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【過去の苦難、鬱、自殺未遂を乗り越えて】― すべてを失いかけた僕が起業するまで。

幸せな家庭があること。
仕事ができること。
そして今、生きていること。

それは、決して“当たり前”じゃない。
僕にとっては、それはもう、奇跡みたいなものです。

なぜなら、昔の僕は「生きていたくない」とすら思っていたから。
笑った記憶なんて、ほとんどない。
毎日がただ怖くて、息を潜めて過ごしていた。

「生きること」が、これほどまでに辛いんだと知ったのは、まだ幼い頃でした。

この記事を読んでくださったあなたには、

普段なかなか意識できない“小さな幸せ”にも目を向けて、  どうか、大切な人をもっと大切にしてあげてほしい。  

そんな想いを込めて書きました。

【簡単な経歴】  
・中学3年まで父親から虐待を受け続け、幻覚・鬱を発症し別居  
・大学3回生で「母に生涯親孝行する」と決意し、大学を中退  
・トレーナー経験と上京費用のため、週7でジムとラーメン屋で働く
・1年後、RIZAPに入社し上京  
・1年目で日本一の業績を達成  
・起業し、キャリア支援事業、パーソナルトレーニング事業、人材開発事業を経営


これまでの25年間を振り返ると、「壮絶」「苦難」という言葉しか浮かびません。

第一章:“死にたい”と願ったあの日々|暴力と恐怖に支配された幼少期

楽しかった記憶なんて、ひとつもない。
これが僕の幼少期だった。


物心つく頃から、僕と母は元父から酷い虐待を受けていた。

母と一緒に殴られる日々。
家には常に“沈黙”と“緊張感”が漂っていて、
笑うことすら、許されていないような空気だった。

旅行に行っても、元父は周りの人と喧嘩ばかりしていた。

どこに行っても気が抜けなかったし、常にピリついた空気があった。
本当は楽しみたかったし、笑いたかった。
でも、“楽しかった旅行の思い出”なんて、僕の中には一つも残っていない。


家にいる時間は、まさに“地獄”だった。
何をしていても、常に息を潜めて生きていた。

ご飯の時間も、会話なんてほとんどなかった。
食卓には沈黙だけがあって、箸の音すら怖かった。

どこにも安心なんてなかった。

自分の部屋に行くことすら許されず、
少しでも言うことを聞かなければ、すぐに怒鳴られ、殴られた。

元父に対して言える言葉は、「はい」か「いいえ」だけ。

家庭って、本来は“愛”がある場所なんだと思う。
でも、僕はその愛を、一度も感じたことがなかった。

でも、父がいない夜。
母と妹と3人で過ごす時間だけが、唯一の救いだった。

何でもない日常。
テレビを見て笑ったり、ご飯を食べながら会話する時間。
その一瞬だけは、
「生きてて良かった」と思えた。
「こんな時間がずっと続けばいいのに」と、心から願ってた。

でも、父の車の音が近づいてくるだけで、空気が一瞬で変わる。
ピリッと張り詰めた空気。母の表情が曇り、妹が黙る。
笑顔が消える。言葉がなくなる。

また“いつもの時間”が始まる。

だから、僕は家に帰りたくなくて、
毎日、友達と遊ぶ約束をして時間を稼いでた。

でも門限は16時。1秒でも過ぎれば殴られる。

たった1秒でも遅れたら、殴られる。
優しさなんて一切ない。時間も感情も、すべて父の都合だった。

酷い時は、監禁されたこともある。
浴槽に連れて行かれ、髪を掴まれたまま、湯船に頭を何度も叩きつけられた。
息ができなくて、「このまま死ぬかもしれない」って、本気で思った。

