斯くて少女は、新たな一歩を踏み出す 四章
四章 ~決意と決別~
4-1:朝風呂の女子会?
高桐邸の裏には、小高い山がある。鏡華が言うには、高桐家はこの辺一帯の地主とのことで、
『ここなら多少派手にドンパチしても大事にはならないでしょ。え? 使って良いのかって? 持ち主が良いって言ってるんだから良いのよ』
鏡華は親指まで立てて豪語するので、アレクシアは甘えさせてもらうことにした。
蒼真や燐耀の手も借りて、用意した諸々を裏山に運び込む。それが一通り終わって、続きは朝食の後にしようと屋敷に戻ると、
「……さすがにちょっと酷いわね。せっかくの可愛い顔が台無しよ」
アレクシア達を出迎えるなり、鏡華は吹き出した。
「お風呂沸かしておいたから、早く入ってきなさい。良い若いモンが、色々麻痺して仕事しか見えなくなった社畜中年みたいな顔するものじゃないわよ」
「「え~」」
アレクシアにはよく理解できなかったが、蒼真と燐耀の何とも言えない表情を見る限り、あまり喜ぶべき評価ではないようだ。
「……んじゃお言葉に甘えて~と」
と、蒼真はさっさと風呂場に向かい、
「待て」
その肩を、燐耀が掴んだ。
「このような場合、女子が先だという暗黙を知らぬわけではあるまい?」
「そういうのは義理であって義務じゃねえだろ」
燐耀の手を、蒼真は素っ気なく叩き落とし、
「だいたい、お前らは無駄に時間かかるだろうが」
「決して無駄ではないぞ。女子には必要じゃて」
「必要でも何でも、俺の方が済むのが早いっつってんだ」
「そなたの使った後の残り湯を使えと? 面白いことを言う」
「それ言ったら散々待たされた挙句、無駄使いして残り少なくなった湯を使えってのか?」
蒼真の目が据わる──徹夜のせいではない。
燐耀の魔力が高まる──気のせいではない。
「大体、泊めてもらってる奴が何で偉そうに仕切ってやがんだ? ここはいつから、お客様至上の旅館になったんだ? 俺が珍しく下手に出たもんだから、付け上がっちまってんじゃねえのかお姫様よ?」
「笑止。そなたこそ、一度や二度のへりくだりで甘い顔をしてもらえると思うたか? そもそも、そなたがどの口で〝お客様至上〟など語るのじゃ。この機会に色々と叩き込んでやっても良いぞ?」
「珍しく面白ぇこと言うじゃねえかテメェ。ちょっとお上品なだけのトカゲモドキが人類の作法だか礼儀だかを叩き込むってか?」
「礼儀作法だけではないぞ。普段この姿でいることがダテではないのだということも、叩き込んでやろうではないか、孺子めが」
不穏当な空気が急激に密度を増していき、
「はいそこまで~」
鏡華の呑気な声と共に、小気味よい音が二つ──振り下ろされた二本の竹刀が、蒼真と燐耀の頭を打ちすえた。
「ジャンケンで決めなさい。それが鉄則でしょう」
「しょうがねえ……じゃーん! けーん!」
「ほい!」
蒼真はチョキ。
燐耀はグー。
「では、行こうか。アレクシアよ」
燐耀はアレクシアを促しながら勝利のグーを高々と掲げ、チョキを出したまま呆然と固まる蒼真の前を颯爽と通り過ぎた。
*****
「っ!」
湯船に浸かるなり、アレクシアは思わず呻く。
陽出は治療薬も良質らしく、浅いこともあって傷は殆ど塞がっていたものの、やはり熱い湯はそれなりに沁みる。しかし、そのおかげで徹夜による眠気は多少なりとも飛んだ。
「朝風呂も良いのう~」
アレクシアに続いて湯船に浸かった燐耀は、溜息と共にしみじみと吐き出す。人類でいえば見た目通りの年齢のはずだが、何ともじじむさい。
とはいえ、
「……」
「む? どうした? 龍の亜人の体がそんなに珍しいかの~?」
アレクシアの視線に気づいて、燐耀は立ち上がって自慢するように扇情的な姿勢をして見せた。
先ほどまでの浴衣越しではなく、全て晒された燐耀の肢体は、やはり見事な造形。もはや嫉妬すら湧かず、ただただ感嘆するのみ。
「ソレもあるケド」
あまり見続けるのも失礼なので、アレクシアは視線を逸らして話題を変える。
「その……ゴメンナサイ」
アレクシアは居住まいを正して頭を下げた。
「な、何じゃいきなり?」
思わぬ態度だったのか、燐耀は戸惑いながらも湯船の中に正座した。
「ダッテ、町で龍の姿二変身するノハダメなのに」
何しろ、本家に問い合わせがジャンジャカで、龍の長がカンカンになるほどのだ。それを、小娘一人を助けるために使わせてしまったのだ。
「……やれやれ、せっかく思い出さないようにしておったのじゃが」
似つかわしくない疲れた嘆息を、燐耀は吐き出した。
「まあ、確かに父上からはこっぴどく叱られはするだろうが……咎めはその程度じゃろうて。町中と言っても、我ら以外は誰もいなかった公園の中じゃったし。それに……」
燐耀は言葉を止め、二呼吸分ほど何やら思案し、
