僕のキャリアは、逃げた跡でできている
研究から逃げた。
エンジニアリングから逃げた。
転職先から逃げた。
外資コンサルの王道キャリアからも逃げた。
こう書くと、ずいぶん情けない人生です。
でも最近、その逃げ道を振り返ってみると、ただの敗走ではなかったのかもしれないと思うようになりました。
僕は何かを成し遂げるために、一直線に進んできた人間ではありません。
むしろ、「ここには居られない」という違和感に何度も突き動かされながら、その場を離れてきました。
逃げるたびに、自分には何も残っていない気がした。 けれど、逃げたあとにしか見えないものもありました。
これは、立派なキャリア論ではありません。
どこかにうまく適応できなかった人間が、それでも世界と折り合える場所を探し続けた跡の話です。
研究から逃げた
高校時代、僕は理系を選びました。
理由は、テストで点が取りやすかったからです。
薬学部を志望したのも、数IIICが不要だったからでした。
いま思えば、すでに逃げ始めていました。
得意なものを選んだというより、苦手そうなものを避けていた。
自分の興味に従ったというより、失敗しなさそうな道を探していた。
結果的に、化学だけで受けられる都立大の応用化学科に引っかかり、そのまま入学しました。
大学の授業は、驚くほどわかりませんでした。
話の展開についていけない。
ただ、わからない。
クラスメイトたちは、少なくとも僕よりはずっと自然に、そこに馴染んでいるように見えました。
僕だけが、壁の向こうから、化学という世界を眺めているような感じがありました。
4年生になり、研究室に所属しました。
先生や先輩が喜ぶような実験データが取れることもありました。
でも、そのときに感じたのは、喜びというより安心でした。
よかった。怒られなかった。今日はなんとか乗り切れた。
そんな感覚です。ワクワクはしませんでした。
そもそも、化学の実験に付きものの、マイクロ単位の粉や溶液を量る作業がとても苦手でした。
手元の細かさに、神経を張り続けなければならない。
自分の身体が、少しずつ丸まっていく感覚がありました。
それでも、周りに流されるように大学院へ内部進学しました。
大学院1年の夏、「企業のR&Dは、大学の研究とは違うかもしれない」と思い、化学メーカーのインターンシップに参加しました。
社員の皆さんは、親切で、気の良い方ばかりでした。
でも、仕事の手触りは、研究室と大きく変わらないように感じました。
やっぱり向いていないかもしれない。
僕は、研究から逃げました。
エンジニアリングから逃げた
就職活動では、プラント建設の会社を志望しました。
研究室の細かな作業ではなく、海外の僻地に巨大な設備を建てる。
プロジェクトマネジメントを生業にしているらしい。
それは、当時の僕にはとても魅力的に見えました。
無事に内定をもらったとき、僕はこう思いました。
「これで理系から足を洗える」
でも、入社して2、3年が経ったころ、ようやく気づきました。
この会社でいちばん尊敬されるのは、技術を深くわかっている人たちなのだ、と。
考えてみれば、当然です。
プラントは、流体、配管、電気、土木、機械、計装など、さまざまな技術要素の集合体です。
現場で起きる問題は、ひとつの領域だけでは解けません。
複数の専門性が絡み合い、そこに契約や工程やコストが重なります。
問題解決が遅れると、数億円、数十億円があっという間に吹き飛ぶ。
だから、技術がわかる人が頼りにされる。
複雑な状況を見て、どこが危ないのか、何を押さえるべきなのかを判断できる人が強い。
僕も、プラント建設の仕事が嫌いだったわけではありません。
いろんな専門のエンジニアと話すこと。 いろんな国籍の人たちと、わいわいがやがや進めること。
巨大なものが少しずつ形になっていくこと。
そういう瞬間には、たしかに面白さがありました。
でも同時に、自分がその中心に立てるイメージはありませんでした。
ここで強くなるには、技術をもっと深く学ぶ必要がある。
問題の構造を、技術から語れなければならない。
理系から逃げたつもりで入った場所は、当然のように、理系の知性が深く尊敬される場所でした。
楽しい瞬間はある。
人にも恵まれている。
でも、この世界で突出した存在になるイメージが持てない。
そう感じて、入社5年目の秋に退職しました。
こうして僕は、エンジニアリングから逃げました。
転職先から逃げた
とはいえ、自分が何をしたいのか、何ができるのかは、まったくわかりませんでした。
そこで僕は、経営コンサルに転職することにしました。
とりあえずコンサルに行けば、将来やれることが広がるのではないか。
いま思うと、ずいぶん曖昧な理由です。
でも当時の僕には、それくらいしか手がかりがありませんでした。
入社した会社で任されたのは、クライアントの総務部の代わりに相見積もりを取り、単価交渉をするような仕事でした。
もちろん、それも必要な仕事です。
クライアントにとって価値がないわけではありません。
ただ、僕が想像していた「経営コンサル」とは大きく違っていました。
加えて、上司からも評価されませんでした。
同じ部署には、僕より年下のメンバーが3人いました。
彼らはその上司に認められ、次々とマネージャーに昇格していきました。
僕だけが、取り残されているように感じました。
焦りと不安が、日に日に膨らんでいきました。
