モバゲータウンの中にいた、青い春と青い僕。
中学生三年生の春、僕の恋はログインした。出会った場所は、実在しない街――モバゲータウン。
年代でいうと二千年代の前半。校庭の隅では蝶がひらひら舞い蛙がげこげこと鳴き始めた、訳ではないけれど、学年が変わって新しい季節になったことは、どことなく緊張した空気の匂いから感じることができた。満開ではなくまだ咲きかけていた桜は、僕自身と重なって見えた。
中学生三年生の春は受験勉強で慌ただしくなり始めるスタートライン。そんな時期だったのに、僕のまわりでは恋人を作る友達が急激に増えていた。それは部活を引っ張っていく世代として憧れの眼差しを持たれるようになったことや、その部活での責任を終えた開放感もある。そして、受験という重圧を共に分かち合うパートナーを求めるなど、理由は様々だった。
僕は当時、囲碁部だった。囲碁漫画ブームの影響で部員数は多かったものの、野球部やサッカー部と肩を並べるほど活躍はしていない。むしろ、そこは運動部にドロップアウトした人達の掃き溜めのような場所だった。そもそも引退する概念はなく、ただ毎日ゆるく囲碁をしたり、座るはずの部室の座布団をぶん回してはしゃいだりと、神の一手を極めることもなく自由気ままに過ごしていた。
しかし、受験が迫ることで部室へ来る友達も次第に少なくなった。そんな状況でも、なかなか受験勉強に本腰が入らない僕。男しかいなかった囲碁部で異性との出会いがある訳もなかった。恋人なんてどうせ自分とは関係がないもの。僕はどんどん引っ込み思案になっていった。
当時はまだスマートフォンが普及しておらず、二つ折りのガラパゴス携帯、通称"ガラケー"が主流だった。受験勉強で忙しくなる中、僕は反対にガラケーの小さい画面で娯楽を探し求めていた。前略プロフィールで自分を紹介して自己主張。魔法のiらんどで自分のホームページを作って自己防衛。そんなときに僕が一番にハマったSNSがある。それがモバゲータウンだ。
今はXやInstagramが流行っているけれど、それらの先駆けとなったソーシャル・ネットワーク・サービスであるモバゲータウン。通称"モバゲー"。そこでは自分の分身であるアバターを作って、見ず知らずの誰かと学校のことや趣味などについて相手とコミュニケーションをとることができた。現実では不調だった僕はモバゲーが作る仮想現実にのめり込んでいった。
そこでは自分の本名ではない仮の名前、ハンドルネームをつけることができた。僕は当時憧れていた恋愛ソングを歌うバンドのボーカルから名前を拝借して"洋次郎-X"と名乗っていた。僕じゃないもう一人の僕。それは千年アイテムを組み立てなくても簡単に作ることができた。現実とは反比例して、洋次郎-Xとしての存在はどんどん活発になっていった。そんなとき僕はモバゲーで一人の女の子に出会う。
それが、あいみちゃんだ。
あいみちゃんは僕と同じ中学三年生。熊本県に住む女の子だった。アバターは黒髪ロングでぱっちりな目。清楚な見た目が印象的だった。三頭身だったけど。モバゲーでのやりとりはすぐに弾み、気づけばメールアドレスを交換していた。画面越しの文字のやりとりが、いつの間にか一日の楽しみになっていた。
僕はあいみちゃんと日常の出来事や悩みを毎日のように共有し合った。受験シーズンという心が不安定になる時期にお互いが心の支えになっていたのだと思う。夜更かししながら他愛もないメールをいつまでも送り合っていた。二人はいつしかお互いに惹かれ合った。そしてどちらがともなく恋人の関係になった。もちろん、会ったことなんて一度もない。でも、確かに僕らはお互いを想っていた。僕にとって、そしてあいみちゃんにとっても初めての恋人。本当の顔も知らない画面越しのきらきらしたアバター。だけど、それがあいみちゃんの全てだった。
次第に二人の気持ちは強くなった。そう、会ってデートがしたくなったのだ。しかし、当時の僕は関東に住んでいてあいみちゃんが住む熊本の九州との距離は簡単に越えられるものではなかった。僕たちはどうにかしてこのもどかしさを解消したかった。そんなとき、あいみちゃんから可愛い提案がメールで届く。
「ねえ、文字でデートをしましょうよ」
僕たちはインターネット上に文字だけでデートをすることを思いついた。それを二人は"文字デート"と呼んだ。文字デートは行き先を決めてそこへ行った気分になった想像をして、感想をメールでお互いに送り合うというもの。実際にデートをした気分になれる何とも幼い発想だ。
行き先はいつだって自由だった。近所の公園。動物園や遊園地。日本を飛び出して世界各地の名所。すべて文字だけでつくる、僕たちだけの世界。現実にはない二人きりの時間がそこにはあった。
「みてみて!ライオンがいるわ!」
「本当だね。あ、隣にはキリンがいるよ!背が高い!」
「北海道のゆきまつり、楽しかったね」
「そうだ!明日はリオのカーニバルを見にブラジルへ行こう!」