「妾としても、やはり気に入らんでの。あの娘にしても、神聖帝国にしても」
苛立ちを隠さずに言った。
「妾だけではない。蒼真とて同じじゃ。態度こそあのような様だが、何やかんやと自分から首を突っ込んでるのじゃて」
「……蒼真ガ?」
てっきり、鏡華に蹴りつけられ燐耀に引っ張られて仕方なくやっているのだとばかり思っていたものだから、冗談抜きで驚いた。
「あの男、あれでかなりの激情家じゃ。先の襲撃に加え、話を聞いて、だいぶ腹に据えかねておるようでの」
アレクシアは、ふと蒼真のことを考えてみる。確かに、あの男はやる気無さそうに見えるが、するべき事はきちんとするし、通すべき筋はきちんと通す。
しかし──今回の場合は、どちらかといえば、
「蒼真の事ダカラ、お祭り気分ダト思う。だって、アノ蒼真ダカら」
「……あの蒼真なら、まあ、そうじゃろうのう。そなたもよく見ておるではないか」
感心と呆れを半々した燐耀の言い様と表情に、アレクシアは思わず吹き出した。それに釣られて、燐耀も思わず吹き出した。
「図らずも、要らぬ力は抜けたようじゃな」
「……え?」
燐耀に指摘されて、アレクシアは自分が笑ったことにやっと気付いた。
「先ほどまでは、過ぎるくらいに肩肘を張っておったからな。それでは勝てるものも勝てぬと心配しておったが、これならばひとまずは安心じゃな」
心配されるほど、張りつめていたらしい。指摘されてやっと自覚するほどだから、よっぽどなのだろう。
「さて、ちと早いが、そろそろ上がるとしよう。あの朴念仁が、そろそろ喚き始める頃じゃて」
「朴念仁……」
最近知ったその言葉の意味を考え、蒼真に当てはめてみる。ついで浮かぶのは、とある馬鹿げた想像──もはや、妄想と称しても良いかもしれない。
「……」
アレクシアは、燐耀の肢体を眺める。
「何じゃ? 妾の体に何かついておるのか?」
「う~ん……」
改めて思う──やはり見ていてまるで飽きない程、〝お見事〟以外の言葉は無い。女性の立場からしても、だ。
だというのに、あの蒼真のあの無反応ぶりは、冗談でも何でもなく、〝特殊な性癖〟の類ではないだろうか。
例えば、
「蒼真は、もしかして男の人ガ好き、トカ?」
「まさか~……、………………い、いや、待て…………………………」
笑い飛ばそうとした燐耀の笑顔が、急に固まる。そして、たっぷり十秒以上かけて何やら考えを巡らせ、
「……そんな……いや、しかし……う~む……」
どうやら、思い当たる節はあるらしい。
結局──二人そろって懊悩する羽目となり、痺れを切らした蒼真から苦情が来てしまうのであった。
4-2:激励
「……」
「……」
微妙な空気が食卓に充満しており、静謐どころか妙な緊張感があった。
正確には──アレクシアと燐耀が。
「え~っと……どうしたの? 二人とも」
「……何だよ、さっきから人の顔をチラチラと」
さすがにおかしいと思ったらしい。鏡華は困惑したように訊ね、蒼真は迷惑そうに舌打ちする。
アレクシアは思わず目を逸らして黙り込む一方で、
「その、まあ、何じゃ……」
燐耀は何やら視線を泳がせ、何かを窺うように訊ねた。
「今朝は蒼真が朝食を用意したそうじゃが?」
「まあな……誰かさんたちが、のんびり朝風呂に浸ってるおかげでな~」
アレクシアと燐耀が風呂で懊悩している間に、蒼真は朝食を用意していた。簡素ではあるし、鏡華にはまだ及ばないものの、充分〝美味い〟と評していいだろう。いい加減に見えて、蒼真は家事炊事もそれなりにこなす男だった。
「何だ? 舌の肥えたお姫様とお嬢様のお口には、合いませんでしたかね~?」
「とんでもない。日頃の行いからは想像もつかないほどの出来栄えじゃ」
先ほどの腹いせも多分に込めて嫌味ったらしく言う蒼真に対し、燐耀は冷静に返した。
「この様子なら明日にでも良い嫁になれると思うぞえ」
何とも微妙な燐耀の言葉に、アレクシアは箸を口に突っ込んだまま固まった。
「嫁か~」
否定するかと思いきや、蒼真は何やら思案顔になっていた。しばらく考えたところで、何やら頷き、
「専業主夫ってのも、楽そうでいいよなぁ~」
「蒼真。世の中の専業主婦に謝りなさい」
現役専業主婦の鏡華が、蒼真の舐めた言動を聞き咎めて横目で睨みつけた。
「良いこと? 特に最近の若い子は、専業主婦と引き篭もりってのをごっちゃにしてるみたいだけど……」
「ああはいはい、専業主婦は偉いんだろ。縁の下の力持ちで、見てないところで頑張ってるんだろ。分かりました分かってますよ……って、どうしたお前ら?」
アレクシアは箸を咥えたまま固まり、燐耀は味噌汁の残った碗に目を落として何かを考えている。
「リン子ちゃんまで、本当にどうしたの? 悩みがあるなら相談とか愚痴くらいは聞くわよ」
「……いや、もうよい……」
