斯くて少女は、新たな一歩を踏み出す 二章
二章 ~広がり始める世界~
2-1:静謐なる朝
母屋から離れた建物──〝道場〟という板張りの鍛錬場で、アレクシアは蒼真と対峙していた。
互いの得物は、〝竹刀〟と呼ばれる、竹という植物を加工した稽古用の剣。
「ふ──っ!」
先手はアレクシア──一気に間合いを詰め、短い裂帛の気勢でもって、竹刀を振りおろす。対して蒼真は、竹刀を中腰から振り上げる。
冷たく澄み切った朝の空気に、竹刀同士がぶつかる乾いた音が響き、
「っ?」
蒼真の竹刀が弾かれる。それが床に落ちるよりも先に、アレクシアは追い打ちを掛けるべく更に踏み込み、
「ぶぅっ?」
振り上げられたレイヤの左足が、アレクシアの顔面──正確には、鼻先にめり込んでいた。更に、
「だっ?」
弾き飛ばされたレイヤの竹刀が、思い出したようにアレクシアの頭に落ちてきた。
「~~~~~~~~っ」
膝をついた途端、鼻の奥から強烈な痛みが、遅れてやってきた。アレクシアの目の前に、いくつもの星が飛び交う。
そんなアレクシアをしり目に、蒼真は床に落ちた竹刀をつま先で跳ね上げ、
「お前は、どうも詰めが甘いっつうか、正直過ぎるんだよな~」
宙に跳ねた竹刀を器用に掴んだ。
「なまじ鍛えられてるから、余計にな」
鍛えられてる──事実、アレクシアは実戦剣術を学んでいる。それも、同年代の中では男相手でも負け知らずだった程の腕利きである。なので、異国の武術というのも興味が引かれた事もあり、揚々と朝稽古に臨んだ。
そして二週間──竹刀を当てるどころか掠めることすら、ただの一度も無かった。
蒼真は武芸達者な上に、非常に狡猾だった。
剣はもちろん、拳や蹴りだけでなく、投げ技やら固め技まで絶妙かつ柔軟に使ってくる。ともすれば、卑劣卑怯だの反則だのと謗られることまで、躊躇うことなく。
「け、剣ノ勝負で蹴りナンて」
「だから、剣の勝負じゃねえっつってんだろ」
飛び交う星に目を回しながらもアレクシアは抗議するが、蒼真は面倒そうに遮った。
「ウチでやってんのは、やったもん勝ちのガチンコで……て、この二週間、何度も何度も言っただろうが」
「そ、そんナふぐっ?」
言い返しかけて、何かが込み上げる感触と、鼻先から漏れ出そうな感触に、アレクシアは慌てて言葉ごと飲み込む。鉄臭い味と臭いに、思わず顔をしかめる。
「あ~あ~垂れてんぞったくっ」
蒼真は、早足に隅に置いてあった箱を持ってきて、中から引っ張り出した薄い紙をアレクシアの鼻先に押さえつける。が、間に合わず二、三滴落ちて、〝道着〟と呼ばれる鍛錬服の白い布地に、赤い点を描いた。
「二人とも、そろそろ……あらら~今日は鼻血ぶ~しちゃったのね~」
手拭いを持ってやってきた鏡華は、アレクシアの様を見るなり吹き出した。ちなみに、昨日は口の端を切り、その前は転ばされた拍子に額を擦りむいた。
「蒼真は今日から新学期でしょ。早く後片付け済ませなさい」
「あ~そうだったな……」
放られた手拭で汗を拭きながら、蒼真は竹刀を壁掛けに戻すと、隅に立てかけてある雑巾を手に取った。
「鼻血を撒かれたら面倒だ。今日の掃除はやっといてやるが、明日はお前がやれよな」
面倒そうな悪態を吐きながらも、蒼真はテキパキと掃除にかかる。
態度こそだらけているが、蒼真は腕は確かである。アレクシアと一緒にやるより、蒼真が一人でやった方が仕上がりが良いくらいには。
アレクシアは、一瞬迷ったものの結局蒼真に甘えることにして、鏡華と道場を後にした。
鼻血が垂れ落ちないよう、頭を仰向けにしつつ。
*****
朝の鍛錬の後は朝食──の前に風呂である。
最初に、汗や汚れを軽く落とす──風呂に入る際に望ましいとされる、手順だが礼儀だかを踏んでから、アレクシアは湯船につかり、
「いっ」
新しく出来た打ち身に、暖かい湯はやけに滲みた。それをしばらく堪えて、
「はふぅ~~~~~」
ようやく、ため込んだ諸々と共に、深々と吐き出す。この二週間で、そんな年寄りじみた習慣が、すっかり身についてしまった。
(……それにしても……)
アレクシアは、湯船に目を落とす。
風呂──もちろん、神聖帝国にもある。
一人用の小さなモノから、十人同時に両手両足を伸ばしても余るくらいの巨大なモノまで。
そして、大きさの分に比例して、かかる手間も増える。
神聖帝国の風呂とは、浴槽に満たした水を法術によって温める仕組みで、当然ながら術者の力量に左右される。規模が大きくなれば数人がかりで沸かす必要があり、特に皇族や高位貴族が使うような代物ともなれば、専属の係もいる程であった。