何が悪いのか。
何を改善すればいいのか。
どうすれば認められるのか。
努力の方向が見えないことは、こんなにも怖いのかと思いました。
できないなら、まだいい。
何をすればいいかわかれば、頑張れる。
やがて僕は、休職しました。
これは、僕のキャリアの中でも、かなりはっきりした挫折でした。
研究者にもなれなかった。
エンジニアにもなれなかった。
コンサルにもなれなかった。
自分は何者にもなれないのではないか。
そんな感覚がありました。
こうして僕は、最初の転職先からも逃げました。
キャリアの危機から逃げた
休職期間中、僕は転職サイトを使って、手あたり次第に応募しました。
約50社に応募して、約10社と面接しました。
結果は、続々と不合格。当然といえば当然です。
僕には、わかりやすい実績がありませんでした。
自分の強みを、うまく説明することもできませんでした。
そもそも、何がしたいのかもよくわかっていませんでした。
それでも、なぜか外資系のコンサル会社から内定をもらいました。
転がり込むように入社しました。
配属されたチームでは、PMOのようなTo Do管理の仕事が中心でした。
贅沢を言える立場ではありません。
拾ってもらえただけでもありがたい。
でも、正直なところ、かなり退屈でした。
内定をもらえたのも、本当に誰でもよかったのかもしれない。
そんなふうに感じていました。
仕事は忙しくなく、暇な時間も多くありました。
業務時間中にカフェで本を読んだりしながら、ぼんやり過ごす日もありました。
このままでは、何もできないおじさんになってしまう。
31歳になっていた僕は、焦っていました。
休職から逃げるように転職した。
でも、次は「何もできないまま歳を取ること」から逃げなければ。
そんな感覚でした。
所属していた部署では、希望すればチームを異動できました。
僕は、激務で知られるストラテジーチームに手を挙げました。
リサーチも、スライド作成も、ほとんど経験がありませんでした。
また休職することになるかもしれない。
そんな予感もありました。
でも、このまま何もできない自分でいる方が怖くて、半ばやけくそでした。
外資コンサルの王道キャリアから逃げた
ストラテジーチームの仕事は、意外にも自分に合っていました。
最初のプロジェクトから評価され、少しずつメンバーからも頼られるようになりました。
リサーチをする。
構造を整理する。
資料に落とす。
議論の筋道をつくる。
そういう仕事に、自分の頭が噛み合っていく感覚がありました。
もちろん、最初から何でもできたわけではありません。
資料の作り方も、リサーチの仕方も、論点の立て方も、何度も直されました。
でも、不思議と嫌ではありませんでした。
やっと、自分にもできることがあるのかもしれない。
そう思えたことは、当時の僕にとってかなり大きなことでした。
ただ、しばらくすると、別の違和感が出てきました。
そのチームは、1〜3か月の調査、分析、資料作成をぐるぐる回し続けられる人が偉くなれる世界でした。
短期間で論点を整理し、仮説を立て、情報を集め、資料にして、報告する。
それは高度な仕事で、「できる人」たちは、本当に優秀でした。
でも僕は、次第に思うようになりました。
これは本当のところ、誰の何の役に立っているのだろう。
資料はきれいになっていく。
分析も鋭くなっていく。
評価もされる。
でも、その先で、人や組織が本当に動き出している感覚が薄い。
自分の仕事が、誰かに繋がっている感じがしない。
評価されるようになってきたのに、手応えがない。
この違和感は、研究室やプラント建設や前職で感じたものとは少し違っていました。
できることと、居られることは違う。
評価されることと、自分が活き活きすることは違う。
そして僕は、外資コンサルの王道キャリアからも逃げました。
逃げ続けた結果
いま僕は、組織変革の仕事をしています。
人や組織が、自分たちの意志を取り戻していく瞬間に立ち会うことがあります。
誰かが、自分の言葉で「本当はこうしたい」と話し始める。
それまで止まっていた場が、少しずつ動き出す。
諦めの空気が漂っていた組織に、もう一度考えてみようという気配が戻ってくる。
そういう瞬間があると、僕は不思議と疲れません。
もちろん仕事なので、しんどいことはあります。
思うようにいかないこともあります。
人と組織に向き合う仕事は、きれいごとだけではありません。
それでも、少なくともそこには、「ここではない」という強い拒否感がありませんでした。
研究から逃げた。
エンジニアリングから逃げた。
転職先から逃げた。
外資コンサルの王道キャリアからも逃げた。
そのたびに、自分は根性がないのだと思っていました。
何かをやり切れない人間なのかもしれないと。
でも、いま振り返ると、少し違う気もします。
僕はたぶん、居られない場所から逃げていたのだと思います。
そこから離れることは、ただの敗走ではなかった気がします。
逃げるとは、自分に合わない場所を手放すことでもある。
自分らしく生きるための、切実な脱出でもある。
僕のキャリアは、逃げた跡でできている。
「ここではない」と思った場所から離れ続けた結果、ようやく「ここなら、自分のままでいられるかもしれない」と思える場所が見えてくる。
だから僕は、逃げてきた自分を、許してやりたいと思っています。