一瞬迷うようなそぶりを見せて、しかし燐耀は首を横に振ると、食事を再開した。〝リン子〟呼ばわりにも、この時ばかりは気に留めなかった。
「うむ、よいのじゃ……そう、これでよいのじゃ。のう、アレクシアよ」
「……ハイ」
アレクシアも、小さく息を吐き出して深々と燐耀に同意した。
そうだ──開けるべきでない扉を、わざわざ無理に開ける必要はない。世の中には見るべきでないもの、知るべきでないものが、いくらでもあるのだから。
蒼真も鏡華も、物問いたげな顔を見る限り納得していないようだが、アレクシアも燐耀もそれを気付かないふりして朝食を平らげにかかった。
*****
微妙な緊張感に満ちた朝食ではあったものの、アレクシアの眠気と疲労は消え、鋭気は整えられた。
残りの作業に向かう前に、アレクシアは登校する蒼真達を見送る。
「くどいようじゃが、兎にも角にも冷静にの」
取り澄ました制服に着替えたこともあり、燐耀は一層凛とした気配に満ちていた。
一方、
「これ蒼真……出がけだという時に何を呑気に寝とる?」
「あ~?」
ウトウトどころか、立ったままで器用に寝息を立ている蒼真は、取り澄ました制服を着ても、一層だらけた姿を晒していた。慣れない徹夜のせいだろう。
「あ~ではなかろう。ほれ、檄の一つでも飛ばしてやらんか」
「え~……あ~……いや、檄を飛ばせっつってもさ~」
燐耀に耳を引っ張られて、蒼真の目がぼんやりと開かれ、
「もう俺たちは蚊帳の外だからさ、今更言うことなんざ何も無えだろ~。だから、ここから先は自分で何とかしろ~。クソ舐めた選民気取りをぶちのめして来~い」
などと、欠伸と一緒に吐き捨てると、さも面倒そうに手を振って出かけていった。何故か、こちらに顔を向けないまま。
「全く……少しは素直になれば良いものを、捻くれにも程があろうて」
燐耀は、忍び笑いで肩を揺らし、
「が、今回に限っては全く持って良いことを言うておるぞ、アレクシアよ」
と、燐耀はアレクシアの尻を引っぱたいた。
「神聖帝国が誇る稀代の天才法術師とやらを、見事出し抜いて見せい」
「アノ……」
「礼なら後じゃ」
ありがとう──アレクシアが言いかけた言葉を、燐耀は遮った。
「否……そなたの成功と勝利を以て、謝礼と恩返しするがよい。吉報を期待しておるぞえ」
激励を告げると、燐耀も颯爽とした背中を見せて出かけて行った。
二人の激励は、少々重圧ではあるものの、悪意は一切含まれていなかった。悪意の無い激励が、とても嬉しいものであり、とても力になるものだと、初めて知った。
「……よしっ!」
アレクシアは、自分の頬を両側から叩いて気を引き締め直すと、その足で裏山に再び向かい、作業を再開する。
蒼真や燐耀が手伝ってくれたおかげで、作業は殆ど進んでいる。あとは残りの細かい調整はをするだけ。
ケータイで投影した図面を何度も確かめながら、主だったモノから始め、そこから優先順位の高いものから片付けていく。
好機は一度で一瞬で、そして一つだけ。
ならば、その一点に全てを集中すればいい。
そのための大前提は燐耀の言う通り、〝常に冷静〟であること。
派手にやって良いとは言われたものの、むしろ〝派手〟である必要はない。
大がかりである必要はない。
むしろ、小さい方が良い。
代わりに、質は限りなく高く。
難しいことも複雑なことも無い。
故に、小さな狂いも間違いも許さない。
妥協など論外。必要なのは細心の注意だけ。
アレクシアは、意識のすべてを目の前の作業に集中した。
4-3:これからのこと
「よし……!」
ようやくひと段落して大きく息を吐き出し、そこでようやく、日差しがだいぶ傾いていることに気付いた。
「お疲れ様……凄い集中力だったわね」
優しい声がかけられ、アレクシアは顔を上げる。そこにいたのは、のんきに小振りな本をめくる鏡華だった。
「それじゃ遅めのお昼、あるいは早めの夕飯だわよ~」
本をパタリと閉じると、鏡華は傍においていた背嚢の蓋を開けた。
夕飯──その言葉に、アレクシアの腹が分かりやすい音を鳴らした。
「はいはい、慌てないのよハラペコちゃん~」
鏡華は背嚢から取り出した食事を並べていく。
炊いた米を三角形に固めた、〝オニギリ〟あるいは〝ニギリメシ〟というモノを始め、揚げた肉に焼いた卵に塩で締めた野菜に茶の入った保温瓶──簡素ではあるが、何故かとても安心出来る内容だった。
蓋を開けた瞬間漂ってきた香ばしい匂いに、アレクシアは思わず手を伸ばし、
「こらっ」
その手を、すかさず鏡華は叩き落とした。
「遠慮はしなくて良いけど、それはお行儀悪くして良いということじゃないわよ」
と、オニギリの代わりに湿った布巾を握らせる。それで手を拭いてみれば、あっという間に布巾は黒くなった。よくよく自分の姿を確かめてみれば、あちこちが埃だらけになっているではないか。
