戦後80年。なぜ大勢の北海道の方々が戦地へ亡くなったのか。
あなたは知っていますか。
太平洋戦争の末期、北海道から一万八千三百三十八人が、沖縄の地上戦に参加したことを。
当時、北海道すべての市町村から兵士が送り出されました。
その中には、樺太や千島列島、満州から動員された人々もいました。
そして――そのうち一万八百五人、十代の若者を含む多くが、二度と故郷へ戻ることはできませんでした。
なぜ、北の果てに暮らす人々が、南の果ての沖縄まで送られなければならなかったのか。
なぜ、北海道からこれほど多くの兵士が動員されたのか。
その答えは、私たちが普段あまり語らない、北海道の歴史の中に隠されています。
旭川に置かれた第七師団は、ロシアの脅威から北を守るための部隊でした。
日露戦争の勝利によって、日本は南樺太と満州南部の権益を手にします。
そこで第七師団の兵士たちは、樺太や千島列島、そして満州にも駐屯し、北方の守りを担っていました。
しかし、第二次世界大戦。
戦況が悪化し、沖縄で地上戦が始まると、日本軍は兵力不足に陥ります。
そのため、本来は北方を守るはずの兵士までもが、南の沖縄へ送られることになったのです。
沖縄戦は、弾が飛び交う激戦であっただけではありません。
兵士たちは食糧の不足に苦しみ、飢えで力尽きました。
水もなく、傷を負っても薬も包帯もありませんでした。
銃弾で負った傷口は膿み、腐敗し、やがて感染症を引き起こし、命を奪いました。
腕や脚を切り落とさねばならない兵士もいました。
死の多くは、銃弾に加えて飢えと病、そして傷の放置によるものでした。
通信兵、工兵、衛生兵、そして従軍看護婦も同じ戦場に立ち、
同じように過酷な運命に飲み込まれていきました。
こうして北海道からは一万八千人を超える兵士が沖縄戦に参加し、
一万余の命が失われました。
樺太や千島、満州からの部隊も同じように沖縄へと動員され、
多くが還らぬ人となったのです。
なぜ北の兵が南の果てで命を落とさねばならなかったのか。
その答えは、戦争が国のすべてをのみ込み、人々を翻弄した歴史の中にあります。
戦後八十年。
いま私たちは恥ずかしくない生き方をしているでしょうか。
平和に暮らせるこの北海道の大地は、
その犠牲の上に成り立っているのです。