もちろん、一人で入る分には、本人の法力だけで充分なのだが、それでも手間がかかることは違いない。アレクシアの場合は、尚更だった。
「……それに比べて」
アレクシアは、壁に取り付けられている操作盤に目を向ける。
あれを指一本で操作すれば、あとは機械が全てやってくれるのだった。湯沸しはもちろん、必要な量を必要な分だけ浴槽に湯を張り、水温を維持し続ける作業まで。
機械とは便利なモノ──否、そんな便利な機械を作る陽出の文明が、恐ろしいほどに発達している。
(むしろ……神の加護と寵愛を受けた神聖帝国の方が……)
「早くしろ~、後がつかえてんだからよ~」
扉の向こうから蒼真に急かされて、アレクシアの思考は中断された。いつもなら、もう少しくらいは入っていられるはずなのだが。
「今日は……つうか、今日からはのんびり出来ねえんだ。幸せ気分のところ悪ぃが、もう上がってくれや~」
「ハ~イ」
残念ながら、至福の時間はお終いらしい。アレクシアは、いそいそと風呂場から出て、
「え」
扉を開ける音で気づいたか、蒼真が慌ただしく入りこんできた。
そして、丸裸で凍り付いたアレクシアなど見向きもせず、そもそも認識すらしてないかのように服を脱ぎ棄てて、
「おいボ~っとしてんなよ、さっさと出ろ出ろ」
と、アレクシアを押しのけて風呂場に入った。
悲鳴も文句を言う暇も無かった。
「……え~」
いや、蒼真がこういう奴だということは分かっている。似たようなことは、今まで何度かあったが、いつもこんな調子である。
しかし、何と言うか、
(なんなのよ、この……釈然としないというか納得いかないというか)
「ゴメンね、アレクシアちゃん」
悶々とするアレクシアの肩に、慈愛の笑みを浮かべた鏡華が優しく手を置いた。
「本当に、どうして、うちの子はこんな風になってしまったのかしらね~」
そして慈愛の笑みを浮かべたまま、静かに風呂場の扉を開けた。
「あ?」
湯を頭から被っていた蒼真は、怪訝そうな顔で振り返り──すぐに鏡華が、後ろ手で扉を閉めたため、そこからの詳しい事は分からない。
「ちょ、なんだよおい」
ちなみに──鏡華は、蒼真以上の達人である。
以前、手合わせをした時など、竹刀を弾き飛ばされるだけ(・・)なら良い方で、気づいた時には、天井を仰ぐか床板を舐めていた。何をされたのかすら、分からないまま。
「いやせめて顔はやめぇえええええぎゃあああああああっ!」
蒼真の悲鳴と、その合間に聞こえる諸々の音が、全てを物語っていた。
この後──顔以外を痣と傷だらけれにした丸裸の蒼真が、鏡華に踏みつけられる形でアレクシアに土下座したのは、言うまでもない。
2-2:一般常識(陽出の)
「ったく、朝っぱらから何でこんないちちっ」
痛みの呻き交じりにぶつくさと文句を言いながら、蒼真は朝食に手を付け、
「はいダメっ! やり直しっ!」
その手を、鏡華がすかさず叩き落とした。
「いつも言ってるでしょ。お行儀良く、よ。蒼真は、ただでさえ口も態度も悪いんだから」
「せめてお行儀だけでもよくしろ、だろ。はいはい、わ~っかりましたよ~っと」
蒼真は、両手を合わせて、食事に向かって頭を下げ、
「いただきます」
厳かに言うと、静かに食べ始めた。
食前に祈りと感謝を捧げるのは、神聖帝国でも同じだが、捧げる相手は全く違う。
神聖帝国においては、全能にして万物の創造主──すなわち神(・)に対して。
一方、陽出においては、用意した者や食材を作った者、届けた者──すなわち、人類や魔物達に対して。
その思想もまた、ここに来てからアレクシアが驚かされたものの一つだ。けれど、いるかも怪しい存在に感謝するより、はっきりと存在している者達へ感謝した方が、今はしっくりしている自分がいた。
「ごちそうさん、と」
蒼真は静かに、しかし素早く朝食を平らげると、食べる前と同様に手を合わせて挨拶し、直後に席を立って手早く片づけを済ませ、自室に戻ってしばらくしてからまた出てきた。
ここまでで、僅か五分足らず──いつもの見慣れた野暮ったい部屋着は、取り澄ました儀礼的な服に打って変わっていた。
そのおかげか、いつもはだらしない蒼真の姿が、少しだけまともに見える──あくまで、少しだけ〟だが。
風呂場でのドタバタのせいか、しかめっ面な上にちょっと青ざめているせいで、折角のまともな装いが台無しになっている。
「×××……い、行ってらっシャイ、気ヲつケて」
