「お気持ち」の作法
ここ数年で「お気持ち表明」という言葉をよく見るようになった。特にオタクコンテンツ界隈に多いのか、SNS一般に流通しているのかよくわからない。以下のような定義らしい。
当人が思っている意見や感情・心境の変化を言葉に表し、ブログやSNSで表現する事を「お気持ち」または「お気持ち表明」と言うようになった。一個人の意見なのに「お」が付くのは「著名人や有力者並に尊重されるべき意見だと思っているんですね、わかります」という皮肉である。
政治やゲーム関係のブログやSNSなどのお気持ち表明は、当人が抱いていた理想と現実が異なっていた事が発端となりやすい。
「お気持ち表明」は批判される傾向があるようだけど、なぜ批判されるのか自分にはよくわからない。一個人の気持ちは尊重されてしかるべきものだからだ。上の説明には「著名人や有力者並に尊重されるべき意見だと思っているんですね」とあるけどその通りでしょう。無名だろうが有名だろうが肩書きがあろうがなかろうが意見は尊重されるものなのに何を言っているんだろう、とずっと思っている。「お気持ち」なんてどんどん表明すればいい。
とはいえ「お気持ち」には読むに堪えないものも確かに存在する。その読み難さがどこから生まれているのかよくわからなかったが、最近になってひとつ気づいたことがある。
読むに堪えないのは、一個人の根拠不明な言説だからではない。一個人の根拠不明な言説を装っておいて、実は自分の話をまったくしていないぼんやりした一般論のことを「お気持ち」と呼んでいるからだ。
世の中にこれほど多く物語が生み出され消費されているのは、他者(自分と違うモノ)への興味からだと思う。あなた一個人の人生の経験や培ってきた価値観は読むに値するもののはずだ。「読むに値する」というのは社会的に正しいという意味ではない。反社会的な経験もあるだろうし歪んだ価値観もあるだろう。でもその醜さや歪みも含めて一個人だし、誰もが持っているもののはず。だから真摯に自分の気持ちを表現しているのならなんの問題もない。その気持ちが反社会的だろうが公序良俗に反していようが「あなたの心からの気持ち」ならば表明すればいい。
しかし、自分の気持ちを表明するのはそう簡単なことではない。気持ちを表明する以前に自分が本当に何を感じているのか見つめる作業が必要だからだ。そのお気持ちが生まれた「私の」根っこは何なのかを探る。この作業をすっとばしてお気持ちを表明しようとすると、どこかから借りてきたような耳障りのいい、または無意味に攻撃的で煽情的な薄っぺらい表現になってしまう。「●●なんて日本の恥」「同じオタクとして恥ずかしい」「被害者が見たらどう思うか」そんなものは読むに堪えない。
役者は日々「自分が本当に感じていることは何か」を探るトレーニングをしている。簡単に手に入るものではない。しかもその気持ちを適切に表現するにはまた別のトレーニングと技術が必要だ。お気持ち表明を甘く見てはいけない。
もちろん、だからお気持ちを表明するなと言っているわけではない。どんどん表明したらいい。ただし前述したようにその言葉は本当に自分の心から発してる言葉なのかどうかを精査してほしい。違っているなと思ったら修正してみてほしい。その面倒なトライ&エラーを繰り返すことでしか物事は変わっていかないんじゃないかと思っている。
あなたが心から自分の気持ちを探って見つけた言葉であるならどんなに単純なものであっても価値がある。もしそれが他者から見て価値が無くとも、自分にとっては必ず価値があるはずだ。レトリックや難しい言葉を使う必要などない。
