アカウントからトークンへ:ロベルト・カンポス・ネト氏が語る金融の未来とこれからの課題
はじめに
「銀行口座」という概念そのものが、時代遅れになる未来を想像できますか?
私たちは今、金融史に残る巨大な地殻変動の只中にいます。それは、単にお金を右から左へ送る「口座の時代」から、お金自体がプログラムされ、条件に応じて賢く動く「トークンの時代」への移行です。
この資料は、金融革新の最前線を走る元ブラジル中央銀行総裁のロベルト・カンポス・ネト氏の視点から、この革命の全貌を解き明かします。
なぜ便利な「Pix」があるのに、新たな通貨「Drex」が必要なのか?
AIとブロックチェーンが融合する時、銀行の融資や私たちの資産はどう変わるのか。
ステーブルコインが突きつける「ドル化」の脅威と、それに対抗する「トークン化預金」という起死回生の策。金融の常識が覆る最前線を、これから一緒に紐解いていきましょう。
1. 序論:なぜ今、金融の仕組みが変わろうとしているのか?
まず、全体の文脈を理解しましょう。これまで私たちの銀行システムは「口座(Account)」で管理されていました。Aさんの口座からBさんの口座へ数字を移動させる、これが基本です。
しかし、カンポス・ネト氏は「世界はアカウントの世界から、トークンの世界へ移行している」と述べています。
トークンとは、ブロックチェーン技術を用いて、資産(お金や不動産、車など)をデジタルデータ化したものです。これが重要なのは、単にデジタル化するだけでなく、「プログラム可能」になるからです。つまり、「もし〇〇なら支払う」といった条件を、お金自体に組み込むことができるようになるのです。
この変化の中で、ブラジルは世界でも先進的な取り組みを行っています。それが「Pix」と「Drex」です。
第1章:Pixの成功と「決済」の完成
1-1. 圧倒的なインフラとしてのPix
ブラジルの即時決済システム「Pix」は、世界的な成功事例として知られています。 資料によれば、2024年には年間630億件もの取引が行われました。これは単なるコスト削減ではなく、国民の金融アクセスを劇的に拡大させた「革命」です。
Pixの最大の特徴は、「24時間365日、即時に、安価に」送金ができる点です。これまで証券取引所などが「T+2(取引の2日後に決済)」という古いルールで動いていたのに対し、Pixはリアルタイムの流動性を社会に定着させました。
1-2. Pixはなぜステーブルコインの「壁」になるのか?
ここで面白い経済学的な問いが生まれます。「これだけ仮想通貨(クリプト)が話題なのに、なぜブラジルでは決済手段としてのステーブルコイン(デジタルドルなど)が、日常決済であまり使われないのか?」という点です。
理由は大きく2つあります。
インフラの重複(もうあるから不要): カンポス・ネト氏は、「単なる送金レール(Rail)としてなら、既にPixがあるため、ステーブルコインは必要ない」と断言しています。手数料がほぼゼロで、電話番号だけで瞬時に送れるPixがあるのに、わざわざ手間をかけてデジタルドルで送金する合理的な理由がないのです。国際送金のバックボーンとして使われることはあっても、最終的な支払いはPixで完結します。
高金利による機会費用(Opportunity Cost): ブラジルは金利が高い国です。銀行に現地通貨(レアル)を預けていれば高い利息がつきます。一方、決済用のステーブルコインは通常、金利を生みません。 カンポス・ネト氏は「金利が非常に高い通貨において、利回りのない裏付け資産(ステーブルコイン)を持つことは理に叶わない」と指摘しています。つまり、利便性のためだけにステーブルコインを持つのは損なのです。
このことから、「単なる決済手段(ペイメント)」としての勝負は、Pixによって既に決着がついていると言えます。
第2章:ステーブルコインの台頭と新興国の危機
では、ステーブルコインは無意味なのかというと、そうではありません。新興国市場を中心に爆発的に普及しています。しかし、その使われ方は「決済」ではなく、別の目的を持っています。
2-1. 「安価なドル口座」としての需要
資料によれば、ステーブルコインの成長は、自国通貨が不安定な新興国や、資本移動に制限がある国で見られます。 人々はこれを「事実上のドル口座」として利用しています。銀行で正規のドル口座を開くのは大変ですが、ステーブルコインならスマホ一つで数分でドルを持てるからです。
データを見ても、ステーブルコインの回転率は低く、決済に使われているというよりは、「貯金(価値の保存)」として保有されていることがわかります。
2-2. 中央銀行が恐れる「二つの分断」
この現象は、中央銀行にとっては悪夢のようなシナリオをもたらす可能性があります。カンポス・ネト氏はこれを深刻に懸念しています。
金融政策の無力化(ドル化): 現在、ステーブルコインの99%以上は米ドル建てです。これが普及するということは、自国の経済が「ドル化」することを意味します。人々が自国通貨を使わなくなれば、中央銀行が金利を上げ下げしても経済をコントロールできなくなります。さらに、国民がステーブルコインを買うために支払った資金は、発行体を通じて「米国債」の購入に充てられます。つまり、新興国の富が、自国の発展ではなく、アメリカ政府の借金を支えるために流出してしまうという皮肉な構造が生まれています。
信用仲介機能の分断(Credit Disintermediation): これが最も構造的な問題です。人々が銀行預金からお金を引き出し、デジタルウォレット(ステーブルコイン等)へ移動させると、銀行のバランスシートから「預金」が消えます。 銀行は預金を元手に企業へ融資(貸出)を行っています。預金がなくなれば、融資ができなくなります。これをカンポス・ネト氏は「信用機能の分断」と呼びます。 デジタルウォレットは便利ですが、「信用(クレジット)」を生み出しません。このままでは、経済成長に必要な資金循環が止まってしまうリスクがあるのです。
第3章:Drexとトークン化預金
