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【松尾芭蕉】それは俳句の旅ではなく「遺書」だった

芭蕉とはバナナのことです。実のならないバナナ。わび・さびですね。

日本で義務教育を受けた人なら、その名を知らない人はいないでしょう。「古池やかはず飛びこむ水の音」の作者であり「俳句の聖人」。
教科書の中の、ちょっとめんどくさそうな顔をしたお爺さん。

私たちは彼の旅を、風流な「俳句を詠むための旅行」だと思い込んでいます。

しかし、その枯れたイメージの皮を剥いでいくと、中から出てくるのは「死を覚悟して、あえて危険地帯へ飛び込んだ男」の姿です。

彼は、当時の俳句界における「成功したインフルエンサー」の地位を自らドブに捨て、命がけの旅に出ました。
それは現代で言えば、「都心のタワマン暮らしを捨てて、遺書を胸に戦場へ向かう」ような、狂気じみた決断でした。

※正確には、芭蕉が生きた時代に行われていたのは「俳句」ではなく「俳諧はいかい(俳諧連歌)」ですが、本記事では分かりやすくするため、後世の呼び名である「俳句」も使用しています。
俳句の記事はこちらです。

プロの「言葉遊び師」としての挫折

芭蕉はもともと、三重県の武家奉公人でした。
しかし出世コースから外れ、俳諧の道で身を立てるために江戸へ出ます。

当時の俳句(俳諧)は、現代の私たちが思うような「芸術」ではありませんでした。
どちらかと言えば、「大喜利」や「連想ゲーム」に近い、知識と機転を競う知的スポーツでした。

「いかに上手いことを言うか」「いかに意外な単語をつなげるか」

芭蕉はこれを得意とし、江戸で多くの弟子を抱え、経済的にも安定した「宗匠(先生)」の地位を築きます。
現代で言えば、売れっ子のコピーライターや放送作家として成功したようなものです。

しかし、40歳を目前にして、彼は強烈な虚無感に襲われます。

「机の上でこねくり回した言葉は、全部嘘じゃないか?」

エアコンの効いた部屋で、Google検索で得た知識だけで書いた旅行記に、何の意味があるのか。
彼は、自分の作り出す「上手いだけの言葉」に吐き気を感じ始めました。

偉大な「亡霊」たちを追いかけて

そんな芭蕉の心を強烈に突き動かしたもの。 それは、遥か昔に旅に生き、旅に死んだ偉大な先人たちへの憧れでした。

特に彼がリスペクトしてやまなかったのが、平安時代の歌人・西行さいぎょうと、室町時代の連歌師・宗祇そうぎです。

芭蕉は紀行文『笈の小文(おいのこぶみ)』の中で、こう宣言しています。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり」

和歌も、連歌も、絵も、茶道も、道を極めた達人たちがやっていることは全部同じだ。「自然(造化)に従い、四季を友とする」ことだ、と。

「俺もそっち側に行きたい」
机上の空論ではなく、西行や宗祇が見たあの景色を、同じ風を、この肌で感じたい。
それは単なる旅行ではなく、「過去の達人たちへの聖地巡礼」であり、彼らに追いつくための修行でした。

死を覚悟した旅への出発

1684年、芭蕉はついに暴挙に出ます。
築き上げた地位、安定した収入、住み慣れた家。それらすべてを捨て、旅に出たのです。

当時の旅は、新幹線で駅弁を食べるような優雅なものではありません。
道は舗装されておらず、宿の予約サイトもなく、山賊や野犬、そして行き倒れの病気が隣り合わせにある世界です。

彼は最初の紀行文『野ざらし紀行』の冒頭で、こう詠んでいます。

野ざらしを 心に風の しむ身かな
(野原で自分の死体が骨になってさらされる。そんな覚悟を決めて旅に出ると、風が身に染みるぜ)