玄関まで見送りに来たアレクシアは、出かかった帝国語を慌てて引っ込め、すぐに陽出語に言い直す。会話は生活の基本ということで、常に陽出語で話すように心がけているのだが、今のところは何かの拍子で帝国語が出てきてしまうのだった。
「……はい行ってきま~すっと」
蒼真は青い顔でのそのそとに出かけていった。足取りが微妙に怪しいが、大丈夫だろうか。
「大丈夫よ」
と、元凶の鏡華は、あっさりと言った。
「あのくらいでどうにかなるような、ヤワな鍛え方はしてないわよ。私もそうだし、私の旦那もね」
鏡華は居間の方──天井近くの縁に目を向ける。
そこには、初老に入りつつある男性──二年前に病没したという、鏡華の夫にして蒼真の実父の遺影が飾られていた。
「というわけで、ご心配なく。学校に着く頃には、ケロッとしてるでしょうね」
「ガッコウ……平民が学校に行くノ?」
「そりゃそうよ。あの子はまだ……て、神聖帝国じゃ、そのあたりの制度からして全然違うわけだから……う~ん……」
何やら思案顔すること約数秒──鏡華は、何か思いついたように手を叩き、
「よし。今日からは、そういう小難しい話も混ぜ込んで勉強してみましょうか」
*****
陽出乃国──大陸から東の海上に位置し、大小の諸島群を領土とする島国である。
小国ながら建国から約千年少々と、その歴史は長い。そして、周囲を海に囲まれているという地理もあり、神聖帝国を始めとする大陸諸国とは異なる文化や文明を築いてきた。
法力を持たぬ故の、機械という技術の発達。
強大な力を持つ魔族達との、共存共栄。
様々な種族達の力と知恵を織り交ぜ、複合させ、昇華させる。
そのための、公平平等対等を理念とした政治体制──すなわち、投票によって為政者を決め、為政者は民の意思を代表して政事を進めていく。
「……つまり」
教科書を口に出して読み進めていたアレクシアは、ふと顔を上げる。
「陽出デハ、〝身分〟や〝階級〟は、〝役職〟と同ジ?」
「大体そんな感じの認識で良いわ。で、さっきの話も含めて補足すると」
長方形の座卓を挟んで対面に座る鏡華は、別の本に目を走らせながら答える。
「誰でもどんな学校にも入れるし、どんな仕事にも就けるってわけ。甚だしい例じゃ、神聖帝国で言うところの平民や奴隷階級でも、政治の仕事に就けるってわけよ……さて」
鏡華は本を閉じると、座卓の下に手を突っ込み、
「恒例好評の抜き打ち試験と行きましょうか」
取り出したのは、びっしりと問題が書き連ねられた紙。もちろん、文字は陽出語である。
「制限時間は三十分。用意……始めっ」
宣言と同時に、時計をアレクシアの前に置いた。アレクシアは、急いでペンを取って問題に取り掛かる。
用意された本を声に出して読み、区切りの良いところで止め、読んだ範囲を素早く整理、不明な点や判然としない部分は鏡華の補足説明を受ける。
学問の指導としては、単純で典型的。が、それが楽かと言えば、そうは問屋が卸さないのが、高桐(たかぎり)家の人々である。
子供向けの絵本に始まり、基本的な読み書きや算術を教えてから先は、鏡華達が自分からあれこれ言うことはない。進める上での区切りもアレクシア任せであり、補足説明もアレクシアの方から質問しない限りしてこない。つまり、細かい流れはアレクシア自身で考えなければならないということだ。
放任かとも思われるが、アレクシアの質問に対する答えは、的確で分かり易い。アレクシアの調子と理解度を、充分に把握している証拠だ。
そして、数日前から更に段階が上げられ、このような抜き打ちの試験を交えるようになった。
「残り五分~」
鏡華の宣告に、アレクシアはペンを動かす手を速める。
抜き打ち試験は、今回のように区切りの良い所で出してくることもあれば、読んでる途中でいきなり仕掛けてくることもある。そして問題の内容も、その時読んでいる本から出るとは限らず、数日前の内容が出ることもある。読み進めた場所から出題することもあれば、まだ進めていない箇所が出る場合もある。一番最初にやった試験など、むしろその方が多く、惨憺たる結果だった。
それを見た鏡華と蒼真は穏やかに、そして厳しく言った。
『確かに進め具合は任せたけど、それはダラダラやって良いという意味じゃないわ』
『そりゃお前……出来ねえんじゃなくて、怠けてるだけだからな』
それはもう、理不尽に思ったものだった。だが、二、三回繰り返せば、蒼真達の指摘が正しいことを嫌でも思い知った。
惨憺たる結果の主な理由は、実際に〝怠けている〟の範疇だったから。
『これでいいか』
『まあいいか』
そんな甘えを、鏡華も蒼真も決して見逃さない。なので、アレクシアも決して気を抜けないのだった。
