入する条件が整ったことが大きな要因でしたが、国際経済の中で日本が安定した通貨制度を持つことは、国家の信用力を高めるうえで重要な意味を持っていました。新聞は「日本経済の基礎、いま固まる」と報じ、財政家・松方の面目躍如といった論調が目立ちました。
 しかし、内政面では順風満帆とはいきませんでした。松方内閣は財政再建を進めるため、地租増徴案を提出します。これは農民にとって大きな負担となる政策であり、進歩党内部でも賛否が割れました。大隈は財政健全化の必要性を理解しつつも、政党としての支持基盤を考えれば、無条件に賛成することは難しい立場にありました。議場では、進歩党議員が「国民の疲弊を顧みぬ増税は認められない」と声を上げ、政府側は「国家財政の安定なくして国の発展なし」と応じるなど、議論は平行線をたどりました。
 結局、進歩党は地租増徴案に反対し、松隈内閣は政党との協力関係を維持できなくなります。政党との提携を軸にした議会運営は破綻し、内閣は総辞職に追い込まれました。衆議院も解散され、政党政治の不安定さが改めて露わになります。政党が政府の一翼を担うことの難しさ、そして政党内部の利害調整の複雑さが、この時期の政治の特徴として浮かび上がってきます。
 第二次松方内閣の経験は、政党が政府と協力しながら政治を動かすことの可能性と限界を示すものでした。金本位制の確立という大きな成果を挙げながらも、政党との連携は長続きせず、政党政治の基盤がまだ脆弱であることが明らかになりました。政党が政策責任を負うことの重さと、政府が政党をどこまで信頼できるのかという問題は、この後の政治にも影を落としていきます。

松方正義

3.第三次伊藤博文内閣―地租増徴案と憲政党の誕生

 第二次松方内閣が総辞職に追い込まれたあと、政局の混乱を収めるために再び伊藤博文が政権を担うことになりました。こうして成立した第三次伊藤内閣は、政党との協力を前提としながらも、依然として政党政治に対して慎重な姿勢を崩さないという、きわめて不安定な立場に置かれていました。議会多数派を形成するためには政党の協力が不可欠である一方、官僚制や元老たちは政党の影響力拡大を警戒しており、伊藤はその板挟みの中で政権運営を進めざるを得なかったのです。
 第三次伊藤内閣が直面した最大の争点が、地租増徴案でした。日清戦争後の財政需要は増大しており、軍備拡張や産業基盤の整備には安定した財源が必要でした。伊藤は国家財政の強化を優先し、地租を増徴することで財源を確保しようとします。しかし、この政策は農民層に大きな負担を強いるものであり、自由党・進歩党の双方が強く反発しました。議場では、民党議員が「国民の疲弊を顧みぬ増税は断じて認められない」と声を上げ、政府側は「国家の発展のためには避けられない措置である」と応じるなど、議論は激しさを増していきました。
 自由党と進歩党は、この問題で初めて明確に歩調を合わせました。両党は地租増徴案に反対し、政府案を否決に追い込みます。伊藤は議会の抵抗を抑えるために衆議院を解散しますが、政党側の勢いは衰えず、むしろ両党の協力関係は強まっていきました。こうした流れの中で、板垣退助と大隈重信が手を結び、自由党と進歩党を合流させる形で憲政党が結成されます。これは、日本で初めての本格的な政党合同であり、政党政治の成熟を象徴する出来事でした。
 憲政党の結成は、伊藤にとって大きな打撃でした。政党が一枚岩となれば、政府は議会運営で圧倒的に不利になります。伊藤は政党政治の流れを抑え込むために、政府系与党の結成を準備しようとしますが、政党側の勢いを前にしてその試みは実を結びませんでした。結局、第三次伊藤内閣は議会多数派を確保できず、総辞職に追い込まれます。
 この政局の動きは、政党政治が単なる議会内の勢力争いではなく、政府の存立そのものを左右する段階に入ったことを示していました。政党が政策形成に直接関与し、政府を倒す力を持ち始めたという点で、第三次伊藤内閣の崩壊は大きな転換点となります。一方で、政党が結束して政府に対抗することができたのは、地租増徴という明確な争点があったからであり、政党内部の利害調整が常にうまくいくわけではありませんでした。憲政党の誕生は政党政治の前進を示すものでしたが、その内部にはすでに対立の芽が潜んでおり、後の政局に影を落とすことになります。
 第三次伊藤内閣の経験は、政党政治が本格的に動き始めた時期の象徴といえます。政党が政府に対抗し、政策を左右する力を持ち始めた一方で、政府は政党を利用しながらも警戒し続け、官僚制や元老たちは政党の台頭を抑え込もうとする。こうした複雑な力関係が、明治政治の特徴として浮かび上がってきます。

