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アメイジング・レイニー・ソング②



     ○○○


 わたしがアメ兄と初めて言葉を交わしたのは、みぞれまじりの雨が降る初冬。彼のお父さんのお葬式のときだった。
 葬儀は地域の生活館で行われ、アメ兄のお父さんがまだ若かったこともありたくさんの弔問客が訪れていた。通夜振る舞いは宴会のような賑わいで、あちこちで酒瓶が空いていた。お通夜は亡くなった人が寂しくないよう賑やかに過ごすのだと、お酒で顔を真っ赤にしたお父さんが教えてくれた。
 その中でわたしは、ひたすらお母さんにくっついていた。
 親戚はたくさんいたけれど、みんな年が離れていて話し相手がいなかった。お母さんのそばにいても大人の会話がわかるわけでもなく、やがて鯨幕を背もたれに一人で座るようになっていた。
 小さな子どもたちはお通夜の会場を走り回って遊んでいる。わたしはその輪に入ることもできず、自分の膝に顔をうずめていた。そのうちそれにも飽きて、鯨幕をくぐって窓から外を見た。
 その日は朝から雨が降り続いていた。季節は十一月、窓から伝う冷気で床がとても冷えている。わたしは膝立ちになって、窓から外の景色を眺めた。
 窓ガラスについた雨粒に、近くの外灯の光が反射している。キラキラと光る雨粒が万華鏡のように輝き、屋根から落ちる雨だれがぴちゃんぽちゃんと音を立てていた。
「……美綾ちゃん? なにしてるの?」
 ふいに、誰かが幕をめくる。
「寒くない?」
 その人こそがアメ兄だった。
 顔を見てすぐにわかった。彼は葬儀の間、中学校のブレザーに身を包み、涙ひとつ見せず凛と背筋を伸ばしていた。
「みんなと遊ばないの?」
「遊ばない」
 顔を背けるわたしに、アメ兄は「そう」と呟くだけ。すぐにその場を離れると思っていたけれど、彼は隣に並んで膝をついた。
「ぼく、天彦っていうんだ。美綾ちゃんのいとこになるんだよ」
 よろしくね、と微笑む彼は同世代よりも大人びて見えた。父親を突然亡くしたばかりだというのに、顔色ひとつ変えず、まぶたを腫らした様子もない。都会の学校からやってきたという彼は、毎日グラウンドを駆け回る小学校の同級生とは違う、垢抜けた空気を纏っていた。
 彼の存在は知っていたけれど、小学生と中学生では接点もなく、登下校の時に姿を見かけるだけだった。本当は、歳の近いいとことずっと話してみたかった。けれどきっかけが彼のお父さんのお葬式だと思うと、うかつに声もかけられなかったのだ。
「……お葬式の幕って、なんだかピアノの鍵盤みたいだね」
 そう言って彼が幕をめくる。蛍光灯のまぶしさに目がくらんだけれど、目が慣れると窓ガラスに映る葬儀場の様子が見えた。
 お酒を飲み、大きな声で話す大人たち。お花や果物の入った籠が名札とともに飾られている。壁一面に張られた鯨幕は、窓ガラスに映るとピアノの鍵盤のように小さくなっていた。
 彼は窓に手をあて、その鍵盤に指を乗せて軽く動かした。
「……なに弾いてるの?」
「いまのはただの準備運動。なにか聞きたいのはある?」
 そう言われても、とっさに出てこない。悩むわたしに、アメ兄はすこし考えるそぶりをしてから口を開いた。
「いま、音楽の授業でなにを習ってるの?」
「みんなで映画を見たよ。修道院のシスターが、ゴスペルを歌うお話」
「ああ、『天使にラブ・ソングを』だね。面白いよね」
 彼はにっこりと笑って指を動かした。
 音は鳴らない。ただ指が動くだけで、何を弾いているのかさっぱりわからない。そんなわたしを見越して、彼はハミングを口ずさんだ。
 それは主人公たちが最初に披露したマリア様の讃美歌だった。
「……あ、わかった」
「じゃあ歌って」
 言われて、わたしは音楽を口ずさむ。英語の歌詞はわからないため、でたらめなハミングだったけれど、それでも彼の伴奏に合わせて歌っていた。
 やがて曲が終わっても、彼は鍵盤を弾く指を止めなかった。まるで雨音がピアノのように音を鳴らしている。滑らかに動く指先が音階を旋律に変え、やがて彼が口を開いた。
「――アメイジング、グレイス」
 アメ兄が歌ったのは洋楽だった。

 Amazing grace how sweet the sound
 That saved a wretch like me!

