私たちの還る場所/北村匡平『家出してカルト映画が観られるようになった』(書肆侃侃房、2025年)

広尾にある女子大で打ち合わせがあり、もう五年ぶりくらいにこの街に行ったのだが、以前に行った時と全く変わらず華やかで、しかし商店街の雰囲気はよく、華やかさと商店街の人間味のいいとこどりをしたような街だと思った。昨夜数ヶ月ぶりに同僚と飲み会があり、とても楽しかったのだが、数ヶ月ぶりのアルコールで疲れが出て今日は少しきつかった。体も頭もあまり動かない。湿気が出てきて体が重く鈍い。
もちろん受付で入構証をもらって首から下げているから何もやましいことはないのだが、女子大構内をうろうろするのはどうも落ち着かない。それでも数年前に一度だけ来た懐かしさから、少しうろうろしてしまう。ホールの向こうにチャペルがあり、ミサが行われるようなことが看板に書いてある。それを眺めていると「何かお探しですか?」と職員の男性に声をかけられたので、「見学してもいいですか?」と訊くと、チャペルの中に案内してくれた。背が高く、坊主頭の男性で、私はどこかカフカの小説のような、知らない場所に導かれるような感覚を抱いた。以前打ち合わせで来た時は、先生が少しだけといって、もう真っ暗なチャペルの入口まで案内してくれた。今日はきちんと聖堂の全貌が見えた。奥で合唱団がグレゴリオ聖歌を歌っている。私の好きな曲だった。
会衆席の一番後ろに座って目を瞑る。聖堂の天井の高さ、静謐さが何よりも好きだ。聖堂に入ると、背筋を伸ばして、ちゃんと生きようと思う。毎日を生きていくうちに少しずつ決意が揺らいで、心身ともにグラグラになってきたとしても、ここにくるとまたリセットする。それでいいのだと思う。いつもいい人間でいる必要はない。この場所に戻ってきて、目を瞑っているときだけ、しっかり自分の姿を輪郭を思い出せばいいのではないか。そういう場所が社会には必要なのではないか。あなたには戻る場所があるだろうか?
北村匡平の『家出してカルト映画が観られるようになった』という奇妙な名前のエッセイ集を手に取ったのは、おそらく発売日あたりで、この本は今年の四月上旬には出ていたと思うから、それから一ヶ月か一ヶ月半ほど、私はこの本を小脇に抱えて春の東京をウロウロしていたことになる。とても読みやすい本なのになぜこんなに時間がかかったのかといえば、たぶん、この本に書かれていること、著者の心の動きがあまりに生々しく、自分がそれに共振してしまい、少しトラウマチックに辛かったからなのではないかと、分析している。
よくこれまで生きてこれたなと思う。それくらいに、この本には著者の結構大変な生き方が書かれている。著者は日本映画の研究者で、映画に関わる本を何冊も出している、かつて音楽活動をしていたこともあり、『椎名林檎論』も評価が高かった。そういう研究者がいきなり出すエッセイ集にしては落差があるというか、いきなり金髪の本人の写真がカバーに載っていたり、書名もサブカルっぽく冒険している。私は表紙を見てなぜか峯田和伸を想起した。けれど、著者の経歴のアンバランスさは、この本を読んでみるとどこか納得できる。
ピザ屋のバイトで上司にパワハラをされてその日に辞めた話。鷹が妻の口からサンドウィッチをかっさらって、妻が血だらけになった話。暴力教師の話。満員電車で本を読んでいて怒られた話。父親に反抗して家出をした話。教師に我慢ならず教室を出た話。対応のおかしなタクシー運転手にキレた話。すれ違いざまに娘の頭を撫でた男と口論になった話。喫煙が異様に嫌いで、禁煙席と喫煙席が隣にあると店員に抗議する話。
とにかく激しい。常に怒ったり怒られたりしている。だからこの本を読むときは結構緊張する。あまり癒されるタイプの読書ではない。でも、上に挙げた例も、割とどれもあり得そうなことではあるし、どちらかと言うと著者に共感して読んでいた。対応のおかしなタクシー運転手には私も会ったことがあるし、私もたばこが苦手だ。だから、この本に対しては不思議な緊張感と、親密な気持ちが混ざり合うのだ。そういうことが、この本を読むのに時間がかかった理由ではないかと思う。
本を読んで、「この人よく生きてこれたな」と思ったのは二度めで、一度めは柴崎友香の『あらゆることは今起こる』という、著者自身がADHDと診断されたこと、それまでの人生で大変だったことを書いた医学書院から出たエッセイなのだが、これを読んだ時も、眠気が尋常じゃないとか、部屋が絶対に片付けられないとか、そういうことが詳細に書かれていて、でもそれが普通だと思っていたけれど、生きるのにいつも違和感があったと書かれていて、そうした一つ一つに、どこか共感しつつも、とても怖く、トラウマ的な読書だった。もちろん、病気の話と本書を単純に比較することはできないし、同じということももちろんできないのだが、生きる上での人の多様な逸脱を肯定するということは、書物の大切な役割だと私は考えている。それでもやはりそういう生きる上での違和感が生々しく表現されているのは、怖い、直視したくないことではある。
ただ、本書は本当に大事なことをいくつも言っていて、だから単に辛いだけではなくて、読まなければならないという気にさせられる。例えば、公園の遊具が、年齢や遊ぶ目的に合わせて細分化されていて、年齢が違う子同士が一緒に遊べなくなっている問題を、彼は論じている。そして、昔のアニメにあるような土管のような、漠然と何かが置いてあって、遊ぶ方が工夫して遊ぶというようなことは、なかなか今の時代は行われないということ。そういう、取り残された感覚のようなものを、著者は大事にしている。
あるいは、著者がアメリカに住んでいたとき、やたらとホームパーティが開かれ、孤独を感じたが、しかし同時に、たくさんの人とハグをして、そのハグをするという行為によって、人のぬくもりみたいなものを感じた。日本はそれに対して、身体的な距離が遠い。というようなエピソードがあるが、これも本当にそうだなと思う。日本人は、どちらかと言うと自他の区別がなく同調圧力が強いと言う意味では、むしろ自他の距離は近い気がするのだが、身体的にはあまり接触を好まない。これは文化の問題でどちらが良いという問題ではないが、それでも、私も少し寂しさを感じるときがある。例えばハグなどの身体的な接触がないだけでなく、どこか人の個人的なことに対して踏み込むことを、私たちは常に恐れている。その恐れから目を背けるために「他人は他人」とか言ってごまかしてみたりする。そういう寂しい社会だと、私は感じる。
辛い辛い言って申し訳ないが、とにかく複雑な感情になる本だった。近親憎悪とまでは言わないが、そういうどこか、著者の感覚がわかってしまう部分があるからこそ、著者の感覚に共鳴する自分がどこかにいるからこそ、その辛さを本で読みたくないという防衛本能のようなものが働いているのかもしれない。ともあれ、著者の人生にのめり込むような不思議な本であり、またしばらくしたらもう一度読みたくなる気がする。