明治初期の伊藤博文

4.第一次大隈重信内閣―初の政党内閣と共和演説事件

 第三次伊藤内閣が総辞職に追い込まれ、政党が結束して政府を倒す力を示したことで、政党政治は新たな段階に入りました。その流れの中で誕生したのが、明治31年(1898)の第一次大隈重信内閣です。自由党と進歩党が合流して結成された憲政党を基盤とする、日本で初めての本格的な政党内閣でした。板垣退助が内務大臣、大隈重信が首相という組み合わせは、自由民権運動以来の政治的理想がついに実現したかのような印象を与え、多くの新聞が「政党政治の幕開け」と報じました。
 しかし、この政党内閣は誕生の瞬間から不安定さを抱えていました。自由党系と進歩党系は、合流したとはいえ政治文化も支持基盤も異なり、政策に対する考え方にも微妙なずれがありました。政党内閣としての経験も乏しく、官僚制や元老たちとの関係をどのように調整するかという問題も残されていました。政党が政府を担うという新しい政治の形は、期待と同時に大きな試練を伴っていたのです。
 その不安定さが最も劇的な形で表れたのが、いわゆる共和演説事件でした。文部大臣の尾崎行雄が、帝国教育会での講演の中で日本社会の拝金主義を批判し、「もし日本に共和政治が行われると仮定すれば、三井・三菱が大統領候補になるであろう」と述べたことが問題視されたのです。この発言は、天皇制を前提とする明治国家の政治秩序に対する挑戦と受け取られ、宮中は強い不快感を示しました。明治天皇は侍従を通じて尾崎の罷免を求め、大隈内閣は対応を迫られます。
 尾崎の発言は、共和制を主張したものではなく、財閥の影響力を批判する文脈での比喩的表現でした。しかし、当時の政治状況では、天皇制に関わる発言は極めて敏感に受け取られました。政党内閣としての経験が浅い大隈内閣は、この問題をうまく処理できず、内閣内部の対立を深める結果となります。自由党系と進歩党系の間で責任の所在をめぐる議論が紛糾し、政党内閣の脆弱さが露わになりました。
 尾崎の辞任後も、後任の文相人事をめぐって党内対立は収まらず、憲政党はわずか4か月で分裂します。自由党系は憲政党を名乗り続け、進歩党系は憲政本党として分離しました。政党内閣の崩壊は、政党政治の未成熟さを象徴する出来事として広く受け止められました。新聞は「政党政治の試練、早くも訪る」と書き、政党が国家運営を担うためには、内部の利害調整や政策形成能力が不可欠であることを指摘しています。
 第一次大隈内閣の経験は、政党政治の可能性と限界を同時に示すものでした。政党が政府を担うという新しい政治の形は実現したものの、その基盤は脆弱であり、政党内部の対立や官僚制・元老との関係調整の難しさが政権を揺るがしました。政党政治は確かに前進しましたが、その歩みは決して平坦ではなく、むしろ多くの課題を抱えたまま次の時代へと引き継がれていきます。