必死に泣きながら、「ごめんなさい」「ごめんなさい」って何度も叫んだ。
苦しくて、怖くて、何が悪かったのかもわからなかった。
ただ、謝ることしかできなかった。

「ママ、助けて」
そう言っても、母は震えながらその場に立ち尽くしていた。
母も、同じように怯えていた。

あの時の母の表情は、今でも焼きついて離れない。
助けたくても助けられない。
僕の声を聞きながら、ただ涙をこらえていた。

あれほど“無力”を感じた瞬間はなかった。
どこにも逃げ場なんてなくて、
この世界に自分の居場所なんてないと思った。

本当に、心の底から、辛かった。

中でも、一番つらかったのは、自分が殴られる時じゃなかった。

“母”が、目の前で殴られている姿を見ている時だった。

怖くて、足がすくんで、震えるしかなかった。
声も出せないまま、ただ泣きながら、その場に立ち尽くしていた。

悔しかったし、情けなかった。
手のひらの中が血がにじむほど、必死に拳を握りしめていた。

「俺が強ければ…」

何度そう思ったかわからない。

あの時、自分の弱さを心から憎んだ。

何もできない自分が、情けなくて、悔しくて、
大嫌いだった。

何度も思った。
このまま、終わらせてしまおうかと。

夜、キッチンからナイフを持って、
静かに、元父の寝室の前まで歩いた。

枕元に立ち、息を殺しながら、
「こいつを殺して、自分も死んでやる」
そう思ったことが、何百回とあった。

もう、これ以上、母や妹が苦しむのは見たくなかった。
こんな毎日が続くくらいなら、いっそ全部終わらせたかった。

でも、できなかった。
恐怖じゃなく、
「これをしてしまったら、母も妹も…本当に壊れてしまう」
そう思ったから。

震える手で、ゆっくりとナイフを元に戻して、
何もなかったふりをして部屋に戻った。

何事もない朝が来るたびに、
自分の中の何かが、どんどん崩れていくのを感じていた。

第二章:「俺が死ねば、ママは幸せになれる」|そんな僕を抱きしめてくれた母の涙

そんな日々が、何年も続いたある日、
僕の中の何かが壊れた。

「死ねば、全部終わる」
本気でそう思った。

自分が犠牲になれば、ことの重大さに父は気付いてくれる、そうなれば母と妹への虐待は無くなるかもしれない。

小学生だった僕は、道路に飛び出そうとした。
その瞬間、母が泣き叫びながら止めてくれた。

「何でそんなことするの!」
「俺が死ねば、ママと愛(妹)は幸せになれると思った」

その時の母の顔は、今でもはっきり覚えている。
崩れ落ちて、しゃがみ込んで、泣きながらこう言ってくれた。

「あんな人と結婚してごめんね。でもママは、たかひろと愛ちゃんの味方やからね。絶対に守るから」

僕の心に、一生残る言葉。
その時の母の震える声は、ずっと忘れない。
そしてそれが、僕が「変わろう」と決意した原点になった。

第三章:母はストレスで胃に穴が空き、僕はうつ病で幻覚|発狂の地獄絵図



でも、現実は簡単には変わらない。

それでも、暴力は終わらなかった。
何をしても、どれだけ耐えても、毎日は地獄のままだった。

少しずつ、自分の中の“心”が壊れていくのが分かった。
笑えなくなって、感情が動かなくなって、ただ空っぽになる日々。
何も感じないフリをしないと、正気を保てなかった。

