短編小説|ばらの花
朝の空に、世界が揺れる轟音が轟いた。
スマートフォンからの緊急アラートに続き、二機の戦闘機が鈍色の曇天を裂いていく。その音は、平和な日常の薄い膜を、容赦なく破り去るかのようだった。
その足元の、植物園のばら園では、手入れの行き届いた微かな香りが、壮年の藤田の立つ冷たい朝の空気をそっと和らげていた。
「ばらの花、好き…ですか?」
声をかけたのは、まるで深い闇を纏ったような、黒一色の服装の若い女性。片言の日本語が、遠慮がちに震える。藤田は静かに頷いた。
その瞬間、言葉や年齢、そして国境さえも超えた、互いの孤独を慰め合うような、静かな絆が生まれた。
藤田は熱心に日本語を教え、ユエと名乗る女性はばらの品種に込められた意味を丁寧に語った。
この日、ユエが静かに指差したのは “スヴニール・ドゥ・アンネフランク”。咲き始めの微かなオレンジから、次第に深い赤みを帯びていく複雑な色合い…それは、戦火の国の少女が持っていたであろう、未来の可能性を表現したとされるメモリアルローズだった。
「誰にでも、無限の可能性がある。私の人生は、私のものだ」
ユエはそう呟いた。その言葉の切実さが、藤田の胸を締め付けた。
ユエの静かな声の傍らで、空を切り裂く轟音は、日を追うごとに頻度を増していった。
ある朝、ユエは真剣な、しかしどこかあきらめを秘めた瞳で藤田を見つめ、告げた。
「私、国に呼ばれたから、帰るね。…ありがとう、さよなら」
藤田は、絞り出すように告げた。
「こういう時、この国では『またね』って言っていいんだよ」
ユエは初めて、心の底から微笑んだようだった。
ユエは二度と振り返らずに、遠ざかっていく轟音の方へと歩き去った。
藤田はその後も毎日、ばら園を訪れた。ユエが語ってくれたばらの花を探し、そっと花びらに触れる。
その花がユエの無限の可能性を守ってくれることを、ただ祈るばかりだった。