始球式をする大隈重信

5.第二次山県有朋内閣―官僚制の強化と政党排除

 第一次大隈内閣がわずか四か月で崩壊し、政党政治の脆さが露わになったあと、政局の混乱を収めるために再び政権を担ったのが第二次山県有朋内閣でした。明治31年(1898)に成立したこの内閣は、政党政治に対して強い警戒心を抱いていた山県の政治姿勢を色濃く反映し、政党の影響力を抑え込むための制度改革を次々と進めていきます。山県は、政党が国家運営に深く関わることを危険視し、官僚制と軍部を軸にした政治体制を維持しようとしていました。
 山県がまず取り組んだのが、官僚制の強化でした。明治32年(1899)に文官任用令が改正され、高等文官試験に合格した者の中から勅任官を選ぶ仕組みが導入されます。これは、政党員が高級官僚に進出することを防ぐための制度であり、官僚制を政党から切り離すための明確な意図がありました。山県は内務官僚を掌握し、平田東助や清浦奎吾らを中心とする「山県系官僚」を育て上げていました。彼らは山県の政治理念を共有し、政党政治に対して距離を置く姿勢を貫いていました。
 さらに、文官懲戒令・文官分限令が制定され、官僚の身分保障と懲罰規定が整備されます。これにより、官僚は政党の圧力から独立した存在として位置づけられ、官僚制が国家運営の中核として確立されていきました。山県は、政党政治の拡大を抑え込み、官僚制を中心とした政治体制を維持するための制度的基盤を着実に固めていったのです。
 選挙制度の改革も、山県の政党排除の姿勢を象徴するものでした。明治33年(1900)に衆議院議員選挙法が改正され、大選挙区制が導入されます。これは、政党が地域ごとに組織力を発揮して議席を獲得することを難しくする制度であり、政党の勢力拡大を抑える効果がありました。また、被選挙人の納税資格が廃止され、形式上は立候補の門戸が広がりましたが、実際には政党の組織力を弱める方向に働きました。
 同じ年に制定された治安警察法も、政党や労働運動を取り締まるための強力な法令でした。政治結社や集会に対する規制が強化され、警察が政治活動を監視する体制が整えられます。新聞は「政治の自由、再び制限される」と報じ、政党側からは強い反発がありましたが、山県は国家秩序の維持を理由に譲りませんでした。
 そして、山県政治の核心ともいえるのが、軍部大臣現役武官制の導入でした。明治33年(1900)に制定されたこの制度は、陸軍大臣・海軍大臣を現役の大将・中将に限るというもので、軍部が内閣の一部として強い独立性を持つことを意味していました。軍部が大臣を出さなければ内閣は成立せず、軍部は事実上、内閣の存立を左右する力を持つことになります。これは、政党政治に対する強力な牽制であり、軍部が政治に直接影響力を持つ体制の始まりでした。
 第二次山県内閣の政治は、政党政治の拡大を抑え込み、官僚制と軍部を軸にした政治体制を確立するための制度改革が中心でした。政党が政府を担う可能性を示した第一次大隈内閣の崩壊を受け、山県は政党政治の危うさを強調し、国家運営は官僚と軍部が担うべきだと主張しました。こうした山県の政治理念は、その後の日本政治に深い影響を与え、政党政治の発展を大きく制約する要因となっていきます。
 第二次山県内閣の改革は、政党政治の胎動を抑え込み、官僚制と軍部が主導する政治体制を固めるものでした。しかし、その一方で、政党は制度的な制約の中でも勢力を維持しようとし、政治の緊張はむしろ高まっていきます。政党政治の可能性と限界、そして官僚制・軍部との対立という構図は、この後の政治を大きく左右することになります。

