北条仲時、悲劇の最期。六波羅探題陥落に慟哭、近江国番場・蓮華寺で合掌してきました
こんにちは、最後の得宗・北条高時(のなりきり)です。いつもnoteを読んでいただきありがとうございます。さて今回は、最後の六波羅探題南方・普恩寺流 北条仲時について紹介します。かつて近江国番場の蓮華寺を訪問した時の記憶も交えながら書いていきます。
普恩寺流・北条仲時について

北条仲時は普恩寺流北条氏で、第13代執権・北条基時の子です。普恩寺流は、極楽寺流の分流で始祖は北条重時の四男、第7代連署をつとめた北条業時です。業時の孫で13代執権もつとめた北条基時が普恩寺を創建したことからこの名が定着したとされています。普恩寺流は北条庶流の中でもなかなかの家格の名家でした。
仲時は元徳2年(1330)に上洛し、鎌倉幕府最後の六波羅探題南方をつとめ、摂津守護を兼務しました。元弘の乱では、大仏貞直、金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力して笠置山に篭城した後醍醐天皇を攻めています。帝を隠岐にお流しするという気を遣う難しい役割をこなしながら、護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧にも頑張ってくれました。
しかし後醍醐天皇が隠岐を逃れて再び兵を挙げると、六波羅は一転してピンチになります。攻め寄せる宮方を前に仲時は奮戦、桂川で赤松円心の侵入をよく防ぎましたが、足利高氏の思わぬ裏切りにより六波羅は最期の時を迎えます。五条橋のふもとから七条河原まで、探題館を包囲する敵は五万余騎。ここに至って北条時益・仲時は、帝と院を守護して関東に下向することを決断します。
六波羅探題陥落。妻子との今生の別れ

(京都市 六波羅蜜寺)
『太平記』は仲時が京を離れる時の様子を描いています。仲時は妻・北の方をよび、息子の松寿を連れて二人で落ちのびるように命じます。
「日来の間は、縦思の外に都を去事有共、何くまでも伴ひ申さんとこそ思ひつれ共、敵東西に満て、道を塞ぎぬと聞ゆれば、心安く関東まで落延ぬとも不覚。御事は女性の身なれば苦しかるまじ。松寿は未幼稚なれば、敵設見付たりとも誰が子共よもしらじ。只今の程に、夜に紛れて何方へも忍出給て、片辺土の方にも身を隠し、暫く世の静まらん程を待給ふべし。道の程事故なく関東に着なば、頓て御迎に人を可進す。若又我等道にて被討ぬと聞給はゞ、如何なる人にも相馴て、松寿を人と成し、心付なば僧に成して、我後世を問せ給へ。」
「道中は敵があふれ、鎌倉まで無事に落ちのびることができるとは思えない。 貴女は女性の身だから、夜陰に紛れて逃げ、田舎で世の中が静まるのを待ちなさい。もし私が討死にしたと聞いたなら、だれか良い人と再婚してほしい。そして松寿を育て、僧にして一族の後世を弔ってほしい」と涙を流して別れを告げました。これに対し、北の方は仲時の鎧の袖を引いて、涙を流しながらこう言います。
「などや角うたてしき言葉に聞へ侍るぞや。此折節少き者なんど引具して、しらぬ傍にやすらはゞ、誰か落人の其方様と思はざらん。又日比より知たる人の傍に立宿らば、敵に捜し被出て、我身の恥を見のみにあらず、少き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思の外の事あらば、そこにてこそ共に兎も角も成はてめ。憑む陰なき木の下に、世を秋風の露の間も、被棄置進らせては、ながらうべき心地もせず。」
「なんと薄情なことをいうのですか。女ひとり、子どもをつれて逃げることなどできません。道中でもしものことがあれば、そこで一緒に死にましょう。頼りにできるものも無く、 秋風のふきすさぶ世間に捨てられて、この命を永らえることなんてできません」
そう言われて、さすがに仲時も離れがたく、周囲の者もまた涙を流さない者はいませんでした。しかし、別れの時は迫ってきます。
「主上はすでに御厩の馬にお乗りになられたのに、なぜいつまでもぐずぐずしているのか」 光厳天皇に付き添っていた六波羅探題北方の左近将監 北条時益が仲時の屋敷中門までやってきて出立を促します。
南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。
仲時は力なく、鎧の袖にすがりついていた妻を振りほどくと、馬に飛び乗り駆け出します。残された人々は涙を流しながら左右に分かれて見送り、仲時は東の門から迷うように出ていきます。背後から泣き悲しむ声が遠く耳に届き、その悲しみに耐えきれず、前の道が夕暮れに沈む中、馬の歩みに身を任せて進んでいきます。これが今生の別れとお互いに悟った様は、なんとも哀れでした。十四、五町ほど進んで振り返ると、すでに六波羅の館には火が放たれ燃え上がっていました。
「戦は武士のならい」とはいえ、愛する妻子との別れは辛いもの。目頭が熱くなります……
なお、これは余話ですが、仲時の遺児・松寿は後の北条友時です。僧になることはなく、父の仇討と北条復権のために北条時行と同じように反足利の兵を挙げます。最後は捕らえられ、鎌倉龍ノ口で斬られています。いずれ友時についても紹介したいと思います。
北条仲時最期の地・番場宿の蓮華寺