「いただきマス」
汚れを落とした手を合わせ、用意してくれた鏡華を始め、食材を作った者や、食材そのものに感謝し、改めて食事に手を付ける。
動き回った後の空きっ腹のおかげもあり、いつもよりも旨い。しかも、ありがたいことに味もかなり濃くしてあった。
「さて、改めて聞いておきたいんだけど」
鏡華は水筒から茶を注ぎ、
「それで、アレクシアちゃんはこれからどうするつもり?」
茶の入った碗を差し出しながら、訊ねた。
「? エリッサに挑戦スル」
「その後よ」
アレクシアの答えに被せるように、鏡華は茶の入ったカップを差し出した。
「そうね、もう少し分かりやすい言い方をすれば……神聖帝国に帰るの?」
「……帰ル……」
「もちろん、〝密航〟という形になってしまうけどね」
当然といえば当然。敵対国への渡航など、〝密航〟と同義だ。
だが、形はどうあれ、帰ろうと思えば帰れるということ。
その選択肢があるということ。
「……」
アレクシアはすぐに返事できなかった。
〝神聖帝国人のアレクシア〟なら、二つ返事で飛びつくべきなのに。
何故か、躊躇った。
『……昨夜も言ったけどね』
押し黙ったアレクシアに、鏡華は言葉を敢えて切り替えて言った。
『一番最初に決めて動くのは、貴方自身』
態度こそ穏やかだが、言葉は重い。アレクシアに合わせて、わざわざ帝国後に変えたという事実も含めて。
『神聖帝国がどうのとか、誰かがどうのとか……そんな〝外の問題〟は後回しよ』
鏡華の言葉に、アレクシアは返す言葉を詰まらせる。
エリッサのことを始め、この二週間は色々なことがあり過ぎて後回しにていた──そんなのは、言い訳だ。
『貴方は何をしたいの? そのために、貴方がするべき事は、何?』
それは、アレクシアの根幹への問いかけ。
鏡華の声に乗せられてこそいるが、他でもない、アレクシア自身の問いだった。
故に──中途半端な答えなど、何の意味も無い。
『……私は』
『つまらん上に、無意味な問答だな』
「っ!」
答えを遮る声の方を振り返るよりも先に、正面に座る鏡華が飛び出し、アレクシアを突き飛ばした。
自分が突き飛ばされた事を認識した時には、鏡華の体は稲妻によって弾き飛ばされた。
「鏡華っ?」
アレクシアは、血相を変えてくずおれた鏡華に駆け寄る。
『行きつく先は冥府、永遠の苦悶……貴様の運命は、それだけだ』
そんなアレクシアに、侮蔑を隠さない声が頭の上から投げかけられるが、アレクシアが思わず帝国語を口にするほど愕然としたのは、そんなどうでもいい死刑宣告ではない。
『……そん、な……』
鏡華は、動かない──体だけでなく、脈も心臓も。
『何だ、死んだのか? そこまで威力を込めたつもりはなかったが』
侮蔑の気配が、同情に変わる。
『穢れた下民とはいえ、哀れな末路だな。〝厄種〟なぞに関わったばかりに』
『……厄種……?』
ようやく、アレクシアは振り返る。
『貴様のことに決まっているだろう、出来損ないめ』
木よりも高い位置から、〝飛翔〟の法術によって宙に浮かぶエリッサが、嫌悪と侮蔑を満面に張り付けて見下ろしていた。
『その下民の雌は、何の関係も無かったのに貴様が巻きこんだ。どうやって取り入ったか知らないし、知りたくもないがな』
『貴方……っ』
『貴様はいるだけで他者を不幸にし、破滅させる』
エリッサの法力が集まる。それを目にした瞬間、アレクシアは跳ねるように駆け出した。直後に、アレクシアのいた場所──いや、頭のあった空間を稲光が貫いた。
『本国の地を穢させるわけにはいかん。穢れた貴様は、穢れたものらしく、この穢れた地で死ね』
『……っ』
迷うのは一瞬──アレクシアは、倒れた鏡華をその場に残して駆け出し、草むらへ飛びんだ。
4-4:〝出来損ない〟の挑戦
高桐邸から頂上へ通ずる山道は整備されているが、見通しが良くなるため使えない。なので、使うのは今朝方蒼真が手伝いついでに教えてくれた獣道だ。
しかし〝獣道〟とは、あくまでも獣が通る道であり、人類の体格では硬い藪の中を強引に突っ切るようなもの。しかも上り坂で、休まず全速力──鏡華や蒼真の鍛錬のおかげで、それなりに体力に自信があったのだが、既にアレクシアの息は絶え絶えになっていた。
『逃げるにせよ、せめて姿くらいは見せたらどうだっ?』
対して、エリッサは頭上を陣取ったまま優々と追いすがり、稲妻を放ってきた。
法具の補助なしでは制御の難しい、〝飛翔〟を維持したまま、である。
『帝国貴族の、法術師としての誇りが、少しでも残っているならなっ!』
上から、嘲笑と共に雷撃が放たれ、アレクシアの傍を掠める──掠めるばかりで、ただの一度も直撃しなかった。
見通しが悪いとはいえ、上からならこちらの位置は明らかなのに。
その気になれば、直撃など簡単なのに。