山県有朋
明治初期の山県有朋

6.第四次伊藤博文内閣―政友会の誕生

 第二次山県内閣が政党排除の制度改革を次々と進め、官僚制と軍部を軸にした政治体制を固めていく一方で、政党側も黙っていたわけではありませんでした。政党は制度的に不利な状況に置かれながらも、議会を通じて政治の主導権を取り戻そうとし、政党組織の再編を進めていきます。その動きが最も大きな形で結実したのが、明治33年(1900)に成立した第四次伊藤博文内閣でした。この内閣は、政党と政府の関係を大きく変える出来事を生み出します。それが、立憲政友会の誕生です。
 第四次伊藤内閣は、山県が進めた政党排除の政治に対抗する形で成立しました。山県の政治姿勢は官僚制と軍部を中心に据え、政党を政治の周縁に追いやるものでしたが、伊藤はこれとは異なる方向性を模索していました。伊藤は政党を国家運営の一部として取り込み、議会と政府の協力関係を築くことで政治の安定を図ろうとしたのです。こうした伊藤の政治理念は、山県との対立を深める要因にもなりました。
 伊藤が政党との協力を本格的に進めるために動いたのが、星亨らを中心とする憲政党(旧自由党系)との連携でした。星は政党政治の拡大を強く主張し、議会を通じて政府に対抗する力を持つ政党組織の強化を目指していました。伊藤は星の政治力と組織力に注目し、政党を基盤とした新しい政治体制を築くために協力関係を結びます。こうして、伊藤を総裁とする立憲政友会が結成されました。
 政友会の結成は、日本の政党政治にとって画期的な出来事でした。政友会は、旧自由党系を中心に、地方の有力者や官僚の一部も取り込み、全国的な組織を持つ政党として成立しました。政友会は議会で多数派を形成し、政府を支える与党としての役割を担うことになります。これは、政党が政府の一翼を担うという新しい政治の形が制度的に確立したことを意味していました。
 しかし、政友会の誕生は同時に大きな波紋を呼びました。政党政治に批判的な勢力からは、政友会が「政府と癒着した政党」であるとして批判され、新聞には「政党の堕落」「政友会は官僚の手先か」といった見出しが並びました。また、政友会の結成に反発した幸徳秋水は、『万朝報』に「自由党を祭る文」を掲載し、政党が本来の理念を失い、権力に迎合したと痛烈に批判しました。政党政治の発展を期待する声と、政党の変質を憂う声が交錯し、政友会の誕生は政治の新しい緊張を生み出すことになります。
 第四次伊藤内閣は、政友会を基盤として議会運営を進めようとしましたが、貴族院との対立が深刻化し、政権運営は次第に困難になっていきました。貴族院は政党政治に批判的な勢力が多く、政友会の影響力拡大を警戒していました。議会での対立は激しさを増し、伊藤は政権を維持することが難しくなります。結局、伊藤は明治34年(1901)に退陣し、政友会を基盤とした政党政治の試みは一時的に後退することになりました。
 第四次伊藤内閣と政友会の誕生は、政党政治の可能性と限界を象徴する出来事でした。政党が政府の一翼を担う体制が制度的に確立した一方で、官僚制・軍部・貴族院といった政党政治に批判的な勢力との対立は深まり、政治の緊張はむしろ高まっていきました。政友会の誕生は政党政治の前進を示すものでしたが、その歩みは決して平坦ではなく、政党政治の成熟にはまだ多くの課題が残されていたのです。

7.第一次桂太郎内閣―日露戦争と元老制の確立

 第四次伊藤内閣が貴族院との対立によって退陣し、政友会を基盤とした政党政治の試みが一時的に後退したあと、政治の主導権を握ったのが第一次桂太郎内閣でした。明治34年(1901)に成立したこの内閣は、表向きは政友会との協調を模索しつつも、実際には官僚制と軍部を軸にした政治運営を進め、政党政治の発展を抑え込む方向へと舵を切っていきます。桂太郎は陸軍出身であり、山県有朋の強い影響下にあった人物で、政党政治に対して慎重な姿勢を崩しませんでした。政友会が議会で多数派を形成していたとはいえ、桂内閣の政治運営は政党を中心に据えるものではなく、むしろ政党の影響力を限定的なものにとどめようとするものでした。
 第一次桂内閣の政治を語るうえで欠かせないのが、元老制の確立です。元老とは、明治維新以来の国家指導者であり、天皇の最高顧問として首相の推薦権を事実上握っていた存在です。伊藤博文や山県有朋を中心とする元老たちは、政党政治が不安定であることを理由に、首相の選任を自らの判断で行い、政党の影響力を抑え込もうとしました。桂太郎が首相に選ばれたのも、元老たちが政党政治の拡大を警戒し、官僚・軍部を中心とした政治体制を維持しようとした結果でした。元老制は制度として明文化されたものではありませんでしたが、政治の実態としては極めて強い影響力を持ち、政党政治の発展を大きく制約する要因となっていきます。
 第一次桂内閣の政治運営において最も大きな出来事が、日露戦争(明治37〜38年、1904〜05年)でした。ロシア帝国との対立が深まり、朝鮮半島と満州をめぐる緊張が高まる中で、日本は開戦を決断します。戦争という非常事態のもとでは、政党は政府に協力せざるを得ず、政友会も戦時体制を支える立場に回りました。議会では臨時軍事費が可決され、政府と政党の対立は一時的に影を潜めます。戦争は政治の力学を大きく変える出来事であり、政党政治の発展を一時的に停滞させる要因となりました。
 戦争の進展とともに、政府の権限は強まり、軍部の発言力も増していきます。戦時体制のもとでは、軍部大臣現役武官制が持つ意味がより大きなものとなり、軍部は内閣の存立に直接影響を与える力を持ちました。軍部が大臣を出さなければ内閣は成立せず、軍部は政治に対して強い独立性を持つことになります。これは、政党政治に対する強力な牽制であり、軍部が政治の中心に近づく体制の始まりでした。
 日露戦争の勝利は、日本にとって大きな国際的評価をもたらしましたが、その一方で国内には深刻な問題を残しました。戦費の増大による財政悪化、戦後処理をめぐる不満、そして日比谷焼打事件に象徴される民衆の不満の爆発など、社会の緊張は高まっていきます。桂内閣はこうした不満に対応しきれず、政友会との関係も悪化していきました。政党政治の発展を抑え込む体制は、戦時には有効に機能しましたが、平時の政治運営では限界が露わになっていきます。
 第一次桂内閣の時代は、政党政治の胎動と挫折が交錯する時期でした。政党は議会を通じて政治に影響力を持ち始めていましたが、元老制・官僚制・軍部という強固な政治構造が政党の発展を阻み、政党政治は制度として成熟することができませんでした。桂太郎の政治は、政党政治の可能性を抑え込み、官僚制と軍部を中心とした政治体制を維持するものでしたが、その一方で政党は制度的な制約の中でも勢力を維持しようとし、政治の緊張はむしろ高まっていきます。
 第一次桂内閣の経験は、明治政治の構造的な問題を象徴するものでした。政党政治が発展するためには、政党内部の成熟だけでなく、官僚制・軍部・元老との関係をどのように調整するかという課題が避けて通れませんでした。政党政治の胎動と挫折、そしてその後に続く政治の緊張は、この時期の政治の本質をよく示しています。