これはもはや旅行記の書き出しではありません。
遺書です。
彼は「生きて帰るつもり」を捨て、自分を極限状態に置くことでしか見えない「言葉」を探しに行きました。

続く『笈の小文』の旅では、憧れの西行や宗祇のように自然と一体化する境地を目指し、「旅人」としての生き方を確立していきます。

最強の“旅の相棒”と『おくのほそ道』へ

そして元禄2年(1689年)、集大成となる東北・北陸への大旅行へ旅立ちます。
これが、あの有名な『おくのほそ道』です。

実はこの年は、芭蕉が敬愛する「西行の500回忌」に当たる年でした。
この旅は、西行が歩いた東北の歌枕(名所)を辿る、壮大な追悼の旅でもあったのです。

この過酷な旅には、一人の同行者がいました。
弟子の河合曽良かわい そらです。
彼は単なる荷物持ちではありません。
旅の記録係であり、芭蕉の健康を管理し、時には議論を交わす、戦場カメラマンにとっての「最強の現地コーディネーター」のような存在でした。

この旅を通じて彼が完成させた「蕉風俳句」は、いわば「超高解像度のカメラ」です。
その特徴は、徹底的に「自分」を消すことにあります。

「古池や蛙飛びこむ水の音」を見てください。

  • 古い池がある(視覚)

  • カエルが飛び込んだ(アクション)

  • 水の音がした(聴覚)

ここには、「芭蕉がどう思ったか」という形容詞が一切ありません。
ただ、高性能なマイクとカメラを設置し、その場の「静寂」そのものを切り取って提示しているだけです。
これこそが、芭蕉が目指した「世界のありのまま」を写す境地でした。

芸術の頂点から「軽み」へ

『おくのほそ道』の旅を終えた後、芭蕉は猿蓑さるみのという句集で、芸術的な重厚さの頂点(さび)を極めます。

しかし、死の直前の数年間、彼はその頂点すらも捨て去り、突然「軽み」という新しいスタイルを提唱し始めます。
それは、あんなにストイックだった彼が、まるで「近所の好々爺こうこうや」に戻ったかのような変化でした。

「三ツ星シェフの卵かけご飯」

若い頃の芭蕉は、フォアグラやトリュフを使って「どうだ!」と唸らせるような、重厚な料理を作っていました。
しかし、人生の酸いも甘いも噛み分けた最晩年、彼はこう気づくのです。

「素材そのものの味が、一番すごくないか?」

そうして詠まれたのが、こんな句です。

木がらしに 岩で焼く鍋の 匂ひかな
(冷たい風が吹いているねえ。岩の上で焼いている鍋、いい匂いがするなあ)

これは「手抜き」ではありません。
過酷な旅を経て、孤独や死の恐怖さえも通り越した人間が、「ただ生きて、鍋を囲めることのありがたさ」を、極限まで力を抜いて描いた、「究極の卵かけご飯」のような句です。

「凄み」を消した凄み。
それが芭蕉の到達点「軽み」でした。

枯野をかける夢(辞世の句)

1694年、大阪。 旅の途中で病に倒れた芭蕉は、死の床で最後の一句を詠みます。

旅に病んで 夢は枯野を かけめぐ

身体はもう動かない。
それでも、私の魂(夢)だけは、まだあの冬の枯野を走り回っている―

最後まで、彼は「旅人」であり続けました。
定住を拒み、安定を拒み、最後の瞬間まで「まだ見ぬ景色」を求めて魂を飛ばし続けたのです。

松尾芭蕉とは何者だったのか

松尾芭蕉とは、単なる「俳句の偉い人」ではありません。

華やかな元禄バブルに背を向け、西行や宗祇といった「先人の亡霊」を追いかけ、曽良と共に道なき道を進んだ人。
そして最後には日常の喜び(軽み)へと帰ってきた人。

彼は、承認欲求や「映え」を求める心を捨て、「ただ、世界はそこにあるだけで美しい」という真実にたどり着いた冒険家でした。

現代の私たちが、SNSの「マウント合戦」や「意味のあること」ばかり求められる日々に疲れたとき。
芭蕉の句が300年以上の時を超えて染み渡るのは、彼がその虚しさを誰よりも早く駆け抜け、「ただ今日を生きる、それだけでいい」という境地に達していたからかもしれません。

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