そして、その甲斐はあった。
「デキタ」
「二七分と三十秒ちょい……やるようになったじゃないのよ」
と、感心したように頷くと、アレクシアの差し出した解答紙を確認していき、
「肝心の出来栄えは……今日は、〝もっと頑張りましょう〟かしら」
赤く彩られた解答紙を見せる。○が六割、△が三割強、×が少々というところ。
「いつも通り、間違えた所はきちんと直してね。出来るまでは、オヤツもゴハンも抜きよ」
優しく笑って言うが、鏡華も蒼真も本当にやる。
高を括って放置しようものなら、昼食はもちろん夕食も抜きにされる。ただのやり直しだと思って、手を抜くことは間違っても出来ないのだった。
空腹の辛さなど、神聖帝国の牢屋だけで、もう充分だった。
2-3:龍の姫
今回の間違いは、単なる見落としや記述のし損ないばかりだったので、訂正箇所はすぐに把握できた。おかげで、昼食もおやつも食べ損ねることは無い。
しかし、アレクシアのすることは、当然ながらお勉強だけではない。そもそも、おやつ抜き食事抜きを免れても、実物現物が無ければ意味が無い。
なので、
「それじゃ買い出しお願い。何を買うかは紙に書いて、財布に入れてるから」
昼食後の茶を飲み切ったところで、鏡華は入り用品を入れる大きな背嚢と財布を渡してきた。
「何度も言うけど、言葉と浮揚機には気を付けるのよ。お釣りは誤魔化さないでね。それと……あら?」
世話焼きな母親ぶりを見せていた鏡華が、不意に座卓に目を向ける。
そこには、身なりの良い人類の紳士を小さくした幻影が浮かんでおり、誰に向けるでもなく語っている。
これも機械の一種で、遠く離れた音や情景を送受信する代物だという。今見ているのは、最近の時事や今後の情勢を、不特定多数の相手に伝える番組とのこと。
知らない単語もかなりあるので全容は分からないが、断片的に聞き取れる限りでは、あまり穏やかな話ではなさそうだ。
「ここ二、三日の間に、盗んだり無理やり奪い取ったりするって奴が現れてるらしいわ。しかも、まだ捕まってない上にウチの近くみたいね」
鏡華が、眉を顰めながら要約する。確かに、世話焼きな母親でなくても心配するような、物騒な話である。
「寄り道するな、とは言わないけど、ほどほどにね。遅くても夕方までには帰ってくるのよ。何かあったらすぐに連絡すること。ケータイは大丈夫?」
言われて、アレクシアは上着のポケットから板状の機械を取り出す。
表面に触れると、色とりどりの絵柄の幻影が、中空に浮かび上がる。
携帯情報送受端末──通称〝ケータイ〟と呼ばれる機械で、同じ機械を持つ者同士との会話を始め、様々な情報をこれ一つで送受信できる、陽出の技術の結晶である。
「ダイジョウブ」
アレクシアは、ケータイの動力が最大であることを確かめると、それをポケットにしまい直して、背嚢を背負った。
「それじゃ気を付けて」
鏡華の見送りを背にして母屋から出たアレクシアは、浮揚機の傍に置かれている〝自転車〟と呼ばれる乗り物に跨った。
足踏み板を漕いで前後に並ぶ二つの車輪を回して進むという仕組みで、よほど運動神経が無ければ小さな子供でもすぐに乗れるとの事。アレクシアも庭先で二、三度転びかけたものの、すぐに乗れるようになった。
「こんに、チ、ワ」
高桐邸を出てから走る間に、近所の住民達とすれ違う。
「はいこんにちわ~」
「お喋りも自転車も上手くなったね、アレクシアちゃん」
「今日もかわいいよ」
発音も区切りもかなり怪しいアレクシアの言葉に気にせず挨拶を返してきたのは、人類だけではない。
角が生えている者、翼をはばたかせて飛び回る者、耳が長い者、半身が人で獣であり虫であり──様々な種族が、当然のように通りや空中を行き交っている。
魔族達の隣近所で普通に生活し、魔族達と普通に挨拶し、魔族達と普通にすれ違い──二週間前までは、想像だって出来なかっただろう。
二週間という時間に付けるのが〝もう〟なのか〝まだ〟なのかはともかく、いちいち驚かなくなるには充分すぎる時間だった。
〝慣れる〟ではなく、〝諦める〟という意味でも。
それほどまでに──神聖帝国と陽出は、違いがあり過ぎた。
余りにも、格差があり過ぎた。
〝混沌の坩堝〟、〝国〟と呼ぶのもおこがましい穢れた野蛮人と魔族の群れと称されてきた陽出の文明と秩序は、神聖帝国の遥か先にある。
だからこそ、様々な疑問が湧いてくる。例えば、
(……どうして、こんな国が攻めてきた? そもそも、どうして今まで神聖帝国は無事だった?)
