真木和泉守保臣の節義。形は尊氏でも、心は楠公ならいいのだ!
「形は尊氏、心は楠公」――いやいやいや、この名言は鎌倉太守のわたし高時としてはスルーはできません。これは「蛤御門の変」直前の真木和泉守保臣の名言ですが、思わず「コナン君かーい!(「見た目は子供、頭脳は大人」)とツッコミたくもなります。今回は、おそらくわたしとは真逆なタイプのこの人物について、お話ししたいと思います。それにしても、鎌倉でぼーっと生きていると、いろいろな歴史人物についてあれこれ語りたくなってくるものです。
真木和泉守保臣、久留米生まれの尊王家
尊王攘夷派の旗手として知られる真木和泉守保臣は、文化10年(1813)、筑後国久留米の水天宮神職の家に生まれました。学問好きで、藩校・明善堂で勉学に励み、国学や和歌をたしなんだのちに江戸や水戸に遊学します。弘化元年には『新論』で名を馳せた会沢正志斎に師事し、水戸学にどっぷりつかって帰国しました。
さらに弘化4年には、野宮定祥・定功父子の案内で孝明天皇の即位大礼を拝観。これにより、真木和泉は尊王の志をさらに燃え上がらせたといいます。なるほど、わたしも後醍醐天皇に一度でも拝謁しておれば、尊王の大義に目覚めておったかもしれません。そうすれば鎌倉幕府ももう少しは安泰だったかも……いや、やっぱり無理でしたね。
嘉永5年には同志と計らって藩政改革を久留米藩主に直訴し、執政・有馬監物の排斥を試みました。しかしながら結果は大失敗。逆に藩から追い出されて蟄居を命じられてしまいます。十年近い幽閉生活を送ることになりますが、その間も「山梔窩(さんしか/くちなしのや)」と名付けた寓居で、『大夢記』『義挙三策』などを執筆。尊攘運動の理論武装に余念がありませんでした。
さらに子弟を集めて教育もしていたそうで、完全に尊王寺子屋の校長先生といった風情です。そこには筑前の平野二郎国臣や庄内の清河八郎などが出入りしました。平野はついには真木の娘・お棹と恋仲になったとか。尊王攘夷の場が青春恋愛ドラマに早変わりするあたり、歴史というのは本当に人間臭くて、つい笑ってしまいます。
士の重んずることは「節義」なり
彼の著作『何傷録』には、こんな言葉があります。
士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり
要するに、「どんなに才能や学問があっても、節義がなければ世の中では立派に生きられない。節義は人間の骨のようなもの。骨がなければ、首を上に立てることも手や足を正しく動かすこともできぬ。才能や学問があっても、節義がなければ役立たぬ。しかし節義さえあれば、多少不器用でも士であることは叶う」といった意味です。
ふむ、わたしのように御内人や御家人の首や手足は動かせても、節義の方はとんと怪しい者には、これは耳が痛い話です。いや、正直申しまして、自分の骨格も節義も、どこか曲がっている気がしてなりません。まこと、真木和泉のように筋を通せる者こそ士の鑑ということか……いやはや、参った参った。
寺田屋事件、八月十八日の政変、七卿落ち
やがて真木は、薩摩藩の大久保一蔵らと手を組んで、薩摩の国父・島津久光を担ぎいで討幕挙兵を企みます。文久2年(1862)、50歳で脱藩して上洛。しかし島津久光は、文久2年(1862)、血気にはやって伏見・寺田屋に集結した薩摩藩士に鎮撫使を派遣し、同士討ちのような惨劇が起こり、真木和泉の計画は水泡に帰します。これが有名な寺田屋事件です。真木も捕まりますが、命は助かり、その後は長州に接近します。
長州藩主には「長州一藩だけで攘夷しても勝てない。全国一丸でやるべきだ。そのためには天皇が攘夷親政を進めるしか道はない」と意見具申して採用されます。こうした勇ましい議論は、いつの時代も若者を血気にはやらせるものですね。この時代にSNSがあったら、真木和泉は間違いなく超インフルエンサーになっていたでしょう。
文久3年(1863)、真木和泉は再び上洛し、東山の翠紅館会議や学習院を通じて朝廷に献策しました。「夷狄御親征!皇政復古!大阪遷都!大艦建造!武備充実!」と、まるで将軍でも務めるかのような壮大な計画をぶち上げ、三条実美ら尊攘派公家を焚き付けたのです。
しかし、真木和泉はやりすぎました。目的のためには手段を選ばず、尊攘派公家を操り偽勅を乱発させたものだから、孝明天皇は大激怒。天皇は「攘夷は望むが倒幕には反対」とはっきりしておられましたからね。そこで薩摩藩と会津藩が仕掛けたのが「八月十八日の政変」です。長州藩は宮門警衛の任を解かれ、朝廷から出禁止となったのです。
真木和泉も三条実美ら七卿とともに長州へ追われます。しかし、彼はへこたれません。三田尻の招賢閣に身を寄せ、智将・楠木正成になりきり、周囲から「今楠公」ともてはやされます。若手志士たちから「真木先生!」と呼ばれれば、さぞやご満悦だったことでしょう。わたしなら、頭の中で鎌倉幕府再興の夢まで見そうです。
そのうえ、真木和泉は「武力をもって京都に進発し、長州の無実を訴える」と気勢をあげます。桂小五郎や久坂玄瑞ら良識派が必死に押し止めるのですが、元治元年6月5日の池田屋事件で京都の長州藩士が新選組に討たれると、長州過激派は大暴発。「藩主の冤罪を訴える」という名目で京に進軍することになったのです。