心も身体も、本当の限界だった。
でも、僕以上に限界に近づいていたのは、母だった。

長年、僕と妹を守りながら、
何も言わずに耐え続けてくれていた母。

ある日、母の身体に異変が起きた。

「強いストレスで胃に穴が空いていた」
医師からそう告げられた。

あの瞬間、全身から力が抜けた。

「母がここまでボロボロになっていたのに、何もできていなかった」
情けなくて、悔しくて、泣きまくって自分を責め続けた。

それでも母は、「大丈夫」と笑っていた。
弱音ひとつ吐かずに、また立ち上がろうとしていた。

僕はうつ病になり、幻覚が見え始めた。
その夜は突然やってきた。

夜中、急にガバッと飛び起きて、
訳もわからないまま、叫び声を上げていた。

今まで自分の口から出たことのないような、
何かに取り憑かれたかのような叫び声だったらしい。

「助けて」
「やめろ」
「来るな」

そのとき僕が見ていたのは
“元父に殺される”という、恐ろしい幻覚だった。

息が苦しくて、胸が締めつけられて、逃げ場がなくて。

その恐怖は、現実よりもリアルだった。

家の中を暴れまわって、
手当たり次第に物を壊して、
怒鳴って、泣いて、叫び続けた。

ドアに体当たりを繰り返し、
気づけば穴が空いていた。

当時の写真

その姿を、母が泣きながら見ていた。
何もできず、ただその場で号泣していた。

まさに、地獄絵図だった。

愛する息子が、自分の目の前で
心を壊し、暴れて、叫んで、
助けを求めているのに、何もできない——
そんな母の姿を、後から聞いて、何度も胸が張り裂けた。

しばらくして、僕はその場で気を失った。
そして、目を覚ました場所は病院だった。

そこから、入院生活が始まった。

第四章:別居という新しい選択肢|“普通の幸せ”に触れた高校時代

ようやく周りの大人たちが「もう限界なんだ」と気づいてくれて、
僕たちは父から離れることができた。

そこから始まった新しい生活。
高校に入ってからの毎日は、夢みたいだった。

母、妹、祖父母と一緒に暮らすあたたかい家庭。
笑い合える食卓。
テレビを見ながらケラケラ笑う妹の声。
“日常”が、何より幸せだった。

「これが普通の家庭なんだ」
「この時間がずっと続いてほしい」

初めて、そう思えた。

高校ではアメフト部に入り、筋トレに没頭した。
身体が強くなるたびに、少しずつ“自分”を取り戻していった。


強くなることは、僕にとって「母と妹を守る力」そのものだった。



元父と離れたあとは、ようやく暴力からは解放された。
けれど、そこで“すべてが救われた”わけじゃなかった。

生活は、一気に苦しくなった。

元父からは、生活費どころか、1円も送られてくることはなかった。
何も支えはなく、母ひとりがすべてを背負うことになった。

本業だけじゃ足りなくて、空き時間は全て内職。
昼も夜も、寝る間を惜しんで、ずっと働いてくれていた。

それだけじゃない。
離婚を成立させるための裁判のやりとり。
心を削るような書類のやりとりと、何度も通った法廷。
疲れ果てているはずなのに、母は一度も「つらい」と言わなかった。

命を削ってでも、僕と妹を守る。
その背中に、僕は何度も涙した。

暴力からは逃れられたけれど、
そこにあったのは本当の“自由な未来”ではなかった。


「母をこれ以上苦しめたくない」
その気持ちだけで、生きていた。

大学に入っても、ずっとその気持ちは変わらなかった。

第五章:起業を決めて、大学中退を決意


大学はアメフトの推薦で、奨学金を借りて入ることができた。

でも、大学3回生になったとき、
ふと自分のこれからの人生を考える瞬間があって。

「就職して、家庭を持って、幸せな人生を送る」
それって本当に“幸せ”なんだろうか?

母はどうなるんだろう。
ずっと僕と妹のために人生を捧げてきた母。
僕が普通に幸せになったとして、それで母の人生は救われるのか?

答えは、NOだった。

だったら、俺がやるしかない。
母に「この人生で良かった」と思ってもらえる未来を創る。
自分が30歳になるまでに、母にマンションをプレゼントして、僕のカードだけで母の生活を豊かにしてあげたい。
それを叶えるためには、手段として起業しかない。

そう決めた翌日、大学を辞めた。

周囲は驚いたけど、迷いはなかった。

大学を辞めると決めたとき、僕にはすでに“未来の景色”が見えていた。

・RIZAPで日本一の成績を出す。
・そして、起業して人の人生を変える会社を創る。

そのビジョンを口にしたとき、周りの反応は冷たかった。
「まだRIZAPにすら入ってないのに、何を言ってるんだ」
「就職先も決まってないやつが、何を夢見てんの」

笑われた。バカにされた。
それも何度も、何人にも。

でも、俺の中ではもう決まっていた。
「俺は絶対に成し遂げる」
その確信だけが、胸の奥で燃えていた。

当時、RIZAPの採用倍率はわずか3%。
狭き門だった。
でも、そんな数字は関係なかった。

なぜなら、僕は“覚悟の深さ”だけは誰にも負けていなかったから。

自分のためじゃない。
母のため、そして、あの日の自分のように苦しむ誰かのために。
だからこそ、僕は逃げなかった。止まらなかった。疑わなかった。

周りがどう言おうと関係ない。
自分の人生に、責任を持つのは自分しかいない。

そう信じて、全力で突き進んだ。
その日から、週7で働いて、トレーナー経験を積みながら貯金をした。

第六章:苦労の末、入社11ヶ月目でRIZAP日本一達成


1年後、ついにRIZAPから内定をいただいた。
倍率3%の狭き門を、自分の力でこじ開けた。
そのタイミングで、迷わず上京を決意した。

右も左もわからない東京。
知り合いもいない。頼れる人もいない。
でも、僕には「絶対に成し遂げる」という覚悟だけがあった。

毎日が戦いだった。
ほぼ睡眠時間は3〜4時間。
空いた時間はすべて学びに使った。
誰よりも行動して、誰よりもインプットして、誰よりも必死だった。

その代償は、身体に如実に現れた。
毎日のように全身に蕁麻疹が出て、
頭はガンガンに痛み、ロキソニンを飲みながら出勤する日々。
家では過度なストレスで、週に3〜4回は嘔吐を繰り返した。

