【教科書に載っていない世界一周】〜3-3(おまけ)「ブータン」との対比で見える「ネパール」のすごさ
○2つのヒマラヤ国家
ヒマラヤの南麓に、よく似て見えて実は対照的な2つの国があります。
ネパールは「混ざりあいながら生きのびた国」。
ブータンは「外界を閉ざして生きのびた国」。
どちらも賢い選択ですが、比べるとネパールの“強さの源”がよく見えてきます。
○ブータン:国境を閉ざしひっそりと幸せになる
ブータンは険しい地形に守られ、長く半鎖国状態を続けてきました。チベット仏教を国家の芯に据え、伝統建築や服装まで法律で保護。“国民総幸福(GNH)”を掲げ、観光も“少数ツアー”に限定。外交と安全保障は放棄しインド(かつては英国)にゆだねてきました。変わらないことを大切にする、生き方です。

○ネパール:多様性を受入れ、しなやかに生きる
ネパールは地理的にインド文明とチベット文化の交差点。多民族・多宗教が入り混じり、外と交わりながら国を続けてきました。混ざることで強くなるという発想。
外国への出稼ぎや、外国人の登山観光、水力発電の越境連携など、他国と積極的に交わることで生きる道を広げてきたのが特徴です。これができたのは、ブータンと違い強力な傭兵集団(グルカ兵、後述)がいたからです。
○対英の分岐点:戦い講和に持ち込んだネパール、退いてこもったブータン
19世紀、両国に大英帝国が侵攻します。ネパールはグルカ戦争(1814)で激戦の末に講和し、領土の4割を失ったものの、主権は守り抜きました。その後はイギリスにグルカ兵を提供し、現在まで独立を守り抜きます。
一方ブータンは英・ブータン戦争(1864)で圧倒的に敗北。失った領土は2割にすぎませんでしたが、補償金を受け安全保障は英国(その後インド)へ大きく委ねるかたちへ。
外敵への対応の違いが、その後の国の姿を分けたのです。
○ヒマラヤが鍛えた「職業戦士」グルカ兵
ネパールという国の存続をイギリスに認めさせた存在、それがグルカ兵というネパールの傭兵集団でした。ヒマラヤの険しい山々が身体を鍛え、部族社会の武士道が心を鍛え、複雑な地形が頭を鍛えたグルカ兵。
対英戦争でその勇猛さが一目置かれるようになり、英軍・印軍・シンガポール軍など200年間、各国の軍隊で傭兵として貢献してきました。
○本質的な違いは地形と宗教
対英戦争の結果生じた両国の生き方の違いですが、その元となった戦力の差はどこから生じたのか?
国土がヒマラヤ山脈に沿って東西に伸びるネパールでは、南北に伸びる険しい河川の谷毎に異なる多くの部族が乱立したため、国土は1769年まで統一がなされませんでした。そして統一後も異なる部族の間で切磋琢磨が進んだようです。
一方ブータンは高地ながらネパールほど地形が複雑ではなかったことや、仏教への信仰心による統一感情の高まりにより、100年以上早く(1634年)統一が完了しました。いち早く安定した平和な国家を築いていたことが逆に仇となり、英国が侵攻した時(1864年)には軍事的な戦力は衰えてしまっており、十分な戦闘ができなかったようです。

○まとめ:閉じて守るか、開いて強くなるか
ブータン:交わることを避け、文化と心の平穏を守る政策
ネパール:交わり取り込み、現実を受け入れ前進する政策
どちらもヒマラヤの知恵です。変わらない幸福と、変わり続ける幸福。ヒマラヤの両国の生き方の違いは、両方の価値観の違いを私たちに見せてくれます。
(トップ写真はブータンの田園都市プナカ)