蛤御門の変。「形は尊氏、心は楠公」で どんどん焼け
こうして起こったのが「蛤御門の変」です。長州藩は伏見・嵯峨・天王山の三方面から御所を目指しますが、7月17日には男山八幡宮で大軍議が開かれています。その様子はこうあります。
是月十七日八幡に會し其進退を議し、久阪玄瑞、宍戶左馬介等は、藩主の内命もありて大阪退去を主張せしも、來島又兵衛等は京都進擊を唱へて譲らず、進擊の趣旨は、會津藩主松平容保を討つて君側を清めんとせしものの如く、眞木和泉亦進擊論に賛せりと、此時和泉は「形は尊氏でも、心さへ楠公なら」とも言へりと。
軍議で久坂玄瑞は冷静に、「軽挙妄動はやめよう」と諫めます。御所に攻め込めば朝敵になってしまいますからね。しかし、すでにイキっている来島又兵衛は聞く耳を持ちません。「卑怯者!」「医者坊主に戦がわかるか!」と久坂を罵倒。軍議は大混乱です。戦の前にいったい何をやっているんでしょうか。
しかし、そんな大混乱を収めたのが真木先生でした。
「朝廷に攻め入るという形は足利尊氏であっても、心が楠木正成であるならばよいではないか」
はっ???? 何それ、ぜんぜんよくないんですけどwww
かくして長州軍は進発します。戦の詳細は省きますが、結果は京の都は「どんどん焼け」、長州藩は薩摩・会津に敗北、完全に朝敵になってしまいました。節義や理想は尊いですが、現実を考えずに突っ走ると、こうも悲惨な結果になるのです。
しかし、尊氏も正成もこんなところで俺たちを出して来るなよ、とあの世で苦笑していたことでしょう。そういえば、わたしも鎌倉幕府の頃、御家人たちに「形だけ武士、心は何だか知らぬ」と言ったことがありましたが……いや、どうでもよい話ですね。
天王山での壮絶な最期と辞世の句
長州軍は総崩れとなり、敗走します。しかし真木和泉は長州での再挙を同志に託して、自らは天王山に踏みとどまります。その時の様子を、幕府軍側として攻めてきた新撰組の永倉新八が後年記しています。
水天宮の神主にて牧(真木)和泉と申すもの、金の烏帽子を頂き錦の下垂れを着し組下二十人計各々鉄砲を持ち一丁ほどまで押し寄せ、敵より声をかけ我は長門宰相の臣牧和泉互いに名乗られて戦いいたさん、我も徳川の旗下の者にて近藤勇と申夫より敵は詩を吟じ勝時を揚げ砲発いたし陣小屋へ引退いた、夫より追い討ちする陣小屋に火をかけ火の中へ飛び込み和泉を始め其の他不残立腹を切る、実に敵ながら討死感心なり。
永倉曰く、真木和泉は金の烏帽子、錦の装束で20人ほどを率い、鉄砲を手に新撰組の近藤勇と対峙しました。そして火中に飛び込み自刃。「敵ながら感服すべき壮烈な最期」と讃えられています。元治元年(1864年)7月21日、享年52。辞世の句はこうです。
大山の峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂
理想に生き、理想に死んだのはご立派です。しかし、わたしから見ると、「もう少し冷静にやればよかったのでは…」と思ってしまいます。
ちなみに、この天王山には自刃した真木和泉以下十七名を祀る「十七列子の墓」があります。毎年10月21日には、十七烈士招魂祭が行われ、今もその勇壮な志が語り継がれているそうです。
しかし、志は高くても、突っ走りすぎると歴史に「焼け野原」という足跡を残すことになるのだと、わたしも肝に銘じる次第です。
「骨」は立派でも「肉」がないと歴史は歩めない
真木和泉守保臣は楠木正成の熱狂的な崇拝者として「今楠公」と呼ばれました。その思想や行動は、後の湊川神社や靖国神社などの顕彰・招魂文化にも影響を与えたといえるでしょう。歴史的には立派な業績で、理想を貫いた男だったのです。
「形は尊氏、心は楠公なら」と理想に燃えて進軍した結果、京は焼け野原となり、長州藩は朝敵にされ、同志たちは散っていきました。節義は尊いですが、現実の足元を見ずに突っ走ると、こうも悲惨な結果になるのです。
真木和泉には現実を見据える知恵がほとんど伴っていませんでした。膨大な建白も名分ばかりで具体策に欠け、最後は「攘夷」「倒幕」「王政復古」と唱えるだけ。威勢がいいだけで、当時の幕末はこんな理想一辺倒で暴走する連中がウヨウヨいる、騒々しい時代だったのです。吉田松蔭も愛した、いわゆる「狂」というやつですね。
久留米藩で真木の思想を受け継いだ者たちも、維新後には「久留米藩難事件」を起こし、処刑や投獄に遭っています。御一新が成っても「攘夷だわっしょい!」の脳筋だったから、仕方がありません。
骨太な節義は立派です。しかし骨ばかりで肉が足りないと、人も国家も歩きにくい。いやはや、歴史の舞台でバランスを欠くと大怪我をするものです。
とまあ、いろいろ悪口がすぎたかもしれません。長州贔屓、久留米の方には申し訳ありません。そもそも「鎌倉を炎上させたお前が言うな!」と言われたら申し開きはできません。
ただひとつだけ最後に。真木和泉のこの骨太な節義、「狂」ともいえる信念と行動が歴史を動かしたのは間違いありません。「形は尊氏」「心は正成」の純心が御一心の捨て石になったことは確かですから、時代が必要とした人物だったとは言えるかもしれませんね。
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