北条仲時は正慶3年(1333)5月9日、京都から鎌倉へと向かう途上の近江国番場宿の蓮華寺で一族432人とともに自刃、壮絶な最期を遂げます。
かつて私は、名神高速の米原ICをおりてほどなくにある番場宿・蓮華寺を訪れました。番場宿は中山道の62番目の宿場で、中世には東山道の宿駅として栄えたところです。ご年配の方には、長谷川伸の戯曲『瞼の母』に登場する番場の忠太郎でおなじみかもしれません。
蓮華寺は聖徳太子の創建で、はじめは法隆寺と呼ばれましたが、落雷により焼失。その後、弘安7年(1284)、法然上人の法曾孫である一向上人が、領主で鎌刃城主の土肥三郎元頼の帰依を得て「八葉山蓮華寺」として再興されました。歴代天皇の尊崇も厚く、花園上皇から勅願寺院としての勅許を得て、菊の御紋を下賜されています。時宗一向派大本山の一大念仏道場として隆盛した時期もありましたが、現在は浄土宗のお寺にもどっています。

仲時らは再起を期し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を奉じて鎌倉を目指し、5月7日に番場に到着します。蓮華寺の菊の御紋のついた山門(勅使門)の脇に、「血の川」という説明書きがありました。
本堂前庭にて四百三十余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に「血の川」と称す。
いきなり『太平記』にある凄惨な有り様を想像させられ、思わず合掌しました。ここは北条高時腹切りやぐら以上のリアルさを感じます。
北条仲時以下432人が自決
番場峠まで来た仲時以下六波羅軍でしたが、行く手には山賊、強盗、あぶれ者などが一夜のうちに集まり、待ち構えていました。『太平記』によると、野伏らは伊吹山麓で出家していた先帝・第五の宮(亀山天皇の第五皇子、五辻宮家を作った守良親王?)を担ぎ出し、錦旗まで掲げていたそうです。おそらくこれを差配していたのは佐々木道誉でしょう。私の側近くに仕えてひたすらよいしょしていた道誉も、足利高氏同様に裏切ったのですから、なんとも浅ましいものです。
仲時は行幸を山へと進め、佐々木(六角)時信を後陣に、糟屋三郎宗秋を先陣に峠を越えようとしました。しかし、敵は5千の兵で難所を固めています。また、仮に命がけで戦い、敵を追い散らしても、美濃国には足利方の土岐一族、遠江国には吉良一族がいます。とても鎌倉まで辿り着けそうにはありません。

