“描く”ことの本質とは——抽象画家としての視点から

1000×788mm 紙にミクストメディア
はじめに
わたしは現在、抽象画を専門とする画家である。しかし、画家を志した当初、つまり美術大学に在籍していた頃は、他の学生と同様に人物画や静物画、石膏デッサンといった具象表現を中心に学んでいた。将来自分が抽象画を描くようになるとは、まったく想像していなかった。
だが、いま振り返ると、すでに幼少期から“描く”ことの原点に触れていたように思う。
子どものころの「抽象画」体験
小学校を卒業する際、記念にもらった訂正印(小さなハンコ)を、画用紙に思うまま押して遊んだ記憶がある。その上に鉛筆で線を加え、意味のない形が画面に広がっていった。目的も完成形もなく、ただ夢中で「何かを生み出していた」。
その瞬間、わたしは確かに“抽象画”を描いていたのだと思う。
石膏デッサンの中に見えた「イデア」
高校時代、美術予備校で石膏像を木炭で描き続けた。あの時間は、形をなぞるのではなく、内にある“見えざる像”と向き合う時間だった。光と影の中にイデアのようなものを感じ、それを捉えようとしていたのだと思う。
それは、具象画に見えて実は抽象的な探求だったのかもしれない。
社会人になって絵を捨てかけた
美大を卒業してから10年間、わたしは筆をほぼ置いていた。会社勤めをしながら「画家」というアイデンティティを、現実の中で封印していた。だが、ある日ふとした空き時間に、メモ用紙に筆ペンで線を走らせた瞬間、体の奥から“描く”ことの歓びが湧き上がってきた。
その線は、わたしを画家へと引き戻す原点だった。
現在の制作プロセス
今は、ポストカードサイズの作品をライフワークとして制作している。まず鉛筆で無作為に線を引き、画面を「汚す」。そこに水彩で色を重ねていく。そのとき、自分が子どもの頃にやっていた「でたらめな線遊び」と、確かに繋がっている感覚がある。
偶然を受け入れ、そこに秩序を見出していく。抽象画の魅力は、まさにこの即興性と発見にある。
「描く」とは、写すことではなく、出会うこと
具象画は「写す」行為だが、抽象画は「出会う」行為だと思っている。
画面の前に立ち、一筆一筆を重ねるごとに、次に何が生まれるか分からない。完成形は見えていない。だがその不確かさこそが、“いまここ”でしか出会えない自分と世界をつなげてくれる。
描く行為の本質にあるもの
描くという行為は、人間の原初的な表現であり、自己との対話でもある。
線を引く、色を置く、そのすべてが「私はここにいる」という存在の痕跡であり、画面はそれを受け止めてくれるキャンバスだ。
完成を目指すのではなく、描くプロセスに没頭すること。これこそが、わたしにとって“描く”ことの本質である。
(執筆:河野隆尋)