その気になれば、一帯ごと吹き飛ばせるはずなのに。
エリッサは完全に遊んでいた──学院にいた頃のように。
性格の悪さは相変わらず──頭の中でそんな悪態をついて、しかし思わず笑みが漏れた。
忌まわしいことこの上ない思い出ながら、妙な懐かしさがあった。そして、懐かしさを感じるほど自分の中で〝過去〟になっていることを、アレクシアは自覚した。
「っ!」
余計なことを考えていたものだから、思わず足がもつれ、支え切れずに転倒した。
「~~~~~っ」
足の痙攣を強引に抑え込んで無理やり体を起こして、口に入った砂やら土やらを吐き捨てたアレクシアは、藪を抜けてしまっていたことに気づいた。
そこは、裏山の頂上付近から少し下った位置にある、開けた岩場。ここからは、硬い岩壁がほぼ垂直に十メートルばかり伸びており、頂上へは宙を飛んでいくか、縄や梯子を使わないと登れない。
アレクシアは、岩壁に立てかけていた木刀と呼ばれる木製の剣を掴む。作業の合間にここに置いていた物で、刀身も錬成法術で強化済みである。
『……出来損ないにしては良い度胸、と取れなくもないがな』
頭上から見下ろしたまま、エリッサは呆れたように吐き捨てる。その手には、長剣が握られていた。
『この期に及んで、そんな棒切れを持ち出してくるとはな』
エリッサは飛翔術を解除し、落下の勢いで剣を振り下ろした。アレクシアが飛び退いたことで刃は空を切るが、エリッサはすかさず踏み込んで剣を振り上げる。
アレクシアは、それを木刀で受け止め、
『……っ、その剣っ?』
結果としてエリッサの剣を眼前にしたアレクシアは目を剥いた。
*****
ミスリル──オリハルコンと並ぶ稀少鉱物にして〝神の息吹〟とも称される、神造鉱の一つ。それを名だたる鍛冶師によって鍛え、その工程の一つ一つに高位の神官が全霊の祈りを込めたことで、絶大な力を秘めた法具にして武具──シュトロア家が、代々秘法術と併せて伝えてきた家宝にして、俗に〝聖剣〟と称される邪悪を討滅するための刃。
その銘は、
『〝祓魔の嵐〟っ? 何でそんなモノを?』
『全くだっ!』
危険を察知して、アレクシアは木刀を捻りつつ飛び退く。その鼻先を、鋭利な切っ先が通り過ぎた。申し訳程度に強化された木刀の切っ先など、あっさり斬り落として。
『私もいらないと言ったのだがなっ!』
たたみかけるつもりか、エリッサは踏み込んで振り下ろす。アレクシアは短くなった木刀を構えるが、剣同士の衝突と硬直は一瞬──乾いた音を立てて、木刀は更に短くなった。
『穢れた地に立ち入るのだからっ!』
強化されているとはいえ、聖剣の前では所詮棒切れ。剣筋を逸らすのみで、受ける度に木刀は大きく削り取られていく。
『邪悪な瘴気からの護符代わりと、父上から押し付けられたっ!』
頭を狙った振り下ろしを、アレクシアは飛び退いて回避──が、僅かに間に合わず、剣の切っ先は胸元を切りつけた。
胸の痛みと背中の衝撃に、アレクシアは呻く。背後は岩壁がぶつかっていた。そして眼前には、聖剣の切っ先が突きつけられる。その向こうには、勝ち誇ったエリッサの顔があった。
『なるほど、そんな粗末な棒切れで聖剣を凌ぐのだから、剣の才覚は本物だったのだろう。だが惜しいかな、所詮はそれだけのモノだ』
相変わらずの嘲笑。
相変わらずの侮蔑。
だが、
『それだけしかない〝出来損ない〟など、この世には不要だ。その用を成さなくなった棒切れこそが、貴様の価値だ』
エリッサの朗々とした罵倒に、安堵するような気配が僅かに滲み出たのを、アレクシアは敏感に、そして他人事のように感じた。それを見極めようと、突きつけられた鋭利な切っ先には目もくれず、アレクシアはエリッサを見据える。
『……何だその目は?』
いつもと違うとでも思ったのだろう。エリッサは、つまらなそうに吐き捨てた。
『いつものように情けなく許しでも乞うのかと思ったが……そうだな、これが最期だ。遺言くらいは聞いてやるぞ』
『そう……』
大きく息を吐きだしながら、アレクシアは淡々と言葉を述べた。
『それじゃ、お言葉に甘えて』
冷静に──燐耀の助言を、常に頭に思い浮かべながら。
『……何をそんなに怯えているの?』
剣を構えたまま、エリッサは凍り付いた。
4-5:〝出来損ない〟の反撃
その硬直は一瞬──だが、この間合いでは致命的ともいえる隙。
けれど、まだだ──反射的に動こうとするのをどうにか抑え、アレクシアはエリッサを静かに見据える。
『……聞き違いか?』
すぐに我に返ったエリッサは、押し殺したように訊ねた。
『貴様、私が怯えていると言ったのか?』
『ええ。そうよ……エリッサ、貴方は私に怯えて』
『はっ! はは、はははははははははっ!』
アレクシアの声を、エリッサの哄笑がかき消す。