 その歌はわたしも知っていた。彼の目くばせに気づいて、わたしはアメ兄の流ちょうな英語に自分のハミングを重ねた。

 I once was lost but now I am found
 Was blind, but now I see.

「……この歌もね、さっきと同じ讃美歌なんだよ」
 鍵盤に指を滑らせながら、彼は言った。
「アメイジング・グレイスっていって、お父さんの好きだった歌なんだ」
 アメ兄のお父さんとはあまり話したことがなかった。お正月やお盆など親戚の集まりで顔を合わせることはあっても、『元気かい?』『学校は楽しい?』と一言二言そう声をかけるだけ。けれど、会うたびに頭を撫でてくれるその大きな手のひらが心地よかった。
 おじさんにも、美綾ちゃんくらいの息子がいるんだ。そう話す横顔が少し寂しげだったのを覚えている。
「お父さんとはあまり長く暮らせなかったけど、僕がピアノを弾くといつもそばで聴いてたんだ。たまに歌詞を口ずさんだときもあるけど、音痴だから恥ずかしいって、小さな声でさ」
 その手は絶えずピアノを弾き続ける。左手が伴奏、右手がメロディ。彼が歌ってくれたおかげで、私は音がなくてもアメイジング・グレイスの音楽が聞こえる気がした。
「親が離婚したのは僕が小さいときだったけど、お父さんはいつも車に乗って会いに来てくれたんだよ」
 彼が住んでいた街まで、車で片道五時間はかかる。けれど父親は数か月に一度の面会日になると、どんなに忙しくても時間を作って会いに来ていたらしい。
「二人でいろんなところに行って、偶然、ストリートピアノの置いてある公園に行ったんだ。いろんな人が代わる代わる好きな曲を弾いて、道行く人がそれを聞いて立ち止まるんだ。それで僕がピアノに興味を持つようになってね」
 ストリートピアノ。わたしたちの住む町にはないけれど、その存在はYouTubeで知っていた。駅の構内や都庁、カフェや公園の一角など、誰もが自由に弾けるピアノの動画はわたしもお気に入りだった。
「二人で会うたびに僕がストリートピアノを見たがっていたら、お父さんが順番の列に並ばせてくれたんだ。弾ける曲なんてチューリップくらいしかなくて、でもお父さんはそれを聴いてとても喜んでくれてさ。それで僕、貯めていたお年玉で中古の電子ピアノを買ったんだよ」
 それを父に内緒にしていたと、彼は言った。
「ピアノ教室には通えなかったから、ネットの動画を探して見よう見まねでね覚えたんだ」
「誰かに教えてもらったわけじゃないの?」
 目を丸くするわたしに、彼は自慢げに鼻を鳴らした。
「ストリートピアノで練習の成果を見せたら、お父さん、すっごい驚いててさ。それから、二人でいろんなところのピアノを弾きに行ったんだ。中学生になって一緒に住むようになったら、お父さんが本物のピアノを買ってくれたんだよ」
「じゃあ、おうちにピアノがあるの?」
「そう。ピアノなんて安いものじゃないのに、お父さんは僕が家に来るのを楽しみにしてたんだよ」
 時折、彼の口からハミングが漏れる。少し掠れた優しい声に、わたしもハミングを重ねて音楽を継いだ。
「本当はお葬式でも弾いてあげたかったんだけど、ここにはピアノもキーボードもないから……」
「じゃあ、わたしも一緒に歌う」
 けれど英語の歌詞がわからない。歯がゆい思いをするわたしに、彼は伴奏を弾きながら再び口を開いた。