桂太郎

おわりに

 第二次伊藤内閣から第一次桂内閣に至るまでの政治の歩みを振り返ると、政党政治が日本の政治構造の中でどのように位置づけられ、どのように揺れ動いていったのかが鮮明に見えてきます。政党は議会を足場に政治の中心へ進出しようとしましたが、官僚制・軍部・元老といった既存の政治勢力はその動きを警戒し、制度的な制約を通じて政党の影響力を抑え込もうとしました。政党が政府を担う可能性を示した第一次大隈内閣は、内部対立と制度的制約の中で短命に終わり、政党政治の未成熟さを露わにしました。一方で、政友会の誕生は政党政治の前進を示すものであり、政党が国家運営の一翼を担う体制が制度的に整いつつあることを示していました。
 しかし、政党政治の発展は決して直線的なものではありませんでした。第二次山県内閣が進めた官僚制の強化や軍部大臣現役武官制の導入は、政党政治の発展を大きく制約するものであり、政治の主導権は依然として官僚制と軍部、そして元老たちが握っていました。第一次桂内閣の時代には、日露戦争という非常事態が政党政治の発展を一時的に停滞させ、軍部と官僚制の影響力がさらに強まっていきます。政党は制度的な制約の中で勢力を維持しようとしましたが、政治の中心に立つことは容易ではありませんでした。
 この時期の政治を通して見えてくるのは、政党政治の可能性と限界が常に交錯していたということです。政党は議会を通じて政治に影響力を持ち始めていましたが、官僚制・軍部・元老といった既存の政治勢力との力関係の中で、その影響力は限定的なものにとどまりました。政党政治が成熟するためには、政党内部の利害調整や政策形成能力の向上だけでなく、既存の政治構造との関係をどのように調整するかという課題が避けて通れませんでした。
 それでも、政党政治の胎動は確かに始まっていました。政党が政府を倒し、政党内閣が誕生し、政党が全国的な組織を持つようになったことは、政治のあり方が大きく変わりつつあることを示していました。政党政治の発展は多くの困難に直面しながらも、政治の中に新しい可能性を切り開いていきました。官僚制・軍部・元老との緊張関係の中で揺れ動きながらも、政党は政治の一翼を担う存在へと成長していったのです。
 明治政治のこの時期は、制度と現実のあいだに横たわる深い溝を抱えながらも、政治が新しい形を模索していた時代でした。政党政治の胎動と挫折、そしてその後に続く政治の緊張は、日本の政治史における重要な転換点であり、現代の政治にも通じる課題を多く含んでいます。制度が整っていても、それを動かすのは人であり、その判断や迷いが政治の形を決めていく。明治の政治は、その当たり前の事実を教えてくれているように思います。

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