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心を含めた「人間のリアリティ」

『パフォーマンス医学』 先読みレビュー11 ゼロの紙/エッセイとコピー。さん

動くという動詞が昔とても苦手だった。

動けない自分を目の当たりにしていたのは、わたしが鬱を抱えていた頃。
鬱の時は、大げさにいうと位相が変わるのが嫌で、その場から離れたくなくなる。ふあんになる。

でも、ほんとうは動きたかった。

快活に暮らしてみたかった。
わたしにとって「動く」とは生きるとイコールだった。動けていないことはまるで生きていないかのような日々だったから。

あの頃のわたしが出会っていたら、心の扉の隙間から鮮やかな陽が差したそんな気持ちになれるにちがいない一冊にわたしは今、出会った。

二重作拓也著『可能性にアクセスするパフォーマンス医学』(星海社新書)

TwitterXで出会わせて頂き、いつもそのポストの言葉に何度も励まされてきたわたしなので、「医学」というタイトルの言葉にびびったりせずに、
ページを開いていた。

パフォーマンスといば、コスパを思いつくのだけれど。

我ながらコスパの悪い人生だ、と来し方を振り返りながら、パフォーマンスという言葉はアスリートだけではなく、わたしのようなささやかな人生を生きている日常生活にも、生きていることを知る。

「性能や機能、業績、成果など多様な意味で使われる言葉でありながら、どれも「実行に関わる」という共通性を持った言葉だと言えるでしょう」

二重作拓也著『パフォーマンス医学』P4



この「実行に関わる」という言葉にわたしは触れる。
コスパが悪いと思っていた過去を振り返りながらも、それは「実行」していた過去に少し救われた気持ちになる。実行、つまり「動けていた」という過去に。

わたしが委ねるように読み進められたのは本書のメッセージである

「誰もがパフォーマンスを向上させられる」

というこの言葉があったせいかもしれない。

「誰もが」

その中には「わたしも寄せてもらっていいのだ」という安堵感があった。

そしてこれは決してハウツー本でもなく。これをやったからうまくいくという、まやかしもないところにも惹かれていた。

「格闘技医学」を提唱する著者の二重作拓也先生が、じぶんの身体と心と常に対話し、時には壁にぶつかりながらひとつひとつ運動を軸にして、つかみ取ってきたプロセスの書でもある。

どんな失敗をして、なにを感じて何に気づいて、また身体実験するかのように実感した方法、なりたい自分に近づけられたかまでを詳らかにしてくれている。

そのプロセスの中で

「誰もが自分の希望(そうあってほしい未来)に近づけるんじゃないか」

という問いかけ。

その想いが積み重なり二重作拓也先生のライフワークとなって、この一冊の果実を得たのだと思う。

「記憶が変われば、想像が変わる。想像が変われば、運動イメージが変わる。運動が変われば、パフォーマンスが変わる。パフォーマンスが変われば見える景色が変わり、感じられる感覚が変わり、身体が変わる」

同書P5


そして「見て動いて試して」とあるように本書は、体感する一冊でもあった。

文章をより体感するために、例えば「手のひらの可動域を感じる実験」が記されていて、それを実践するたびに手や腕に筋肉の在りかを感じていた。

そして、パフォーマンスという言葉が「運動」に置き換えられた時、その「運動」が、体育のあの運動ではない言葉にとってかわった時、わたしはますます、前のめりになっていた。

あの大嫌いだった「運動」に。

ミュージシャンの演奏を「押さえ、刻み、叩き、緩め、こすり、掬い、震わせ」とギタリストの指の動きが描写されたその文章を読みながら、「ああ、
『運動』とは心が動くことの代名詞でもあるのだな」と感じていた。

だからパフォーマンスとは、心を含めた「人間のリアリティ」の表現なのだと。

そしてわたしたちは何のために「運動」するのか、「動詞」で動こうとするのかというと、それはすべて「生きる」ためだと説く。

身体に感じることでしか、理解できないことがあるから、と。

このエピソードからわたしはある日の夕方のことを思い出していた。

見慣れた通りを歩いていた時、ふいに突風に吹かれてちょっと恐怖に襲われたことがあった。あの時わたしは、おおげさかもしれにけれど。助かるために電柱を掴んでいた。この「掴む」という動作も二重作先生の説になぞらえれば、「生きる」ためだったのかもしれない。

そしてブルース・リーの言葉「考えるな、感じるんだ」を引きながら、

「感じて動く、動いて感じる。その途方もない回数の往復が、パフォーマンスを高めていくのでしょう」と結ばれる。

この言葉の後に、本書でふたたび自分の拳を使った実験を教わる。

「脳とは記憶そのもの」であるからその記憶が変わることで想像がかわるのだとリフレインされるその文章はわたしの身体と心に焼きつけられる。

またパフォーマンスを向上させるためには「希望が内在した言葉を自分の中に住まわせる」ことの重要性も説かれている。

これはアスリートだけではなく、SNSに関わらざるを得ないわたしたち現代人にとっても大切なことのひとつだと思った。

本書を読み終えて、ふいに一人じゃない気持になっていた。

読書は本来は孤独な『読む』という運動なのだけれど。

二重作拓也先生が「おわりに」の章で綴られているように、

「誰かの好きな音楽を聴いて、自分もその音楽が好きになるように」

本書『誰もが可能性にアクセスできるパフォーマンス医学』は、先生が様々な方々と出会って来たその道の足跡でもあるのだと知った。

ひとは、じぶんひとりではできていない。
かけがえのない思いがけない誰かと出会って来た、その証がじぶんという人間なのかもしれないと思い至っていた。

わたしのなかにも、あの人やあの人がいる。

本書の言葉を感じるという「動詞」は、「他者を受け入れる」という「運動」がありそこから得た影響を通じて、「記憶の蓄積」が今のわたしをつくったのだと。

拝読しながらなんども「わたしがここにいる」ということを感じていた。

『可能性にアクセスするパフォーマンス医学』。

この一冊はこれからも「生きる」ために記憶を更新しながらちょっと楽しくやっていきたいなっていう「希望」の言葉に満ちていた。

PS、ゼロの紙さんの心がそのまま伝わってくるような素敵なレビュー、何度も読み返しています。ありがとうございます。



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