『あはははははははっ! 何を血迷ったか知らんが、まさか最期になってそんな言葉が出てくるとはなっ! いや、最期を前にしたからこそ、血迷ったのかっ? あははははははははっ!』
『私には、貴方の方が血迷ってるように見えるわね』
エリッサの止めようともしない耳障りな笑い声に、しかしアレクシアは淡々とした態度のまま続ける。
『いくらフローブラン家とシュトロア家がお互いを目の敵にしてると言ったって、あくまでも御家の問題』
冷静に。
常に冷静に。
『それに、〝出来損ない〟の私は、貴方にしてみればいちいち相手にするまでもない、どうでもいい存在のはずよ』
自分で言って情けなくなってくるが、それは紛れもない事実。
エリッサにとって、アレクシアなど取るに足らない、相手にするまでもない〝出来損ない〟だ。
だからこそ、
『私は、少なくとも自分から貴方に絡んだことは無いし、近づかないようにしていた。いつも絡んできたのは、貴方の方からだったわ』
冷静に、客観的に考えれば、その疑問が自然と浮かんでくる。
『……学院は、高貴にして才ある者のための学び舎だ』
エリッサの哄笑が急に萎んでいき、苛立つような気配を帯びていく。
『ましてや、四大賢人の一族ともなれば、その象徴だ。貴様のような出来損ないなど、学院の……いや、神聖帝国の汚点。排除は当然で』
『高貴にして才ある者の為の学び舎なら、放っておいても〝出来損ない〟は消えたはずよ』
エリッサが言い終わるのを待たずに、アレクシアは続ける。
『わざわざ……禁術を持ち出して、しかもそれを擦り付けるなんて、手の込んだことをしなくたって』
『……貴様は、存在そのものが目障りだ』
エリッサの笑みはいつの間にか消え、苛立ちははっきりした憎悪に変わっていた。
『生きているというだけで、私を不快にさせるんだ!』
『……そういえば』
エリッサの憎悪の根を、アレクシアは見逃さない。
『剣の才覚は本物……さっき、貴方はそんなことを言ってたわね?』
冷静に。
『それは貴方なりに認めていたということかしら?』
冷徹に。
『〝出来損ない〟に、剣じゃ勝てないって』
そして──冷酷に射抜いた。
『棒切れ相手に聖剣でも持ちださないと、太刀打ちだって出来ないって……法術でしか、勝てるものがないって』
そして、深々と抉った──エリッサの憎悪の根元を。
*****
神聖帝国において、法術の優劣はそのまま社会的な優劣に直結する。
つまり、法術さえ優秀であれば──強力な術が行使できれば、それ以外は後回しにしても良いという風潮ですらあった。
だから、アレクシアはされなかった。
だから、アレクシアは〝出来損ない〟とみなされた。
武術、学問、礼儀作法──法術の実技以外は、首席を総取りだったとしても。
エリッサとて、決して法術だけが取り柄の一芸者ではない。シュトロア家の娘として、あらゆる分野で素晴らしい成績を残していた。
だから、エリッサは評価されていた。
だから、エリッサは稀代の天才とされた。
武術、学問、礼儀作法──法術の実技以外は、次席に甘んじていたとしても。
『貴様……っ』
エリッサの美しい顔が、憎悪で醜く歪んでいく。
アレクシアは、確信と同時に、自身が急速に冷めてのを感じた。〝冷静〟を心がけるまでもないほどに。
『稀代の天才と呼ばれた自分が、法術でしか勝てなかった。それも、出来損ない相手に』
常に次席な事に加え、自分を差し置いて首席の座にいるのが出来損ない──それは、稀代の天才の矜持や自尊心を、甚だしく傷つけていたようだ。
『だから、私を憎んだのね。目障りで仕方なかったのね』
『だ、黙れ……っ』
図星を差されたことに加え、今まで言い放題好き放題だった相手に、逆に好き勝手言われる事自体が、エリッサにはさぞや屈辱だろう──そんなことを、どこか他人事のように考えながら、アレクシアは更に続けた。
『それに今じゃ、皇龍なんて破格の魔族と仲良くしているからね……そういえば、〝ホンモノの雷〟で受けた傷は、もう大丈夫?』
『……っ、だ、黙れ……』
ここで燐耀の事を持ち出すあたり、我ながら卑しいと思うが、これもまたエリッサには大きな効果をもたらした。
『私みたいな出来損ないに出来て、天才の自分に出来ないのはおかしい、許せない……』
アレクシアは、我知らずに微笑む──嘲笑ではなく慈しみのそれだった。
『貴方にも、そういう可愛いところがあったのね』
だからこそ、
『黙れぇっ!』
エリッサには耐えられるはずも無かった。
激昂の勢いで聖剣を振りかぶり、アレクシア目がけて突進する──技も何もない、ただただ力任せの剣に、アレクシアは思わず嘆息し、
『……せっかくの聖剣が泣くわよ』
吐き捨てながら折れた木刀を振り上げ、振り下ろされた聖剣の刃を受け流す。