神聖帝国は、幾度となく陽出からの侵攻を受けている。終結やそこに至るまでの過程は様々だが、その戦端を開いてきたのは、全て陽出の方であった。
〝混沌の東地〟に住まう者は、果てなき欲望で動く穢れし野蛮である故に──ということだが、実態を比べれば、ともすれば神聖帝国の方が野蛮に思えるくらいだ。
(いえ、むしろ……これじゃまるで……)
などと──物思いに耽っていたものだから、前への注意が疎かになってしまった。
「っ!」
目の前に迫ってきた人影に、アレクシアは減速器を握り締めた。急減速は、しかし間に合わず、勢いのまま人影に突っ込み、
「何じゃ?」
相手が突き出した足が、自転車の前輪に触れると、嘘のように停まった。アレクシアを乗せたまま。
「親や教師に習わんかったか? 乗り物に乗る際は運転に集中せよ、と」
何やら説法らしいことを言っているが、アレクシアはそれどころではない。
「……っ!」
出かかった悲鳴は、しかし出ることは無かった。
目の前の魔族から発せられる強大すぎる魔力は、それだけでアレクシアを凍り付かせるには充分すぎた。
*****
銀色の髪、金色の瞳、猛々しい双角──人類の娘に近い、しかし人類の娘など足元にも及ばない優美な姿を持つ亜人。
だが、その優美な姿以上に、溢れ出る魔力の凄まじさは、〝亜人〟や〝魔族〟という括りを明らかに凌駕している。
神聖帝国においては、そのような存在をこう呼ぶ。
〝魔王〟と。
「何を呆けとる? 妾はこれでも、いつまでもこうしていられるほど、暇ではないぞ?」
そんな声がかかり、アレクシアはようやく我に返った。そして、亜人の娘の片足がいまだに自転車の前輪を支えたままだったことに気づいた。
「ゴ、ゴメンナ、サイ」
と、アレクシアは慌てて自転車から降りて、
「あ……っ」
足がもつれて尻をついてしまった。
「何じゃ、しっかりせんかい全く……」
呆れるように言いながら、亜人の娘は素早く自転車の支柱を立てて停めると、アレクシアの腕を取って引き起こした。
アレクシアはどうにか立ち上がるが、足の震えは止まらない。しかも、急な尿意を覚えたものだから、決壊しそうになるのを必死に押し留めなければならなかった。
「大事にならずに良かったのう」
そんなアレクシアの──特に膀胱の危機的状況を知ってか知らずか、娘は穏やかに微笑み、
「次からは気を付け……む?」
何かに気づいたのか、アレクシアを目を細めて見据える。
「な、何デショウ?」
「……そなた……ふ~む」
思わず身を竦ませるアレクシアを、相手は金色の瞳で捕らえたまま何やら思案し、
『神聖帝国の貴族……それも、指折りの大家のご令嬢とお見受けするが?』
「っ?」
娘が発したのは、二週間ぶりに聞く、流暢な帝国語だった。
「やはり、〝フローブランの迷子〟とは、そなたのことじゃったか」
アレクシアの驚きを見逃さず、亜人の娘は納得したように頷くと、恭しく頭を下げ、
「申し遅れた。この身は、皇龍が長──天凰が娘、燐耀と申す」
「コウリュウ……?」
「帝国語に訳すならば、〝龍の統率者〟とか〝龍の帝王〟というところかの」
2-4:異郷の学生達
龍──この世で最も強大とされる種族の一つ。
幼体でも強靭な肉体と生命力を誇り、成体ともなれば高い知性まで兼ね備え、例え大軍を擁しても屠ることは困難を極め、果ては天災そのものとまで称された伝説まである。
そんな伝説の種族の統率者だの帝王だの──〝魔王〟も〝天災〟も、決して大げさな肩書ではないということを、目の前の実物ははっきりと物語っていた。
「そなたの事は、話に聞いておった」
魔王にして天災は、しかし穏やかな笑みで話しかけてきた。
「鏡華は心配なかろうが、蒼真と一つ屋根の下では、気苦労も多かろうて」
「貴方、蒼真のトモダチ?」
「友というよりは腐れ縁……付き合いが長いだけの仲じゃ」
燐耀は、うんざりしたように肩をすくめる。
「正確には、高桐と我が一族が長い付き合いでの。その流れで幼少期からの付き合いで、今や学び舎まで同じにしとる」
学び舎──蒼真と同じ学校に通っているということらしい。よく見ると、彼女が来ている服の胸元にあしらわれている徽章は、蒼真が来ていた制服にも同じものがあった。
「龍も学校デ勉強スルの?」
「当然じゃろう」
アレクシアの驚きがかなり不本意だったらしく、燐耀は眉をひそめる。
「妾のような若輩が、〝修学不要〟などと、どの口で言えるものか。神聖帝国はどうだか知らぬが、陽出の進歩はただでさえ目覚ましいものじゃて。例えば、これとかの」
燐耀が制服のポケットから取り出したのは、小さな機械──形は少々違うが、ケータイだった。
「次世代型──設計段階から見直した新たな機種が、開発されておる。早ければ来年中、遅くとも再来年の始めには、世に出回るそうじゃ。妾のコレは、先月買い換えたばかりの最新型だというのにの」
「来年……」
機械には詳しくない。しかし、その進歩の速度が凄いことくらいは、アレクシアにも理解できた。
「そうじゃ。新しいと思いきや、あっという間に〝昔〟どころか〝太古〟の存在になりかねん……あのように怠けておるとな」
燐耀の視線を追った先──網状の高い柵の向こうで、木を枕に眠りこけている蒼真がいた。
