映画『ボッカチオ'70』講義録
——欲望は誰が設計するのか
序章:現代に蘇る「デカメロン」
14世紀、ペストから逃れた若者たちが語った『デカメロン』。それから約600年後の1962年。ボッカチオが現代に生きていたら、「デカメロン」にこんなストーリーを加えるのでは?そんなコンセプトのもと、イタリア映画界の巨匠たちが集結し、「中世の欲望」ではなく「消費社会の欲望」を描いている。当時の「性の解放」と「消費社会」を風刺したのが本作である。
監督は以下の4名である。
マリオ・モニチェリ
フェデリコ・フェリーニ
ルキノ・ヴィスコンティ
ヴィットリオ・デ・シーカ
1章:巨匠たちが描く「女と欲望」
― 巨匠たちが描く欲望の四段階
第1話:マリオ・モニチェリ「レンツォルチアーナ」
労働階級の若いカップルの苦悩を取り上げたフレッシュな作品。これは「共同体内部の欲望」を描いている。まだ欲望は共同体の内部に閉じており、市場による外部化は起きていない。
第2話:フェデリコ・フェリーニ「アントニオ博士の誘惑」
禁欲主義者の博士の前に、 巨大なミルクの広告看板から、アニタ・エクバーグが飛び出してくる幻想的な一編。巨大化したアニタが纏う、身体のラインを強調したドレスとグラマラスなヘアスタイル。これは、当時の「性の象徴」としての広告文化への皮肉でもある。つまり、広告が聖像(イコン)に取って代わる瞬間を描いている。中世では聖母像が欲望を管理していた。しかし、60年代では広告が欲望を煽動する。これは宗教から資本への権力が移行している。
第3話:ルキノ・ヴィスコンティ「仕事中」
貴族階級の夫婦。夫の醜聞を知った若き妻が、自立のために「夫から愛の代償として金を取る」という皮肉なストーリー。ヒロインは全身シャネルで固めたロミー・シュナイダー。シャネルアンサンブラージュスーツが「戦闘服」であり「商品」でもあるというパラドックスが、ヴィスコンティらしい耽美な映像で綴られる。愛も身体も契約化される近代を提示し、中世の共同体倫理と完全に逆となっている。
第4話:ヴィットリオ・デ・シーカ「くじ引き」
当たりくじの景品として冴えない男の一夜の相手となってしまうヒロインはソフィア・ローレン。身体が完全に商品化される物語。これはフェリーニの「広告化」よりさらに直接的で、資本主義的欲望の最終形。
☆構造講義パート
― 欲望は誰が設計するのか
本作を単なるオムニバス映画として消費するなら、四人の巨匠による性風俗風刺の競演に見えるだろう。しかし、本講義の関心はそこにはない。問題は、欲望の管理主体がどこにあるのかという点である。
14世紀のデカメロンにおいて、若者たちはペストという死の現実から逃れ、共同体の内部で物語を紡いだ。そこでは欲望は抑圧されつつも、最終的には共同体の秩序の内部で処理される。構造は以下の通りである。
中世モデル
神
↓
教会
↓
共同体
↓
身体
欲望は超越的秩序の下に置かれ、逸脱は笑いによって回収される。身体はあくまで共同体の構成要素であり、欲望は社会の外部に流出しない。しかし1960年代のボッカチオ'70では構造が反転する。
1960年代モデル
資本
↓
メディア
↓
個人
↓
身体
ここで欲望を管理するのは神でも教会でもなく市場である。これらの転換は、単なる性表象の変化ではない。1960年代イタリア、いわゆる「経済の奇跡」によって急速に進行した消費社会化の結果である。
終章:欲望は誰のものか
中世では欲望は共同体の内部で笑いに回収された。1960年代では欲望は市場の内部で循環させられる。つまり、共同体が欲望を統治する社会から、市場が欲望を設計する社会に転換している。『デカメロン』が疫病下の共同体再生の物語であったとすれば、『ボッカチオ'70』は消費社会誕生の寓話である。
カトリック的倫理がなお残存する現代社会の「欲望」はもはや神の裁きに委ねられない。それは、広告、ブランド、メディアという新たな装置によって制御される。そしてこの構造は、現代においてさらに進化する。市場はアルゴリズムへと変化し、欲望は予測され、最適化される。問うべきは、欲望が解放されたかどうかではない。欲望が、いま誰の手の中にあるのかである。本作は、その転換点を記録した映画なのである。
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