受けるのではなく、受け流す──木刀によって逸らされた聖剣は、そのままアレクシアの横に流れていく。
勢いに乗っていたエリッサを引きずったまま。
『な』
エリッサの顔が呆ける前に、アレクシアは鼻先目がけて自分の頭を叩きつけた。
『ぶぅっ?』
妙な息を吐きだしてよろめいたエリッサの鼻から血が噴き出し、美しい顔が赤く染まる。
そういえば、朝稽古で自分もこんな感じだったか──などと、どうでも良いことが衝撃で揺れた頭に思い浮かぶが、すぐに振り払い、
『こっちに来てから、私も色々と鍛えられてたのよ。貴方の言うところの、穢れた下民たちの中でね』
折れた木刀を突きつけて、アレクシアはエリッサを真っ向から見据え、
『たった二週間だけど、それだけで充分よ』
そして、はっきりと告げた。
『私はもう、神聖帝国で踏みつけられるだけだった〝出来損ない〟なんかじゃない!』
4-6:〝出来損ない〟の真の狙い
『──っ』
アレクシアの言葉に、エリッサの顔に憎悪とは別の色が、はっきりと浮かんだ。
法術だけでなく、武の才覚も優れているがために、悟ってしまったのだろう。
悟ってしまった──目を背けていた屈辱的な事実を、嫌でも突きつけられたのだと。
出来損ないに、自分は怯えていると。
『~~~~~~っ!』
悟りはしても、それを受け入れてられるかは別だった。
人のそれとは思えない呻き声を漏らしながら、エリッサは飛び退き、飛翔術で高く上昇する。
『例えそれ以外が優れていようと、貴様に法術の才が無いことは事実だっ!』
高々と掲げた聖剣を中心に、膨大な法力が集まっていく。
神造鉱製の武具は、同時に強力な法具でもある。特にミスリルは、風雷の法術との親和性が非常に高い。
それを揮うのは、〝大嵐の咆〟の二つ名を持つシュトロア家の血族にして稀代の法術師──これだけの要素を集めて具象化したのは、目も眩むような光を放ち、束ねに束ねられた、巨大な轟雷だった。
『貴様如きに、これはどうにも出来まいっ!』
第一級風雷系攻撃法術〝聖断鎚〟──シュトロア家の秘法術〝震天咆哮〟を除けば、最上位の風雷系攻撃法術である。しかも、エリッサの有り余る法力量である。アレクシアはおろか、この裏山を諸共も飲み込まんばかりの巨大な光に膨れ上がった。高みにいるエリッサ以外は、まず逃げられない。
『そうとも、貴様如きにこんな……っ!』
エリッサの怨嗟を受け、雷光の巨鎚が振り落ろされる。
『出来損ない如きにぃっ!』
悲鳴のようなエリッサの怒声を聞きながら、アレクシアは岩壁まで飛び退き、地面を思い切り踏み抜いた。
一拍にも及ばぬ時を経て、轟音が響き、目も眩む閃光が爆発し、衝撃が木々を吹き飛ばし、土埃を巻き上げた。
無限とも思える凶暴な時間はものの数秒で収まり、光と煙が晴れて露わになったのは、衝撃で折れた木々と、巻き上げられて荒れた地面。
そして、
『ぐ、あ……っ!』
荒れた地面に落ちて苦悶する、エリッサだった。
『っ……な、何が……』
『あんな大きな術を使った後で、しかも一瞬で防御結界を張れるなんて』
盾にしていた薄板をどかしてエリッサの姿を確かめたアレクシアは、惜しみない賞賛を送った。
『やっぱり貴方は凄いわ、エリッサ』
『……っ、き、貴様……』
惜しみない賞賛なのに──現状は、全く一致していない。
聖剣はどこかに取り落とし、全身土砂と埃、そして血にまみれ、さらに煙まで上げて蹲り──無残としか言いようのない姿となったエリッサ。
対してアレクシアは、土砂や埃こそ被っていても、傷らしい傷など無い。
『何をした……っ』
『大したことはしてないわ。私は、この板を盾にして隠れただけ』
屈辱と憎悪に満ちたエリッサの視線を受けて、しかしアレクシアは、少しも怯まず、薄板を背後の岩壁に立てかける。
実際、アレクシアは地面を踏みつけ、隠していたこの板を跳ね起こし、それを盾に窪みに隠れてエリッサの法術をやり過ごした──それだけだった。
『バカな……そんな薄板で』
『もちろん、仕掛けはしてあるわよ……こんな感じでね』
アレクシアは、周りを示す。
盾に使った一枚だけでなく、同じ薄板が周りの地面や背後の岩壁に張り付けられていた。それも、十や二十では収まらない数が。
土や砂をかぶせて隠されていたそれらは、エリッサの法術を受けて露わになり、西日を受けて鈍色の光沢を放っていた。
『霊鏡石というらしいわ。簡単に言えば、法力や魔力を跳ね返す性質を持つ魔鉱石だって』
*****
天才法術師のエリザヴェータ・シュトロア──その才覚によって繰り出される攻撃法術は、並の法術師では防御すら期待できない。
ならば、それを逆手に取る。
『つまりさ──アイツに法術を使わせるのさ。それも、一発で決着するような、飛び切りデカい奴をな』