 我をも救いし くしき恵み
 迷いし身も今 立ち帰りぬ

 おそれを信仰に 変え給いし
 我が主の御に恵み げに尊し

「日本の賛美歌はこうやって歌うんだよ」
 英語の歌詞と日本語の歌詞、両方を彼は教えてくれる。日本語の歌詞はすんなりと頭に入り、朗々と歌うわたしを見て彼は微笑んだ。
「美綾ちゃんの歌声は綺麗だね」
 綺麗なんて言葉を使われたのははじめてだ。わたしは頬が赤くなるのを感じながら、彼の指先の動きを見つめた。
「……本当はね、わたしもピアノを弾いてみたいの」
「そうなの?」
「春にね、ピアノ教室に行ってみたんだけど、まわりは小さい時から習ってる子ばかりだから恥ずかしくなっちゃったの」
 わたしの町の学童保育は小学三年生までだった。四年生からは塾や習い事をする児童が多く、わたしもピアノ教室の門戸を叩いてみたのだけど、現実に打ちのめされて足が遠のいてしまっていた。軽やかに動く指先に尊敬のまなざしを向けるけれど、アメ兄はそれを受けてすこし困ったように微笑む。
「お母さんと暮らしていた時、僕はいつもひとりだったからね」
 女手一つでアメ兄を育てた母親は、パートの仕事を掛け持ちしてほとんど家にいなかったらしい。
「お母さんは昼も夜も働いていたから、ひとりで留守番することが多かったんだ。電子ピアノはヘッドホンをつければ近所迷惑にもならないし、長い夜の時間つぶしにもちょうどよかったんだよ」
「そうなんだ……」
 ピアノ教室を途中で投げ出してしまった自分が恥ずかしい。けれど彼はわたしの気持ちに気づかぬまま、窓ガラスに映る鍵盤を見つめていた。
「明日の告別式はお母さんも来るんだって。久しぶりに会えるんだ」
「……また、お母さんと暮らすことになるの?」
「どうだろうね、僕は新しいお父さんと仲良くなれなかったから」
 彼はつとめて明るい口調でそう言った。
 アメ兄がこの町にやってきたのは、母親の再婚がきっかけだ。彼のお母さんがどんな人なのか、わたしは知らない。けれど大人たちはお酒を飲みながら、アメ兄についてあれこれと話していた。
 急な事故とはいえ、天彦は誰が引き取るんだ。やはり母親と一緒に暮らしたほうがいいのではないか。けれどまた学校が変わるのはかわいそうだ。じゃあ誰があの子を引き取るんだ。父親とだって一年も暮らしていないだろう。私たちもまだあの子を身内だとは思えないよ。
 大人たちは子どもの前だと油断しているけれど、小学生にもなれば小難しい話も空気でわかるようになる。アメ兄はわざと聞かないようにしているのか、ピアノを弾く指の動きが強くなっていた。
「……せっかくアメ兄と仲良くなれたのにな」
「アメ兄?」
「雨のピアノを弾いてるから、アメ彦兄ちゃん」
 そう呼んだわたしに、彼は指の動きを止めた。
「……だめ?」
「ううん、嬉しいよ」
 彼は再び指を動かしはじめる。その横顔がすこしはにかんでいるように見えて、わたしはまた隣で歌を口ずさんだ。
「今度、ピアノを聴きに行ってもいい?」
「いいよ。好きな曲を弾いてあげるね」
 お通夜の翌日、告別式の日に見たアメ兄のお母さんは、とても綺麗な人だった。彼が人形のような顔立ちをしているのは母親ゆずりのようだ。
 彼と話をする姿は見たけれど、その内容を聞くことはできなかった。中学校の制服を着た彼は、すこし緊張した面持ちで話をしていた。
 葬儀のあとも、アメ兄はひとりでこの町に残った。