それでも、やめようと思ったことは一度もない。
「何のために大学を辞めたんだ」
「何のために母のもとを離れて、ここまで来たんだ」

何度も、何度も、自分に問いかけて、
そのたびに、拳を握って奮い立たせた。

あの日、誰に笑われようと信じた未来を、絶対に掴んでやる。
過去の自分を救うためにも、母に恩返しするためにも、
ここで諦めるわけにはいかなかった。

そして——
入社して11ヶ月目、
僕は売上・成約率ともに、日本一の成績を達成した。

その瞬間、込み上げてきた感情は、
嬉しさ、悔しさ、感謝、全部が混ざった涙だった。

何者でもなかった自分が、
たったひとつ「信念」「覚悟」だけを持ってここまで来た。
それが形になった、初めての瞬間だった。

でも、売上とか数字よりも、
「この人に出会えてよかった」って言ってもらえる瞬間のほうが、
100倍嬉しかった。

「もっと深く人生に関わりたい」
「人の人生を本気で変えられるきっかけになりたい」

そんな想いで、2024年の11月に起業をしました。

理念は、
「愛で向き合い、感動を共に」

・キャリア支援事業
・パーソナルトレーニング事業
・在り方・自己愛・自己理解・認知科学をベースにした人材開発事業

これが、僕のすべてです。

第七章:これからの展望|人生ごと、希望を届ける存在へ

僕の人生は、間違いなく“苦しみ”から始まった。
愛されなかった子ども時代。
自分には何の価値もないと思っていた過去。
それでも、僕は変わることを選んだ。

そして今、ようやく「過去に意味を持たせる生き方」ができるようになった。
だからこそ、ここからが本当の始まりだと思っている。
「人生を本気で変える場所を創る」
その覚悟を持って、僕はこの事業を始めた。

誰よりも苦しんだからこそ、
誰よりも“本気で向き合う”ことができると信じている。

誰かの人生を変えるって、簡単なことじゃない。
でも、「誰よりも深く愛すること」はできる。
僕は、そう信じてる。

これから僕が目指すのは、
“日本一、人生好転のきっかけを与えられる会社”をつくること。

数字だけじゃない。実績だけでもない。
その人の人生にどれだけ深く関われたか。
心を動かせたか。
「この人と出会えて人生が変わった」と思ってもらえるか。
そこを本気で追い求めたい。

そしてその中心にあるのが、僕の人生の原点でもある——
「恩返し」

母に、家族に、支えてくれた仲間に、
そして、過去の自分に。

僕はこの命を、すべて“感謝を形にするため”に使っていきたい。

泣きながら生きてきた自分が、
「この人生でよかった」と胸を張って言えるように。

そして、僕の物語が、誰かの希望になるように。

必要なのは、完璧な準備じゃない。
“たった一歩の勇気”だけでいい。

その一歩を踏み出したいと願うすべての人に、
僕は、全力で向き合い、寄り添い、
人生が変わる瞬間を共に創っていく。

これからのEMOTIONは、
ただの会社じゃない。
「人生が動き出す場所」でありたい。

それが、僕の未来であり、使命です。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

僕は、もともと何かに挑戦することすらできなかった人間です。
でも、たくさんの苦しみや挫折を経て、少しずつ人生を変えることができました。

だからこそ今、もし悩んでいたり、立ち止まっている方がいたら、
その一歩のきっかけを届けたい。
心から、そう思っています。

僕とお話しすることで、ほんの少しでもあなたの人生が前向きに動き出すきっかけになれたら嬉しいです。

ご相談はもちろん、
「とりあえず話してみたい」でも大丈夫です。
下の公式LINE、またはInstagramのDMから、いつでもお気軽にご連絡ください。

                東郷 誉大

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