【御伽草子】「中世のラノベ」なのかー下剋上の夢を運んだ、室町時代のショートストーリー
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御伽草子は児童文学ではない
「御伽草子」と聞くと、どこか子ども向けの昔話を思い浮かべる方が多いかもしれません。
けれども、もともとの御伽草子は、そういうものではありませんでした。
御伽草子とは、広くは室町時代から江戸初期にかけて成立した短編物語群のことです。
作者未詳のものが多く、内容も、出世、恋愛、怪物退治、異類との結婚など、驚くほど幅広い。
しかも、それらは一部の知識人だけのものではなく、より広い層に届く形で楽しまれていたらしいのです。
ただし、ここでいう御伽草子は、昔話全般と同じ意味ではありません。『一寸法師』や『浦島太郎』のように御伽草子に含めてよい作品がある一方で、『桃太郎』や『金太郎』のように、今ではよく知られていても、ふつうは御伽草子とはしない話もあります。
昔話として有名であることと、御伽草子に属することは、必ずしも同じではないのです。
つまり御伽草子は、「幼い子に読み聞かせる昔話」ではなく、むしろ中世の民衆が楽しんだ大衆向けエンタメでした。
「逆転の物語」が求められた時代
御伽草子が面白いのは、作品そのものだけではありません。
それが、どういう時代に生まれたかを見ると、急に輪郭がはっきりしてきます。
室町時代は、社会の秩序が揺れ、戦乱も続き、人びとの暮らしが不安定になりやすい時代でした。
そうした時代には、「生まれながらに恵まれた人」の物語だけでは足りません。
今は下にいる人が、逆転する。弱い立場の人が、思いがけず世界をひっくり返す。そんな話が、強く求められます。
御伽草子に、貧しい者や身分の低い者が成功する話が多いのは、偶然ではありません。
御伽草子は「下剋上の時代が欲しがった物語」でもあったのです。
「成り上がり」の快感を求めて
たとえば、御伽草子の代表作の一つ『文正草子』は、身分の低い主人公一家の立身出世と栄華を描いた作品です。
ここにあるのは、単なる成功談ではありません。
不安定な現実の中で、それでも報われたい。
今は弱い側にいても、いつか逆転したい。
そういう願いが、物語の形になっているのです。
現代でも、「底辺からの成り上がり」や「人生逆転」の物語は強い人気を持ちます。
御伽草子が今読んでもどこか引っかかるのは、この欲望のかたちが、あまり変わっていないからかもしれません。
完全オリジナル新作でなくても作れるその時代の面白さ
ここで大事なのは、御伽草子の価値が「ゼロから生み出された完全オリジナル新作」にあるわけではない、ということです。
むしろ御伽草子は、平安・鎌倉以来の物語文学の流れを受けながら、軍記物、説話、昔話、伝説などを取り込み、より多くの人が読める形に作り変えていったところに特徴があります。
つまり、あらゆる先行文学を手当たり次第に読み物に仕立てようとしたわけです。
これは、既存の題材をもとに名作を書いたシェイクスピアにも少し似ています。
元ネタがあることは、作品の価値が低いことを意味しません。
大事なのは、その素材を、その時代の人びとが「面白い」と感じる形に組み替えられたかどうかです。
御伽草子もまた、昔からある話を、室町時代の人びとにとって面白いかたちへと語り直しました。
そこにこそ、この文学の力があります。
短いからこそ広く届いた
もう一つ、御伽草子の魅力として見逃せないのが、その「短さ」です。
長大で重厚な物語ではなく、比較的短く、設定がわかりやすく、展開も早い。
だからこそ読者は入りやすく、物語の面白さにすぐ触れられるのです。
かなり雑に現代語へ置き換えるなら、御伽草子は「室町時代のショートストーリー集」と考えるとわかりやすいかもしれません。
しかもその多くは、絵とも強く結びついていました。
室町から江戸前期にかけて作られた御伽草子の多くには絵が付けられ、絵巻や奈良絵本として読まれていきます。
つまり御伽草子は、文字だけの文学ではありませんでした。
読むだけでなく、見ることもでき、語ることもできた。
そうした複数の受け取り方が可能だったからこそ、より広い層へ届いていったのでしょう。
だから、「中世のラノベ」と言いたくなる
ここまで見ると、御伽草子を「中世のラノベ」と呼びたくなる理由も、たしかに見えてきます。
もちろん、厳密に言えば同じものではありません。
御伽草子は作者未詳のものが多く、近代的な出版市場のうえで成立した文学でもなく、そこには信仰や無常観、中世独特の世界観も色濃く残っています。
ただ、短い、展開が早い、設定が強い、そして既存の人気素材をもとにしながら新しい読者へ向けて再編集されている、という点に注目すれば、現代のライトノベルやコミカライズ文化に通じるところがあるのも確かです。
だから「ラノベそのもの」と言うのは言いすぎでも、「中世の大衆向け短編エンタメ」として捉えるなら、かなり理解しやすくなります。
古典は、昔のままでは残らない
御伽草子を見ていると、古典が生き残る条件も少し見えてきます。
古いだけでは残らない。正しいだけでも広まらない。昔からある話を、その時代の人びとが「これは自分に関係のある話だ」と思えるかたちに語り直し、短くし、届く言葉に変え、ときには絵まで添える。
そうして初めて、物語は広い読者を持つのだと思います。
御伽草子は、まさにその成功例でした。
子ども向け昔話としてではなく、室町時代の社会の揺らぎのなかで、人びとの願いに届くかたちへ再編集された物語群。
そこには、下剋上の夢もあれば、昔話のリライト文化もあり、短いからこそ届く強さもあります。
だから御伽草子は、古典でありながら、今の私たちにも妙にわかってしまう文学なのです。
この記事で書いたように、古典は昔のままでは広がりません。その意味で、太宰治の『お伽草紙』はとても面白い一冊です。
昔話を近代の文章で鮮やかに読み替えていて、「語り直し」の力そのものを味わえます。
中世の御伽草子が当時の民衆のためにリライトされたように、太宰もまた戦時中の人々のために語り直しました。
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