       ○○○


 わたしのうまれた町は子どもの数が少なく、地域の小学校を卒業すると、全員がひとつの中学校に進学していた。
 遠い地域の子はスクールバスで通うけれど、わたしは小学校も中学校もすべて徒歩で通える距離にあった。ランドセルを手離し中学校の制服に身を包んでも、小学生のときと同じ通学路を使って登校した。
 入学式の日、いろんな先生がわたしに声をかけた。駒木という苗字に、みんながアメ兄との関係を知りたがった。それは教師だけのことでなく、上級生にまで声をかけられたこともあった。
 中学時代のアメ兄は成績もよく、定期考査では常に上位をキープしていたらしい。生徒会にも所属し、教師陣にも一目置かれる存在だったそうだ。
 わたしの担任になった大浦(おおうら)先生は音楽の教師で、合唱部の顧問をする彼女もまた、アメ兄の中学時代をよく知る人物だった。
「天彦くん、いつも始業式や学校祭で伴奏を弾いてくれたのよ。合唱部に誘ったけど断られちゃって……でも先生、天彦くんのピアノが大好きだったの」
 クラスにひとりはピアノを弾ける生徒がいるけれど、男子でそれができるのはアメ兄だけだった。中学では部活以外でも合唱の機会があり、アメ兄はそのたびに伴奏を担当していたらしい。
 合唱部の活動は音楽室で行われ、ピアノを弾ける部員が伴奏を担当する。部活動見学で音楽室を訪れたわたしは、黒板の前に鎮座するグランドピアノを見て入部を決意したのだった。
 十二月に開かれるクリスマスコンサートは、吹奏楽部と合唱部の合同発表会だった。会場は学校の体育館で、入場料は無料。部員は手作りの招待状を用意し、家族や友人にそれを配っていた。
 防音の効いた音楽室は吹奏楽部が使ってしまうため、合唱部はそれぞれ空いた教室でパート練習をする。音源はいつもカセットテープを使い、ピアノの伴奏がつくのはすべてのパートが揃った合同練習の時だけだった。
「あれ? 美綾、まだ帰らないの?」
 部活終わりに音楽室に向かうわたしを見て、声をかけたのは吹奏楽部の友達だった。
「居残り。もう少し練習したくて」
「そっか、美綾はいつも練習熱心だね」
 部室を同じくする吹奏楽部と合唱部は自然と仲良くなり、それぞれグループになって三々五々帰宅していく。わたしはその人の波を縫い、誰も居なくなった音楽室の扉を開いた。
 音楽室には各部活動の歴代の楽譜が保管してある。クリスマスコンサートで歌うのは奇しくも『天使にラブ・ソングを』で使われていた賛美歌で、ソプラノ・アルト・バスのパートごとにコピーを配られていた。戸棚に保管された楽譜はどれも年季が入っていて、人気の曲はセロハンテープで補修されながら大切に使われているようだった。
 コンサートで最初に歌うのは『Hail Holy Queen』。そして次が「My God」、最後は『I Will Follow Him』と映画の順番通りだった。合唱部が使う楽譜は賛美歌も多く、新入部員の歓迎会で先輩たちが『Jyoiful Jyoiful』を歌っていたのを覚えている。
 楽譜を拝借して、わたしはピアノの前に座る。音楽室にあるグランドピアノはいつも屋根を閉ざしてあり、うかつに触れない神聖な雰囲気がある。わたしはおそるおそる鍵盤蓋を開き、保護の布を外した。
 鍵盤を叩くと、ポーンとひとつ音が鳴った。人差し指で弾くドレミの音が、音楽室の壁に吸い込まれて消えていく。それに耳を澄ませ、音が消えるとまた鳴らした。