そこでは肉食と草食が共存できたし、国境も無いに等しかった。その場所の知識がなければ今では検索したりAIにきけば何とでもなるが、当時の僕は辞書や教科書を片手に知らない知識を補って、あいみちゃんとの文字デートを楽しんでいた。いつしか僕たちに距離の壁は存在しなくなった。圧倒的な無限の文字だけが二人を支えてくれた。そしてついに、僕はあいみちゃんを自分の部屋へ招くことになった。もちろん、文字部屋だ。
「どうぞ!待ってたよ」
「お邪魔します。洋次郎くんの部屋って何だか落ち着くね」
「そうかな?よかったら椅子に座って」
「うん。どきどき」
文字デートが便利なのは自宅のベッドから一歩も動かずに、どこへでも行くことができることだ。服装なんて実はパジャマでもパンツ一丁でも関係ない。感情さえも文末にそれっぽく添えれば、お手軽に相手へ伝えることができる。
「ねえ洋次郎くん。今から何をしましょうか」
「う、うん。とりあえずジュースでも飲もうか。ダカラが冷蔵庫にあったはず!とってくるよ!」
「ありがとう。優しいね。きゅんきゅん。」
部屋に若い男女二人しかいないということ。それが何を意味するのか。たとえ文字だけだったとしても僕は既に察していた。あいみちゃんもきっと知っていてそれを求めていたはず。しかし、奥手の僕はどうしてもそこへ向かうことができない。
「ねえ洋次郎くん。ダカラを飲んだよ。この後は何をする?」
「そ、そうだね。スマブラでもやらない?僕のネスは最強だよ。ピーケーふぁいあ!」
ケータイ画面の光が妙に強く感じられた。目の奥が熱くなって、なぜか少しずつ逃げたくなった。いや、違う。気づいていた。僕は感じ始めていたのだ。自宅まで招いたくせに、いつの間にかこの文字でのやりとりに"虚しさ"が忍び寄っていることを。僕の気持ちはログアウトしかけていた。
「スマブラ面白かったね。この後は何をする?あ、ベッドがあるよ。座ってもいいかな?」
まずい。あいみちゃんが近づいてくる。文字越しに。それまでは楽しく文字デートを楽しんでいたが、このままいくとベッドで"文字戯れ"が始まってしまう。当時の僕はいちごパンツ系の恋愛漫画でしか異性のことを知らなかった。それを文字だけで表現するなんて。初めてが文字っていうのが虚し過ぎる。そもそも文字を初体験にカウントしていいのか。そのときの僕には、その世界を知るには早かった。さらにはこのやりとり自体が凄く恥ずかしく感じていた。全身を虫が這いつくばるように体がこそばゆくなっていった。
「あ、ベッド座っていいよ。お話でもしようか」
「うん。お話面白かったね。この後は何をする?横になってもいいかな?」
「うん…」
まずいまずい。どんどんあいみちゃんが先走って文字が進む。神聖な僕のベッドが愚かな文字で侵されてしまう。向こうは乗り気だが、あなたは虚無と赤面から逃れたかった。そして、ついにその気持ちが頂点になった。僕は"救世主"を呼んだ。
「ねえ洋次郎くん。この後何はをする?ちょっと暑いから服脱いでもいいかな?」
「暑い?それなら暖房をきろうか!」
「ねえ洋次郎くん。こっちを見て」
「あ、あいみちゃん…」
「洋次郎くん。早くこっちに来…」
「ガラガラ!こら!洋次郎!あんた女の子連れて何やってんの!!」
「かか、母ちゃん!!!」
現実に立ち返った僕は半ば強引に"文字母ちゃん"を召喚させた。僕の部屋は引き戸じゃないのに。
「洋次郎くんどうしたの!」
「ごめんね、洋次郎はこれから出かけるから今日はもう帰ってもらえるかい?」
「ちょっと待って洋次郎くん!お母さんは今日家にいないはずだよ!!」
「ごめん…あいみちゃん…」
「さ、最低!!」
演技じみたやりとりの末、あいみちゃんは怒って去っていった。「最低」とだけ残して。それ以降、彼女は連絡をくれなかった。仮想だけど、事実上の破局だ。しかし、これでよかったのだと僕は思い込むようにした。僕はそれまでのやり取りのメールを全て削除した。消した後もしばらくは虚しさと恥ずかしさで胸が苦しくなり、僕はそれを必死で忘れようと受験勉強に打ち込み始めるのだった。
季節はすでに春の終わりを告げ始めていた。僕はあれからしばらく経ち、興味本位であいみちゃんのプロフィールをモバゲーで検索した。あいみちゃんは今、どこで何をしているのだろう。あのときに踏み込めない一線はあったものの、それまでの楽しかったやりとりは本物だ。縦長のケータイ画面にいたあいみちゃんのアバター。そこには黒髪清楚だった彼女はおらず、金髪で褐色の見知らぬギャルのアバターがいた。そこにはハンドルネーム「aimi」の後に見知らぬ男の名前とハートの形を模った「s2」が付け加えられていた。あいみちゃんはあっという間に、次の恋人を見つけていた。仮想の世界はいつだって展開が早かった。
モバゲータウンという空虚な街。そこで僕は虚しさと恥ずかしさの感情を知った。それでも、確かに僕は恋をしていた。
春になるとあの青い気持ちと、無我夢中でケータイ画面を見つめて青白く光っていた僕を、今でも思い出す。