(蓮華寺 滋賀県米原町番場)
進退きわまった仲時は蓮華寺の本堂前にみなを集めます。そして最期まで付き従った者どもに「我が首を捕り、生きのびよ」と告げて腹を切ったのです。
武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。
「武運が傾き、わが北条氏の滅亡も近いと感じながらも、武士としての名誉を重んじ、弓矢の道を忘れずに生きてきた。その志の深さは言葉では到底言い尽くせない。しかし一族の運命はすでに尽きてしまった。もはや、どのようにしてその恩に報いることができるだろうか。いま、私は自ら命を絶つことで、生前に受けた大いなる恩義に報いたい。仲時は不甲斐ない身ではあった平氏一門としての名誉を背負って生きてきた。敵はきっと私の首を手に入れ、恩賞として報いるだろう。仲時の首を取って、源氏方(足利)に差し出し、罪を償い、忠義を全うせよ」
こうして仲時は自刃します。これをみた糟谷三郎宗秋は、涙が鎧の袖にかかるのをおさえ、仲時の腹に刺さっている刀を抜き、仲時の膝に抱きつくようにして自らも切腹して果てます。
宗秋こそ先自害して、冥途の御先をも仕らんと存候つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。今生にては命を際の御先途を見終進らせつ。冥途なればとて見放可奉に非ず。暫御待候へ。死出の山の御伴申候はん。
糟屋宗秋は相模糟谷荘(現在の神奈川県伊勢原市付近)を治めた御家人で、六波羅探題検断方として仲時を支えていた。彼だけでなく432人悉くが仲時とともに自害して果てたのです。仲時がどれだけ徳のあるリーダーだったかが伺い知れますね。その中には後醍醐天皇の隠岐脱出を許し、自責の念にかられていたであろう佐々木清高(隠岐判官)父子もいました。
北条仲時、享年28。この将に率いられた北条武士に弱卒、卑怯者などいるはずがありません。
血は其身を浸して恰黄河の流の如く也。死骸は庭に充満して、屠所の肉に不異。彼己亥の年、五千の貂錦胡塵に亡び、潼関の戦に、百万の士卒河水に溺れなんも、是にはよも過じと哀なりし事共、目もあてられず、言に詞も無りけり。
血はその身を染め、まるで黄河の流れのようでした。死体は庭いっぱいに満ちあふれ、まるで屠殺場の肉と変わらぬ有様でした。あの己亥の年の戦いで、五千の貂錦(高貴な身分の兵)が胡人の塵(異民族の軍勢)に滅ぼされ、また潼関の戦いで、百万の兵士が河水に溺れたという話も、これには到底及ばないでしょう。あまりにも悲惨な出来事であり、目も当てられず、言葉もありません。
この有り様を見た蓮華寺の住持の同阿上人は、仲時らを憐れんで一人一人に戒名を与え、その名を過去帳をつくりました。これにより仲時主従の壮絶な最期が克明に伝えられたというわけです。
このみ寺に、仲時の軍やぶれ来て……

(蓮華寺 滋賀県米原町番場)
蓮華寺の境内には斎藤茂吉の歌碑がありました。茂吉の恩師・佐原窿応が蓮華寺49世住職になった縁でここを訪れ、短歌を残してたそうです。
このみ寺に、仲時の軍やぶれ来て、腹切りたりと聞けば悲しむ ……松風のおと聴く時はいにしへの聖のごとく我は寂しむ
北条仲時らの供養塔は境内の右手奥、山へと続く参道をあがっていったところにありました。これらは近代になり整備されたものだそうです。墓碑の周りには紅葉が生い茂っていました。きっと秋には、この一帯を鮮血のように真っ赤に染めるのでしょう。

(蓮華寺 滋賀県米原町番場)
仲時は六波羅探題南方として完全アウエイな中、北条と鎌倉のために戦いました。最後まで私に忠義を尽くし、郎党とともに散った姿は北条武士としての矜持を感じます。ただただ感謝し、手をあわせることしかできませんでした。
ちなみに、北条仲時の墓は近くの「六はら山」にあるらしいです。なんでも江戸時代に彦根藩 井伊の殿様が、馬に乗って蓮華寺を参拝した日の夜「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と、仲時に夢の中で叱責されたことから、山頂に仲時の墓だけ移転したそうです。

蓮華寺本堂には宝物室があり、志納で拝観できるらしいです。ただ、今回は事前の調べもなく訪問したため、そうとは知らずお宝を見ずして、蓮華寺を後にしてしまいました。宝物室には、自刃した北条方の将士を記す「陸波羅南北過去帳」(重文)のほか、「北条仲時公肖像」「仲時所持の長刀」「仲時所持の鑓」「仲時護持の塔」などがあるらしいです。
なんたる不覚……
そんなふうに自分を責めていると、どこからともなく「大守、お久しぶりです。またお越しください」と、仲時の声が聞こえてきたような気がしました。次回は、秋に訪れようと思います。
いいなと思ったら応援しよう!
投げ銭、お布施、ありがとうございます。これを励みに明日もnoteを書きます!