 一音一音をゆっくりと鳴らすと、アメ兄の作るからくりを思い出す。彼のからくりはそれぞれ独立した音が積み重なって織りなす演奏だ。わたしのようにピアノが弾けない人間でも、からくりの演奏を聞くと自分にもできるのではという希望を与えるのだった。
 けれど、実際にピアノの前に座ると指が全く動かない。ぽーん、ぽーんとゆっくり音階を探していると、ふいに音楽室の扉が開いた。
「美綾さん、まだ残ってたの?」
 あらわれたのは大浦先生だった。吹奏楽部と兼任している先生は忙しく、合唱部に顔を出すことは少ない。戸締りの時間だったのか、その手には鍵が握られていた。
「いいよ、そのまま弾いてて」
 慌ててピアノから離れるわたしを見て、先生はそう言った。いつもブラウスにフレアスカートと清楚な服装をしている彼女は、音楽室が一番似合うと思う。窓の施錠を確認している間に、わたしはおずおずとピアノの鍵盤を叩き続けた。
「美綾さん、本当は合唱じゃなくて伴奏をやってみたいんでしょう?」
「でもわたし、ピアノ弾けないから……」
「小さいころからやっている子に比べたら大変だろうけど、いまからでも遅くないよ? 合唱部も伴奏できる子がいないしね」
 合唱部は吹奏楽部に比べ部員数も少なく、伴奏は大浦先生が担当している。どうしても人手が足りないときは、アメ兄が助っ人として伴奏をしたこともあるらしい。
「アメ……天彦くんも、このピアノを弾いたことがあるんですか?」
「そうよ。昼休みとか部活のない放課後とか、音楽室の鍵を借りて練習していたの。天彦君は楽譜が読めなかったから、最初はとても苦労していてね」
「そうだったんですか?」
 彼にそんな苦労があったなど知るよしもなかった。アメ兄の家に遊びに行くと、彼は父親に買ってもらったピアノでいろんな曲を披露してくれたものだ。
「小学生の時は、古い電子ピアノで弾いてたそうよ。本物のピアノは運指……指の使い方で音も変わるからね。ピアノ教室に通ったこともなくて、独学で覚えたんですって」
「知らなかった……」
「楽譜を見るよりも実際に聴いた方がわかるみたいで、先生がお手本を弾いて、それを耳で聴いて覚えていたの。才能よね」
 アメ兄はいわゆる絶対音感の持ち主だった。世の中、インターネットを使えばいくらでも音源を探すことができる。その確かな聴力があるからこそ、彼は繊細な雨音を音階に変えるからくりを作ることができるのだ。
「天彦くん、元気?」
 大浦先生はアメ兄が学校に行っていないことを知っている。わたしに探りを入れる先生はほかにもたくさんいた。
「気が向いたら、中学校に遊びにおいでって伝えてくれる? 天彦くんが来るなら、いつでも音楽室の鍵を開けるからって」
「わかりました」
 どの先生も、わたしにそう伝言を頼む。学校に遊びにおいで、困ったことがあったら連絡して。それらすべてをアメ兄に伝えているけど、彼はいつも生返事をするだけだった。
 先生たちはいつもアメ兄のことをほめていた。成績は常に上位で、生徒会にも所属し、行事ではピアノの伴奏を担当する。絵に描いたような優等生の話を、わたしはにわかに信じることができない。あの家でひとり暮らしをするアメ兄は、透明人間であることを除けば、どこにでもいる普通の男の子だった。
 アメ兄はどうしてわたしを避けるようになってしまったのだろう。考えても答えは見つからない。少しでも彼の気持ちを知ることはできないかと、わたしは時間が許すまで音楽室のピアノに触れていた。