*****
柵の向こうの敷地内には大小さまざまな建物が立ち並んでおり、人類のみならず様々な種族が肩を並べて動き回っている。見たところ、少年や少女と言って良い年代の者が多く、彼らが来ている服は、形こそ種族や性別によって多少異なるが、共通して同じ徽章があしらわれていた。
「ココが、蒼真と燐耀ノ学校?」
「そういうことじゃ」
と、燐耀は軽々と柵を飛び越えると、蒼真に歩み寄り、
「これっ、起きんか不良学生」
と、つま先で蒼真の頭を小突く。
「……あ~……?」
蒼真はうっすらと目を開け、
「何だ、リン子か……」
どうでも良さげに再び目を閉じ、ごろりと燐耀に背を向ける。
「……燐耀じゃ」
そんな蒼真の襟首を、燐耀は舌打ち交じりに引っ掴み、軽々と持ち上げて木に押し付け、
「何度言えば分かる? 妾の名は、燐耀じゃっ!」
「とかいう立派すぎる名前が面倒だから、普段はリン子で通ってんだろ」
「燐、耀、じゃっ!」
居丈高に名乗りを上げると、魔力とは別の、強烈な威圧がアレクシアを凍り付かせた。アレクシアだけでなく、談笑していた他の学生──特に、魔力への感受性が高い亜人たちが、会話や足を止めて振り向いた。そしてすぐに、納得するような仕草や表情を見せながら、各々の動きに戻っていく。どうやら、この二人のこのようなやり取りは、いつもの事らしい。
「ああ、分かったから落ち着け落ち着いてくださいませ龍のお姫様~っと」
蒼真は、吊り下げられたまま、ふざけた調子で燐耀をなだめると、網の向こうにいるアレクシアに目を向け、
「で、お前はンなとこで何やって……て、お袋の使い走りってのは見りゃ分かるか」
背嚢と自転車に気づいて、蒼真は納得したように頷く。
アレクシアは、蒼真の性格と今の状況を考え、
「蒼真は、何しテル? 勉強から逃げテ、お昼寝?」
「……お前は俺が授業をサボる不良学生に見えるのか?」
「見エル。トテモ、凄く」
アレクシアは、深々と頷いて即答した。普段の蒼真の行いを思えば、何を迷う事があるのか。
「……あ~そすか~」
アレクシアの微塵の迷いの無い即答に、蒼真は返す言葉を詰まらせた。
「帝国の娘も言うではないか」
と、燐耀は小気味よく笑うと、吊り下げた蒼真を軽く揺らし、
「それに、事実じゃろう? そなたが遅刻、サボりの常習犯というのは」
「……今は昼休みだ。昼寝して何が悪い?」
蒼真は、むっつりと吐き捨てる。
実際、他の学生達は談笑したり読書をしたり食事をしたりと、いわゆる〝授業の風景〟ではないから、休み時間であるのは確かなようだ。
「……昼休みだけなら、のう~」
燐耀は、ぐいと蒼真に顔を近づけ、
「そのまま眠りこけて午後の授業に遅れるのは当たり前っ! 下手をすれば、放課後まで寝こけておるではないかっ!」
驚きはしなかった。むしろ、蒼真ならありそうだと、妙に納得できる。しかし、そこまで考えが及ぶと、当然の疑問が浮かんだ。
「いつもソウイウコトしてる、なら、トテモまずい、と、オモウ」
「……ところが、大丈夫なのじゃよ。こやつの場合、残念なことにのう」
本当に残念とばかりに、燐耀は深々と溜息を吐き出し、
「こう見えても成績は優良で、成すべきこともきちんとこなしておる。故に、あまり強く出られぬのじゃ。全く、タチが悪いことこの上ない」
「失礼だねチミ? 世渡り上手と言ってくれたまへ~」
ふざけた調子で茶々を入れる蒼真に、燐耀は再び深々と溜息。もはや怒りを通り越した諦めの感情に、アレクシアは柄にもなく同情の念を覚えた。
「む? 予鈴じゃな」
建物の最も高い位置に設置から響いた鐘の音に、燐耀は残念そうに肩を竦め、
「アレクシア、じゃったな。もう少し話したかったが、そういうわけじゃ。いずれ茶でも飲みながら、ゆっくり話そうぞ……と、そういえば、アレクシアは本は読むかの?」
「あ、ハイ」
何せ、学院では足繁く資料室や蔵書庫に通っていたくらいである。
「なれば、時間があるときにでもそこの建物にでも入るが良いて。そなたの世界が、今少し広がろう……では、行くぞ不良学生」
と、燐耀は吊り下げていた蒼真を軽々と振り上げ、荷物のように背中に回した。
「これから楽しい楽しい、お勉強の時間じゃぞ~」
「きゃ~いや~人さらい~犯される~」
「妾に痛めつける趣味は無いのでな。全ては一瞬……そう、一瞬じゃ」
「こ、殺される~っ?」
蒼真の悲鳴を黙殺し、燐耀は蒼真をぶら下げたまま颯爽と去っていく。
その姿が見えなくなったところで、アレクシアは大きく深呼吸。今になって気づいたが、思った以上に身が竦んでいたらしい。手の震えが、まだ止まらない。
その姿が見えなくなったところで、アレクシアは大きく深呼吸。今になって気づいたが、思った以上に身が竦んでいたらしい。手の震えが、まだ止まらない。
こんな状態で走るのはさすがに危ないので、アレクシアは自転車に乗らずそのまま押して道路を横切り、向かいの建物に入った。
ちなみに──建物の入口に掲げられた看板には、公共図書館とあった。
2-5:異郷の歴史
広大な大陸は、二つの地に分けられる。
神の恵みがもたらす豊饒な大地が広がり、神聖帝国が統べる大陸南部。
邪悪な欲望によって不毛の大地と化した、魔族達が跋扈する大陸北部。
この二つを隔てるのが、通称〝大地の障壁〟と称される、大陸中央に鎮座する山岳地帯である。神の生み出した結界とも、古の大戦の爪痕とも言われ、その断崖絶壁は天を突かんばかり。その岩盤は厚く頑強で、割ることも、裂くことも、ましてや貫くことは不可能であった。例え龍や魔王と言えども。
