ストレスと自他の境界、そして諦念:その2
◆共生的エゴイズム
初めに、私が最近思いついた便利なキーワードを紹介したい。それがサブタイトルにもなっている「共生的エゴイズム」だ。一言で説明するならば「自分のための行動がついでに皆のためにもなったら素晴らしいよね」といった心持ちである。
重要な点は、これが慈悲や思慮を単に推奨するだけの文句ではないということだ。その本質はストレスおよび道徳的プレッシャーからの解放、そしてその持続可能性にある。
その1で述べた通り、ストレスは「自と認識しているものが他として振る舞う」ときに生まれる。この仮説をもとに、ストレスを被る可能性を減らす方法を探っていこうと思う。
まず大切なことは、"思い通りにならない領域"があると知ることである。人は往々にして、どこまでも自が続いていると錯覚してしまう。「きっとこうなるはず」といった淡い希望はこれを加速させる大きな要因となるだろう。しかし実際は思い通りにならないことの方が多数であり、自の領域は思う以上に限られている。
この世界には"圧倒的他"が特異点として存在し、私たちの想像を遥かに凌駕してくる。本当に凌駕してくるのである。だがその存在に気づくことは予想に反して難しい。だからこそ初めの一歩として「思い通りにならない領域があると知る」ことは大きな前進であると言える。この世には自分の理解の範疇を越えたものがあるのだと、要所で意識することが肝要である。
上のように述べはしたが、それとは別に、単に自の領域が狭すぎることもまた窮屈である。人は自然な本能として、自を広げようとするものだ。その手段は様々あるが、内の1つに「思い遣り」というものがある。
道徳の授業などで飽きるほど聞かされる"思い遣りの心"だが、その度に私は義務を押し付けられているかのような感覚になったものだ。いったいどうして私たちが"見返りを求めずに奉仕をするようなお人よし集団"だという前提で話が進んでいるのか分からなかった。(過激な発言)
…しかし、共生的エゴイズムの文脈においてはその限りではない。誰かの為に思い遣るのではない。他でもない、自分の為に思い遣るのだ。どういうことか。
簡単な例を出そう。Aさんはコンビニバイトを経験しており、その大変さを知っている。Aさんの友達であるBさんは経験しておらず、その大変さを知らない。
そこに共通の友達であるCさんがやってきて、今やっているコンビニバイトが大変なのだと愚痴をこぼした。その辛さを知るAさんは「わかるよ、特にあの部分が大変だよなぁ」と返す。対するBさんは「コンビニの仕事なんて単純でしょ、何が大変なのさ」と返す。さて、二人の返答は何が違うのか?
Bさんにとって、コンビニバイトの仕事内容は理解の範疇にない。普段コンビニを利用した時の簡単そうなイメージから、その内容を憶測し返答している。それに対し、Aさんはコンビニバイトの仕事内容をよく知っている。そのため、それに弱音を吐くCさんの気持ちをよく理解しており、共感と共に返答している。
要するに、AさんはCさんの中に自を見出しているのだ。Aさんはかつての自分と同じ境遇に置かれているCさんを、自分の事のように思うことができる。Aさんの持つ経験は、➀理解できないものへの暴露を未然に防いでおり、②同時にCさんへの配慮にも繋がっている。
じゃあコンビニバイトの経験をしていないBさんが良くないのかと言えば、そうではないだろう。一度きりの人生、経験したことのない事の方が多いに決まっている。誰しもがコンビニバイトを経験している訳ではない。しかしながら、その上で「推し量ること」と「偏った情報から憶測すること」は全く違う。人が持つ想像力の、似て非なる二つの面である。
時として人は、自分を大きく見せよう、誇示しようとする。それは生き物が持つ自然な本能でありながら、情報を扱う人類だからこそ暴走する部分でもある。だが、自を過大認識することは、自動的に他を自として認めること=ストレスの元に自ら飛び込むことであるため、私たちはその欲求を認め、抑制しなければならない。
私たちは賢くなりすぎた。そのために研がれ過ぎた爪もあるのだということを、私たちは知っておかなければならない。
この例から分かることは、経験が自他のストレス軽減に繋がるということだ。相手のとる行動が理解でき、相手も自身の体験を共有することができる。共感と同情が互いのストレスを減らし、あわよくば無くすこともできるだろう。だからこそ思い遣るのであり、自分の為だからこそ思い遣れるのである。相手の置かれている状況を知る、あるいは知ろうとすることは、回りまわって自分の利益になるのである。
(相手の境遇が理解できれば、現状を打開するために共に戦うこともできるだろう。…ただしこれはオプショナル。誰でもできる事ではない)
さらに言えば、ストレスに支配されずにいると、適切な判断と行動が可能になる。私も常々感じているのだが、外出してストレスが溜まっている夜などは、普段口にしない言葉を平気で言ったりする。有体に言えば、ストレスは人を狂わせるのだ。そんな自分が嫌でたまらなくなる。自分がそうなるのだから、他の人だってなるはずなのだ。
だから、心無い言葉や暴言を口にする人に接するときは、必ず「何か事情があるのかも」と思うようにしている。必死にウンコ我慢してるのかもしれんし、一概に批判できないなぁ、とか。まあこれは半分冗談だが。でもそういうことである。
だから繰り返すようだが、私たちの想像を遥かに凌駕する圧倒的他は存在するのだ。いつでもその意識を忘れないことが重要である。
そしていくら健全に自を拡大していったとしても、絶対に共感のできない他というものに出くわすかもしれない。しかしてその他と出会った時、次記事のテーマ「有意義な争い」が始まるのである。
この記事で紹介した例は、「自他境界の見極め」と「共生的エゴイズム」がもたらす恩恵のほんの一部である。共生的エゴイズムの考え方は、突き詰めていけば、あらゆるストレスを軽減する効果を期待できると私は考えている。それは、自身の精神衛生を保護しつつ、人間関係を円滑に進めるためのフレームワークとなり得るだろう。
あの日、あの時のあいつは、なんであんなことを俺に言ったのか?貴方がその答えを知ったなら、きっと世界は少しだけ善い方向に進むはずだ。
(注)哲学的な教育を受けていない一個人の意見としてお読みください。
