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色彩を濾過する — なぜ、モノクロームで撮るのか

私たちは日々、溢れる色彩の中で生きています。目に入るものすべてに色があり、その一つひとつに意味や記号が付いてまわります。街の看板、空の青さ、人々の服の色。カラー写真は、それらを「ありのまま」に記録できると信じられていますが、本当でしょうか。

色は時として被写体の核心を覆い隠すノイズになります。鮮やかな色彩は脳を刺激し、「キレイだ」「派手だ」という表面的な反応を優先させます。そうして私たちは、目の前の被写体が本来持っているはずの、質感や、静かに佇むその存在感そのものを見落としてしまいがちです。私はこれを、カラーがもたらす「偽りの現実感」と考えます。

では、なぜモノクロームなのでしょうか。それは、決して現実を捨て去るものではありません。むしろ、色彩というノイズを濾過し、光と影だけを抽出することで、被写体と自分との間にあった余計な隔たりを取り払う行為だと思うのです

撮影の場に立つとき、私は構図を考えたり、物語を演出しようとは考えません。Olympus PenやMinolta16といったカメラを手にして、身体が反応するままにシャッターを切る。それは思考よりも先に、指先や呼吸が被写体と共鳴するリズムがあるからです。この身体的なリズムと、モノクロームの簡潔さは非常に相性がいいのではないでしょうか。余計なものを削ぎ落とせば削ぎ落とすほど、撮影という行為は「作る」ことではなく、そこにある光を受け取る「受容」への作業と変わっていきます。

モノクロームで見える世界は、たしかに日常の光景ではありません。色はなく、グラデーションの重なりだけが存在します。しかし、その「非現実」的なフィルターを通すことで、かえって対象は現実の輪郭を露わにします。言葉や説明を超えた、沈黙の向こう側にある確かな存在感が、そこには映し出されているのです。

ただ、それはカメラが勝手にやってくれることではありません。

ファインダーを覗き、被写体をじっと見つめるその行為自体が、すでに世界のノイズを濾過していく過程なのだと思うのです。色に惑わされず、意味や解釈を求めず、ただそこにある対象の佇まいと向き合うことで、自分の側にある邪念や先入観を静かに取り除いてくれるのです。そうすることで、ようやく世界が何かを見せてくれる一瞬がやって来ます。その時、自然にシャッターが押されるのです。

写真とは「何を撮ったのか」ということではなく、「何を見たのか」ということが大事なのだと思います。自分の思い込みや余計な情報をそぎ落として、世界をありのままに受け入れていく営みなのではないでしょうか。


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