双方を繋ぐ唯一の道は、中央に刻まれた僅かな切れ目──〝死の口〟と呼ばれる深く切り立った渓谷のみ。〝道〟と言っても、起伏の激しい荒れた岩場が続いており、通り抜けるだけでも膨大な労力を必要とする。
だが──それは紛れもない〝道〟。
北を荒らし尽くした魔族達は、恐れも疲れも知らず、過酷な道を通って侵攻してくるのだった。
尽きることのない欲望と、湧きあがる衝動の赴くままに。
故に──魔族は敵。
故に──人類と魔族の間にあるのは、憎悪のみ。
故に──滅ぼすか、滅ぼされるかのみ。
それが神聖帝国の歴史であり、言い回しこそ多少の違いはあれど、どの記録やどんな書物を開いても、要約すればこのような形に帰結していた。
陽出の歴史は、その真逆であった。
非力な人類は、知でもって。
無知な魔族は、力でもって。
手を取り合い、補い合い、共に歩み──そして築かれたのが、陽出という国だった。
当然ながら、その道は決して平坦ではなかった。建国から千年余りという長い時の中で、歴史に残るような大乱だけでも幾度となく起こり、名もない小競り合いはそれこそ数知れず。
理念、思想、価値観、生活環境、食性、体の構造──人類と魔族の違いを全て挙げようとしたら、時間がいくらあっても足りない。ましてや、一口に〝魔族〟といっても、その中で無数の種族が存在する。同じ人類でも、法力を持つ者と法力を持たない者が、存在するように。
魔族と人類の諍いはもとより、思想の違いから魔族同士、人類同士の衝突も、少なくなかった。
ある時は争い、ある時は理解を深め、ある者は離れ、ある者は手を取り合い──それがようやく平定し、今の状態に落ち着いたのが、約百五十年前。その後は、平穏平和を以て繁栄を築いてきた。
陽出の内側に限っては。
*****
「……第八次西洋防衛戦?」
辞書を使って拙い語彙を補いながら読み進める中、アレクシアはその記述に目を止める。
陽出における西洋とは、陽出を中心に据えた上での西側──つまり、大陸側であり、神聖帝国における東側、あるいは東洋のことを指す。
そして防衛戦とは──攻めてきた敵を防ぐための戦いである。
では、攻めてきた敵とは?
「……神聖、帝国……?」
アレクシアの知る歴史とは、はっきりした相違点。
侵略者──すなわち、攻めてきたのは〝混沌の東地〟の者共だったという歴史とは、全くの真逆。
侵略者は神聖帝国の方だったという歴史。
「そんな……」
バカな──否定を切っ掛けに、アレクシアの頭が一気に回転を始める。
まず、第八次西洋防衛戦とされている年号を、神聖帝国の年号に置き換えれば、十二年前の〝東部侵攻防衛戦〟とぴったりと重なる。
あの戦いは、〝混沌の東地〟から侵攻してきた魔族や野蛮人を迎え撃つための戦いだったはず。
アレクシアも、ついこの前まではそれを信じていた。
「……でも……」
否定の要素を探そうとすればするほど、かつて教えられたことが霞んでいく。
今は──陽出乃国という真実を知った後では、神聖帝国で伝え聞いたことに対して、むしろ疑問符が浮かんでいき、
そもそも──神聖帝国と陽出乃国との戦いとは、何だったのか?
その根本的な疑問に行きついた。そして、そんな根本的な事実も知らない、知らされていない事に、アレクシアは今更のように気づく。
それを解き明かすため、アレクシアは席から立ち上がり、
「──っ」
急に立ち上がったせいか、締まりも緩んだらしい。
一度自覚してしまうと、催しの勢いも急に加速した。
アレクシアは、急いで周囲を見回し、その案内を見つけて早足にそちらに向かった。
*****
アレクシアにとって、この陽出という半ば異世界と称しても良い異国での生活は、驚きの連続であった。
しかし──人生において、これほど驚かされたモノは無かっただろう。
「……」
未だに慣れないため、使うのは気が進まないのだが、生理現象に逆らって、しなくてもいい粗相するのはもっと嫌だ。
しかし、便利すぎるのも考えモノ──などと考えながらアレクシアが腰かけたのは、設置された便座である。
つまりここは、便所である。当たり前の、しかし極めて重要な設備である──それにしたって、便座に備えられたこの仕掛けは、良いのか悪いのか判断しかねる。
出したモノを水で流すのは、衛生面から良いことだ。用を足すと自動的に流れるのも、便利でよろしい。腰を下ろした便座が温かいのも、実に良心的だ。
しかし──便器ではなく、使った者の使った部分を洗う機能には、驚きを通り越してある種の衝撃を受けた。初めて使った時など、便所どころか近所中に響き渡る悲鳴を上げてしまい、お節介な隣人方に危うく通報されかかった。
今は、さすがに悲鳴こそ出すことは無くなったし、使った方が清潔であり〝後始末〟も楽ではあることは分かる。
しかし、
「~~~~~っ」
口を押さえ、気合を入れて我慢しながら、アレクシアは改めて思った。
つくづく、便利すぎるのも考えモノ──と。
ともあれ──危うく往来の場で粗相をせずに済んだアレクシアは、ひとまず安心して便所から出て、
「……あ」
まず目についたのは時計。