こうした「ドル化」や「銀行中抜き」のリスクに対抗し、銀行システムを進化させるために開発されているのが、ブラジルのデジタル通貨プラットフォーム「Drex」です。
3-1. Drexとは何か?(Pixとの違い)
多くの人が「PixがあるのになぜDrexが必要なのか?」と疑問に思います。 答えは明確です。Pixは「送金」のため、Drexは「契約と資産管理」のためです。
カンポス・ネト氏は、Drexを単なるデジタル通貨ではなく、「トークン化された預金(Tokenized Deposits)」のプラットフォームと位置づけています。
3-2. 銀行を守る「トークン化預金」の仕組み
Drexの革新的な点は、デジタル資産を銀行システムの「外」に出すのではなく、「中」に取り込む点にあります。
仕組み: ユーザーがデジタル資産を使いたい時、銀行はユーザーの預金をブロック(凍結)し、それに対応するトークンを発行します。
効果: これにより、資金は銀行のバランスシート上に「預金」として留まります。銀行はこの資金を元手に、引き続き融資(信用創造)を行うことができます。
つまり、Drexは「デジタルの利便性を取り入れつつ、銀行の融資機能を守る」ための防衛策であり、進化形なのです。
3-3. 具体的なユースケース:プログラム可能性
Drexが可能にするのは「お金のプログラム可能性(Programmability)」です。資料では以下の例が挙げられています。
中古車の売買(アトミックスワップ): 個人で車を売買する際、「先に金を払うか、先に車を渡すか」という信頼の問題があります。Drexを使えば、「車のデジタル権利証(トークン)」と「代金(トークン)」をプログラム上で紐付け、「権利が移転した瞬間に、自動的に代金が支払われる」という取引が可能になります。これにより、詐欺や未払いのリスクが消滅します。
不動産とホームエクイティ: 不動産取引の決済が即時化されるだけでなく、自宅の権利をトークン化することで、それを担保にした資金調達(ホームエクイティローン)が容易になります。
第4章:未来の金融「3つの技術の交差点」
カンポス・ネト氏は、Drexの先にある金融の未来について、「現在、最も過小評価されているが、極めて強力な組み合わせ」があると述べています。 それが以下の3つの技術の交差点(インターセクション)です。
トークン化(Tokenization): 資産をデジタル化し、分割可能にする。
オープンファイナンス(Open Finance): データの開放。
AI(人工知能): データの解析とモデル化。
4-1. 中小企業融資の革命(Delandの事例)
この3つが組み合わさると、どのような革命が起きるのでしょうか。資料にあるスタートアップ「Deland」の事例が非常に分かりやすいです。
課題(過去): 中小企業(PME)は、大企業のような立派な「バランスシート(決算書)」を持っていないことが多く、銀行から融資を断られがちでした。
解決策(未来):
オープンファイナンスを活用し、企業の過去2年間の銀行取引明細(キャッシュフロー)のデータにアクセスします。
AIがその膨大な「生のデータ」を解析し、決算書がなくてもその企業の返済能力を予測する「スマートな信用モデル」を作成します。
トークン化/DeFiの技術を使い、AIが認めた信用スコアに基づいて、分散型金融のプールから直接資金を調達します。
これにより、これまで「書類がない」という理由で金融システムから排除されていた健全な企業に、資金が届くようになります。「データ」がAIによって「信用」に変わり、「トークン」として資金化される、これが次世代の金融仲介です。
第5章:DeFi(分散型金融)とこれからの課題
最後に、DeFi(Decentralized Finance)について触れます。これは銀行のような管理者がいなくても、プログラムだけで貸し借りができる仕組みです。
5-1. 銀行機能のアップデート
カンポス・ネト氏は、DeFiの技術(スマートコントラクトや流動性プール)自体は非常に有用だと認めています。しかし、それを銀行システムから切り離して放置すると、先述の「銀行中抜き」や「ガバナンス欠如」のリスクが生じます。
したがって、目指すべき未来は、「DeFiの技術を銀行システムの中に取り込むこと」です。 例えば、Drexのように、規制された環境下でDeFiの利点(自動化や効率性)を活用し、一方で銀行が持つ「信用創造機能」や「コンプライアンス(法令遵守)」を維持する形です。
5-2. 透明性とカストディ(保管)
また、デジタル資産の普及には「透明性」が不可欠です。過去のFTX破綻のような事件を防ぐため、顧客の資産と会社の資産を明確に分ける「分別管理」と、その証明が求められます。
投資家は「自分が預けた担保がどこにあるのか」を常に確認できる必要があります。この透明性が確保されれば、機関投資家などの大きな資金がさらに流入し、市場は成熟していくでしょう。
結論:金融の未来図
ロベルト・カンポス・ネト氏が描く金融の未来は、決して銀行が消滅する世界ではありません。むしろ、銀行が「トークン化」という技術をまとい、より高度な役割を果たす世界です。
決済はPixのような即時決済システムが担い、
複雑な取引や資産管理はDrexのようなトークン化プラットフォームが担い、
AIとオープンファイナンスが、隠れた信用を掘り起こして資金を届ける。
そして、これら全てが統合されることで、私たちは「デジタルウォレット(決済)」と「銀行(信用)」が分断されることなく、一つの効率的なエコシステムとして機能する新しい金融システムを手にすることになります。
「世界はアカウントからトークンへ」
この言葉が意味するのは、単なる技術の変更ではなく、経済活動そのものの摩擦をゼロにし、あらゆる価値(資産や信用)が滑らかに流通する社会の到来を告げているのです。
出典
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