『無論、然るべき時、然るべき場所、然るべき……そのような状況に誘い込むことが前提じゃ。されど、そのあたりはアレクシア次第じゃ。あの娘の性格を冷静に見極め、見事出し抜いてみせい。冷静にな』
蒼真は悪徳商人みたいな顔で意見し、燐耀は悪徳貴族のような顔で、本物の霊鏡石を用意した。
アレクシアは、用意された霊鏡石を元に錬成法術で複製していき、複製した霊鏡石を然るべき場所に仕掛け、それを隠すために周囲の色彩に合わせた布や土砂で覆いつつ、エリッサを然るべき形にまで誘き寄せるための流れを考えた。
エリッサなら──エリザヴェータ・シュトロアなら、と。
そしてそれらは、見事に成功した──想定していた以上に。
『そんなもの……何故こんな大量に……』
魔鉱石の類は稀少であり、しかも〝聖断鎚〟のような第一級攻撃法術をそのまま跳ね返せるような高純度の鉱石となると、そう簡単に手に入る代物ではない。
それが、周辺一帯に敷き詰められるほど大量に用意されている──エリッサが驚くのは、無理もないだろう。
『もちろん、本物じゃないわ。霊鏡石の法力反射の特性だけに特化させる形で錬成した、そこらのただの石や岩よ。価値なんてないし、一度使ったらこの通りだし』
霊鏡石──の模造品は、役目を終えたとばかりに崩れ落ちていき、粉のように風に乗って飛んでいく。地面や岩壁に仕掛けたモノも同様に。
『複製、複製だとっ? まさか、貴様……っ』
『貴方もよく知ってるでしょ。私は法力の放出がとても小さいから、適正は錬成や細工だけだった。だから、私にできることは、これくらいしかなかった。でも……』
エリッサの姿を、アレクシアは改めて確かめ、
『ここまで効くとは思わなかった』
エリッサを驚かせて鼻を明かせれば御の字──アレクシアとしては、その程度にしか思っていなかったから。
『……っ、何、だ、その目は……っ』
エリッサは立ち上がろうとして、しかし足がもつれて膝をついてしまう。立ち上がることすら、ままならないらしい。
そんなエリッサを、アレクシアはただ静かに見据える。全身血塗れで蹲る無様な姿は、しかし演技や幻でないことは間違いないようだ。
『貴様如きが私を見下ろすな……そんな目で見るなぁっ!』
憎悪と屈辱で喚くエリッサの姿は、滑稽極まりない。元が美しいから、余計に。
跪いて見上げるエリッサと、それを見下ろすアレクシア──その構図は、神聖帝国にいた時と、完全に逆転していた。
『……やめてよ……』
なのに──アレクシアの口から漏れたのは、
『……もう、やめて……っ』
痛みを押し殺したような懇願だった。
『帰って、帰ってよ……貴方なら、使える法力はまだ残ってるんでしょうっ』
アレクシアはその場に膝をつき、両手も額も地面に擦りつけ、呻くように懇願した。
『お願いでございます……っ! 急ぎお帰りくださいっ! 金輪際、この出来損ないめに関わらないで下さいっ! シュトロアがご息女、エリザヴェータ・シュトロア様っ! お願いでございます、お願いでございますっ!』
膝をついたエリッサよりも、さらに身も頭も低くして。
エリッサを、視界に入れないように。
神聖帝国の頃よりも、さらに低く。
今のエリッサを、これ以上見たくない──それが、今のアレクシアの偽らざる本音であった。
『き』
それが、今のエリッサにとって、最大級の侮辱であったとしても。
エリッサの屈辱を、更に上塗りするとしても。
『貴様ぁああああああああああああああああああああああっ!』
怒号と共に濃密な殺意と膨大な法力を乗せて放たれる。
明快な答えに、アレクシアは奥歯を削るように噛みながら、地面に着いた手を通じて法力を送り込み、仕込んでいた術式を起動。
『あ?』
円柱に成形された岩が打矢のような勢いで飛び出し、その上にあったエリッサの顎を直撃した。
大きく仰け反ったエリッサはぐるりと白目を剥き、そのまま仰向けに倒れ伏す。構築途中だった術が、法力の光となって儚く霧散していった。
注意深く歩み寄り、死んでいないことと完全に落ちていることを確認。
「……っ」
それで弛んだのか、途端に強烈な疲労感が襲い掛かり、堪え切れずに膝をついた。
友人などと思ったことは一度も無く、ねじ伏せることを何度も夢見て、それがついに実現した。
なのに、
『……何よこれ……』
笑いも、涙も出てこなかった。
想像していたような喜びなど少しも湧かず、満足感も爽快感も、ましてや優越感や達成感など、欠片とて無かった。
それどころか、自分の中にあった大きな何かが一気に消えてしまったような、酷い喪失感しか無かった。
「お疲れ様」
労いの声と共に、アレクシアの肩に手が置かれた。
「……鏡華……?」
「そうです、鏡華なのです。奇跡の復活を経て戻ってきたのでありま~す」
と、鏡華は悪戯っぽく笑って見せながら、親指を立てた。
エリッサから受けた雷撃など、無かったかのように。
