9月28日発売!大阪のメインストリートのご当地怪談『御堂筋線怪談』から1話試し読みを公開中!
1話試し読み
淀屋橋 ― 豪商の怨念と消えた貸台帳
御堂筋線・淀屋橋駅の改札を抜けると、そこには日本でも指折りの重厚なビジネス街が広がっている。
日本銀行大阪支店、三井住友銀行大阪本店、名だたる証券会社のビルに石造りの官公庁の建物。
そんな御堂筋の銀杏並木の下を、スーツ姿の人々が足早に行き交っている。
この街の名の由来は、土佐堀川に架かる「淀屋橋」。
江戸時代、橋の南詰に広大な屋敷を構えた大坂随一の豪商・淀屋が、自らの米市の利便のために私費を投じて架けた橋だ。
幾度かの架け替えを経て、現在の橋は国の重要文化財に指定されている。
初代・淀屋常安は山城国の出で、大坂の陣を機に材木商として頭角を現し、中之島の開拓という大事業を成し遂げた。二代目の頃には、諸藩の蔵米販売を一手に引き受ける大商家へと成長し、屋敷の前では日々、巨大な米市が立った。
井原西鶴が『日本永代蔵』に「北浜の米市は、日本第一の津なればこそ」と記した賑わいで、やがて淀屋は世界初ともいわれる米の先物取引の仕組みを生み出し、堂島米市場の土台を築いた。
だが、その富の頂点で、宝永二年(一七〇五年)、すべてが暗転してしまう。
幕府は五代目・淀屋辰五郎に対し、町人の分限を超えた驕奢な暮らしを理由に、闕所・所払(けっしょ・ところばらい)、つまり全財産没収のうえ追放を命じたのだ。だが大坂の町では、別の理由が囁かれていた。
諸大名が淀屋に負っていた、天文学的な額の借金が理由ではないか。借りても返せぬのならいっそ……と、踏み倒すためにあんなことをしたのではないか、と……。
淀屋の資産は金銀、土地、米蔵、千石船、そして将軍家や諸藩への貸付金を合わせ、一国が買い取れるほどだったと伝わっている。淀屋を歴史から消してしまえば、大名たちの名が連なる貸台帳も、なかったことになる。
金に困って借りておきながら義理も人情もない。何が武士道だと、商人の町である大坂では様々な噂が飛び交った。
そして、淀屋が財産を差し押さえられて、屋敷を追われた朝のことが、伝承めいた話として残っている。
金銀にも家財にも執着を見せなかった辰五郎が、帳場に積まれた貸台帳だけは返してくれと繰り返した。そこには金額だけではなく、金を借りた者の名と、返すと誓った日が記されていたからだ。
だが台帳は一冊も戻されなかった。没収された財のうち、金銀や土地の行方は記録に残っているのに、あれほどの数があったはずの貸台帳だけは、どこへ運ばれたのか、確かな記録が残っていない。
辰五郎は故郷の山城国八幡へ追われ、「下村古庵」と名を変えて没した。貸台帳の行方を、最後まで気にかけていたそうだ。
あまりの理不尽に大坂の町は騒然とし、わずか三年後には、近松門左衛門が浄瑠璃『淀鯉出世滝徳(よどごいしゅっせのたきのぼり)』を竹本座にかけた。
八幡の豪商・江戸屋勝次郎が、馴染みの遊女・吾妻を身請けし、諫める奉公人の夫婦を踏みつけにして遊興に溺れる話で、お上を憚って名前こそ変えてあるものの、勝次郎が誰のことなのか、わからぬ者は大坂に一人もいなかった。しかも「八幡の豪商」とは、当の辰五郎が追われて住んだ土地の名である。
題名の「出世の滝登り」は、鯉が滝を登れば竜になるという故事に因む。
つまり、落ちぶれた豪商が、いつか竜になって戻ってくるという希望と幕府への批判を込めた物語だったのだ。人々は口に出せぬ中央への反発を、その舞台への拍手に変え、芝居小屋に幾度も足を運んだ。
そして淀屋橋には今も、こんな噂話が残っている。
橋の上を、ぼんやりとした足取りでふらふらと歩く男がいる。
その姿は落語家のような身なりで、寄席の帰りか何かかな、と周りの人が顔を見ると、そこには目だけがない。
男は、金の悩みを抱えた者の前にだけ姿を見せるそうだ。
そして、目の無い目で見られた、と思ったときには、何かに足首を掴まれている。
驚いて身を屈めると、男の姿は消えていて、ただ足首にだけ、濡れた泥の指痕が五つ残っているという。
ある人は、足首を掴まれた直後に、借金の保証人になっていた相手の会社が倒産し、負債が自分に被さってきたことを知らされたそうだ。
株価の暴落で財を失った、身に覚えのない横領の責任を取らされた、振り込め詐欺の被害に遭った……。そんな人が夜更けに淀屋橋の辺りを歩くとこの目の無い男が現れるそうで、人によってはあれは変わり果てた淀屋の誰かなのではないかと感じることがあるらしい。
それとは別に、こんな話も残っている。
昭和の初め頃、現在の橋への架け替え工事に先立ち、橋脚の補修点検に潜った潜水夫の話が残っていて、重い潜水服を着込み、濁った土佐堀川の底へ降りていった男は、まず音を聞いた。
それは泥の下のどこかからか聞こえてきており、そろばんの珠を弾くような音で、水の中ではありえない、乾いた音だったそうだ。
音を辿るように橋脚の根元へ近づくと、覗き窓の先、濁りの向こうに、白っぽいものがいくつも見えた。
最初は、沈んだ木の根か、流れ着いた芥(あくた)の類だと思ったが、灯りを寄せると、それは指だった。
泥の底から、手が突き出ていたのだ。
一つではなく、橋脚の周りをぐるりと囲むように、数え切れないほどの手が、折り重なって生えていた。
節くれ立った年寄りのような手もあれば、子供のような小さな手もあった。
どの手も動いてはおらず、ただ、じっと見ていると、指先だけが、泥を撫でるようにかすかに蠢いた。
手の輪の真ん中あたりだけ、泥の色が違っていて、長方形に、そこだけ黒く沈んでいた。
それは、帳面ほどの大きさだった。
無数の指先は、その縁に触れるか触れないかのところで止まっていた。守っているのか。それとも、掘り返そうとして、掘り返せずにいるのか。
潜水夫は命綱を引いて合図を送り、水面へ逃げ戻った。震えながら一部始終を話すと、親方は驚かず、ただ一つだけ質問を行った。
「何本あった」
潜水夫は答えられなかった。数えようという気すら、起きなかったからだ。
親方はそれ以上、何も訊かなかった。
「明日、もう一遍確かめてこい」
翌朝、同じ場所に潜ると、平らな泥が広がっているだけだった。
手も、帳面ほどの黒い染みも何もなく、夢でも見たのかと思うほど、川底は静かだった。
親方は、それきり誰が聞いても何も言わなかった。
昼の淀屋橋には、人と車の流れが絶えない。だが深夜、銀行街の灯が落ちる頃、欄干から黒い水面を覗き込んだ者が、街灯の反射に混じって、おかしなものを見ることがあるという。
水底で、無数の手のひらが、一斉に開くのだそうだ。
手のひらは、どれも上を向いている。
それは、差し出されたものを、受け取る形である。
―了―
この話が収録される文庫本(9月28日発売)
御堂筋線怪談 (竹書房怪談文庫)

著:田辺青蛙、宇津呂鹿太郎、最東対地、渡辺裕薫
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シリーズ好評既刊

メトロ怪談 (竹書房怪談文庫)
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