燐耀に薦められたこともあり、少しだけ見物のつもりだったが、〝少し〟の時間を大きく超えていた。拙い語彙を補うために、いちいち辞書を開いたのも時間がかかった一因だろう。
アレクシアは、弾かれたように図書館を飛びだした。
疑問を解消できなことや便利すぎる便所よりも、鏡華のお叱りの方が、よっぽど怖いのだ。
2-6:楽しいのお使い。そして……
陽出には、たくさんの品を一ヵ所に集めた大型雑貨店や、商店街そのものを一つの建物に入れた複合施設がいくつもある。
なので、ただそこに行って言われた物をただ買って来ればいい──などという甘い指示を、鏡華が出すはずはない。
「えっと、ジャガイモは……」
アレクシアが取り出したケータイをたどたどしく操作すると、いくつもの商店の広告が中空に並んで投影された。
アレクシアは、何度もそれを見回して売値を比較する。一見同じ商品でも、店によって価格に差があり、甚だしいと桁が違うことも珍しくはない。
与えられた予算はギリギリ。手あたり次第にやっていては、目的の品を買いきる前に底を着く。つまり、品物ごとにより安く出している店を探さなければならない。
「と、その前にお肉の方が……」
ケータイのおかげで、値段の比較はすぐに出来るものの、手順を間違えれば何度も往復する羽目になる。買ったモノでかさむ上に重量もそれなりだから、乗り物を使っていても意外に体力勝負。しかも、今回は学校や図書館で道草を食ったために、急がなければならない。
せめて、浮揚機が使えればいいのだが、
『アホ。お買い物どころか、その辺を走り回っただけで事故っちまうだろうが』
『資格とか免許が必要なの。アレクシアちゃんが乗ったら違反……犯罪なの。事故以前の問題ね』
とのことである。ちなみに、資格と免許を取得するためには、そのための教習や訓練を受けて試験に合格すれば取れるとのことだが、それなりの金がかかるとのこと。
(でも、それって……お金があれば、特別な繋がりが無くても、ああいうものが手に入るってことよね)
自分でも──その考えを、しかしアレクシアはすぐに笑って隅に追いやった。いずれにせよ、もっと先の話であり、今はこの自転車で我慢するしかない。
「──っ?」
などと、ケータイ片手にあれこれ考えていたものだから、またしても注意が疎かになった。
交差点にそのままの勢いで突っ切るところで、危うく急制動をかける。その眼前を、浮揚機が結構な速度で通り過ぎて行った。
(そういえば……)
アレクシアは、ケータイを操作して、〝情報の海〟に接続。
その名の通り、膨大な〝情報〟を無尽蔵に内包する、形のない海で、求める情報を瞬時に手元に引き出せる技術である。その辺の蔵書庫などとは比較にならないほど膨大な情報が、非常に手軽に。商店の広告も、ここから引っ張り出した。
アレクシアが検索したのは、最近の社会問題──浮揚機や自転車による衝突事故の多発だった。その主な原因は、ケータイに夢中になるあまり注意の周囲がおろそかになる、〝ながら運転〟であった。
「気を付けないと……」
アレクシアは、ケータイをポケットにしまうと、手に入るのがいつになるかもわからない浮揚機の事よりも、まずは目の前のお使いに集中することにした。
*****
最後の店を出たところで、アレクシアは入り用品を書いた紙と背嚢に放り込んだ現物を見比べ、買い忘れがない事を確認して、安心と疲れた溜息を、深々と吐きだした。
急いだ甲斐はあり、どうにか必要な作業は完了──なのだが、まだ帰り道の問題が残っている。ただでさえ、荷を詰め込んだ背嚢は体積と重量が大きく増しており、道なりに走っては、どんなに急いでも間に合いそうにない。
なので──アレクシアは、商店街を抜けてしばらく進んだところで、その公園に設けられている林道に入った。
木に囲まれていることもあってか、すっかり闇に覆われているが、設置された街灯のおかげで、進む分には問題ない。
裸同然で飛ばされて二週間──あちこちに連れ回され、あちこち使い走りにされたおかげで、このあたりの地理はすっかり頭に入っていた。
「……ふふっ」
そんなことを考える自分に、アレクシアは思わず笑った。
神聖帝国にいた当時は、学院と学生寮を真っ直ぐに行き来する道しか知らなかったのに。どこに何があって、誰が住んでいるかなど、ろくに知りもしなかった。
〝近所〟や〝隣人〟という言葉で連想するのは、陽出の人々と魔族や亜人達ばかり。浮揚機を欲しがったり、ケータイの〝ながら運転〟を気にしたりと、思った以上に異郷の陽出での生活が、アレクシアには馴染みが深くなっていた。
故郷のはずの神聖帝国よりも、ずっと。
だから、
「っ!」
かつては当たり前だった、しかし、ここではあまりにも異質な感触に、アレクシアは息を呑む。
不自然なほどに消えた気配と魔力。まるで、この場所だけが切り離されたような──否、〝切り離されたような〟ではない。
(法力結界っ?)
実際この場は、周囲から切り離され、隔絶されていた。
法力によって展開された、強力な結界によって。
(この法力……っ)
それは、最も思い出したくない、最も会いたくなかった法力の気配だった。だからこそ、間違えようがなかった。
皮肉なことに。
『この程度の仕掛けに、こうも簡単に引っかかるとはな』
二週間ぶりの神聖帝国語──それを耳にして思わず振り返ったことを、アレクシアは後悔した。
