「11対5」で日本は正しかった——100年前、白人支配の世界秩序に真っ向から挑んだ男たちの物語
はじめに——「知らない」ことが、最大の支配である
「日本はアジアへの侵略国家だった」——戦後教育が繰り返し刷り込んできたこのフレーズを、あなたはどれだけ疑ったことがあるでしょうか。
歴史とは、勝者が書くものです。そしてその「物語」の外側に、教科書には絶対に載らない「もう一つの真実」が、ひっそりと息をひそめていることがあります。
今から107年前の1919年、日本はパリの舞台で、近代国際社会において世界で初めて「人種差別の撤廃」を国際条約に明記しようと提案した国でした。その提案は賛成11票、反対わずか5票という圧倒的多数で支持されたにもかかわらず、ある一人の男の「ゴールポスト移動」によって葬り去られたのです。
その後に何が起きたか——排日移民法、石油禁輸、そして日本を「悪の帝国」にするための歴史的な孤立化工作。偶然とは思えない出来事が、連鎖していきます。
そして、その黒幕として浮かび上がってくるのが「国際金融資本」という見えない権力の存在です。今回は、この100年以上前の「事件」を、多くの人が語らない視点から深掘りしていきます。
第一章——なぜ日本は「人種平等」を訴えたのか
世界が注目した東洋の小国
1919年1月、第一次世界大戦の戦後処理を決めるためにパリで開かれた「パリ講和会議」。この会議に参加した日本全権団は、牧野伸顕(のちの昭和天皇側近)を中心に、一つの大きな使命を帯びていました。
それが「人種的差別撤廃提案」です。
国際連盟の設立規約の中に、「すべての国民の平等、および人種・宗教による差別の禁止」を明文化しようというこの提案は、当時の世界においていかに「急進的」だったか。1919年といえば、アメリカでは黒人に対する公然たるリンチが横行していた時代です。インドはイギリスの植民地。アジア・アフリカのほとんどは、ヨーロッパ列強の「所有物」でした。
だからこそ、アメリカの黒人社会は固唾を飲んで、パリの会議の行方を見守っていました。「全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている」——当時の黒人メディアは、そう報じたといいます。
日本代表団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄ったのも理由があります。当時の世界最強国アメリカのウィルソン大統領に、事前に根回しをするためでした。「この提案に協力してほしい」——そう訴えるために、わざわざ大西洋回りではなく太平洋・大陸横断ルートを選んだのです。
このような日本の姿勢が、アジア・アフリカの被植民地の人々に「救世主」のように映ったことは想像に難くありません。
日本が「人種平等」にこだわった本当の理由
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