短編小説 | 水底の送り火
夜の緩和ケア病棟は、水底のように静かだった。
ドアを開けて個室に入ると、暗闇の中、枕元の灯りだけがぼうっとついていた。バイタルモニタの規則正しい電子音が、命の灯火が燃え続けていることを知らせていた。
「少し休まれてはどうですか」
私がベッド脇に座る男性に声をかけると、彼はこちらを向かずに呟いた。
「今日の彼女は穏やかで…まるで、さよならの準備をしているみたいだ」
彼の言葉に私は何も返せず、ただ、ベッドで眠る彼の妻のバイタルを確認した。
私たちは皆、いつか旅立ちが来ることを知っている。
それでもその瞬間に立ち会うことには、いつまでたっても慣れない。
遠くで歓声が上がった。この日だけ開放されている、一般病棟の屋上からだ。
今日は八月十六日、五山の送り火。
「去年は二人で、あの屋上から送り火に誓ったんです」と、彼が不意に呟いた。
「来年も一緒に見ような、って…。今思えば、誓わなければよかった」
私の仕事に、どれほどの意味があるのだろう。
旅立つ命を前に、看護師とはいえ私はあまりにも無力だ。できることといえば、バイタルを確認し、苦痛を和らげる薬を投与し、シーツの皺を伸ばすことくらい。
彼の瞳は、後悔とも愛情ともつかない色で揺れていた。ありがとうもさよならも、きっとまだ伝えきれていないのだろう。
私は持参したポットから、彼のカップにそっと麦茶を注いだ。それが、今の私にできる精一杯。
彼は、私を見て「ありがとう」と言った。
…そうだ、私は奇跡を起こすためにここにいるのではない。ただ、この暗闇に寄り添える人になりたい。歴史には残らない、でも確かに存在していた、二人の愛情の証人になりたい。
私は病室を出て、長い廊下を歩き出した。相変わらず水底にいるみたいだ。
それでも、私は歩き続ける。ここからは見えない送り火に、密かな誓いを立てて。