「――アメ兄!」
 早朝。誰もいない居間でわたしは声をあげた。
「わたし、今日はずっとここにいるからね!」
 今日は土曜日。部活もなく、友達と遊ぶ約束もしていない。天気予報はくもりのち雨。まる一日アメ兄の家に行くといっても、お母さんはいつものことなので特別不思議がることもなかった。
 あいにくわたしは、アメ兄に「もう来るな」と言われても、素直に従うような聞き分けのよい子ではなかった。
 あれ以来、わたしは時間が許す限りアメ兄の家に通っている。玄関の鍵は開いているため、あいかわらず出入りは自由だった。
 最初の一週間、アメ兄は家の中にいなかった。どこかにいたのかもしれないけれど、気配がまったくしなかった。わたしが家中探し回っても、庭に降りても、彼を見つける手がかりは何もなかった。
 けれど次の週に入ると、家の中で気配がするようになった。
 アメ兄がどこかにいる。そう思って探しても、見つけることができない。足音が聞こえて追いかけても、彼の姿はどこにもない。その気持ち悪い状態が三週目にも続いた。
 そして宣言から約一ヶ月。アメ兄もいよいよ、露骨に態度を表すようになっていた。
 家の中で、わたしの横を平然と素通りする。さも当たり前のようにコーヒーを淹れて、時間になれば晩御飯の仕度をはじめる。
 それでも決して、わたしの存在を認めようとはしなかった。話しかけても無視され、追いかけると逃げられる。料理も一人前しか作らず、帰るときの見送りもない。
 居間のテーブルをコタツに変えて、庭の木々にも冬囲いをして、彼は着々と冬への備えをしている。けれど、わたしには声もかけないし見向きもしない。
 いい加減我慢の限界にきたわたしは、なにがなんでもアメ兄と接触するべく、家にこもることを決意したのだ。
 コンビニで大量のお菓子とジュースを買い込み、スマートフォンの充電器を持ち込み、折り畳み傘を持って、いざというときのために軽い着替えも準備した。明日は日曜日、帰りが遅くなっても何も問題ない。
 アメ兄の身に何が起きたのか。いったい何を考えているのか。それを知らないと気がすまなかった。
 今日は徹底的に探し回る。その決意とともに、捜索を開始する。まだ寝ているかもと淡い期待をこめて寝室に行ったけど、人生そう甘くない、空振りだった。
 朝食のサンドイッチを食べ、アメ兄のぶんは皿の上に乗せておく。時間はたっぷりあるのだから、急ぐ必要はない。
 しんと静まり返った家が不気味で、テレビをつけた。ストーブは微小。午後から雨という予報のとおり、空には薄い雲が広がっていた。
 最近、みぞれが降った。季節は徐々に冬へと移ろいはじめている。雪が降ると雨水もなにもかも凍りついてしまうため、雨のからくりも十一月が最後。けれど庭のからくりは十月のラ・カンパネラのままだった。
 月初めに変わるはずだった曲。アメ兄が大好きなからくり作りをやめるなんて、いったい何が起きたのだろうか。
 正午をまわったあたりから、家の中で彼の気配を感じるようになった。それを追いかけても、彼はすでに別のところに移動した後だった。いつの間にか仏壇にお線香があげられ、いつの間にか洗濯機のスイッチが押され、いつの間にかテレビが消されていたりする。
 さすがのアメ兄も、近寄ればわたしにつかまることを察して、同じ部屋にいようとしない。こまめに移動しては追跡をかわしていく。
「なんなのよもう……」
 そんな攻防が続くと、自分のどんくささに恨み声が漏れた。
 大きな家でかくれんぼをはじめると探すのに時間がかかってしまう。しかも相手は透明人間で、こちらの様子を見ては場所を移動するのだ。これでは鬼もお手上げ状態だった。
 家中探し回って汗をかくと、今度はストーブが弱められている。それを見て、わたしは力が抜けた。
 一時休戦、お菓子でも食べよう。一日は長いのだから、時間はまだまだあるのだから。そう自分に言い聞かせて、焦る気持ちを抑える。
「アメ兄の好きなお菓子買ってきたんだよ、一緒に食べようよ」
 今日はアメ兄の好きなものばかりだ。いちご味のポッキーも、うずまきのかりんとうも、サラダせんべいも、全部、全部、全部。
「こないとひとりで全部食べちゃうよ」
 大きな独り言をいいながら、テーブルの上にお菓子を広げる。朝食に用意したサンドイッチは乾いてレタスがしなびていた。
 ココアを飲もうと台所に行く。冷蔵庫は食料がぎっしりとつまっていて、買い物に困っている様子もない。牛乳を電子レンジで温めてコタツに戻ると、いつの間にか中が暖かくなっていた。
「……いつ来たのよ」
 どうしてわたしは気づかなかったのか。居間をぐるりと見渡しても、アメ兄の姿は、ない。
 牛乳にココアの粉を入れ、スプーンで混ぜながら溶けていくのを眺める。外は雨が降り始めたらしく、やがてからくりの音楽が鳴り始めた。
 閑散とした家の中で、ココアとお菓子を食べながらクラシック音楽に耳を傾ける。アメ兄と出会う前は知らなかった穏やかな世界を、わたしはとても気に入っている。
 けれどいま、隣には彼がいない。
 コタツの中にもぐり、わたしはスマートフォンをいじる。お母さんのお下がりのそれは電話として使うことはできず、けれどWi-Fi環境があればアプリでメッセージのやり取りができる。わたしはYouTubeを開いてお気に入りのチャンネルを開いた。
 ストリートピアノを弾く少年の動画。それは小学生の時のアメ兄だった。
 数か月に一度の面会日。彼の父親はピアノを弾く息子の姿をYouTubeに公開していた。二人で作ったチャンネルは地道に登録者数を増やしていたが、今はそれも更新されていない。
 中学生になるとアメ兄はストリートピアノでの演奏をやめた。顔を映すことを避けるようになり、そのかわり自宅で撮影した演奏の様子を公開するようになった。雨のからくり製作は自宅の場所が特定されかねないため、チャンネル登録者は誰も、知らない。
 雨の日に鳴るからくりを知るのは、そばにいるわたしだけ。
 いつもなら、雨が降るとアメ兄を外に出して、お互いずぶ濡れになりながら話をしていた。一緒にテレビを見たりご飯を食べたりして、彼がわたしの押しに負けた日は泊まれるし、お風呂あがりにまたアメ兄の顔を見ることもできた。
 今日学校でこんなことがあったんだ。来月はどんなからくりを作るの。明日テストだけどこの問題がわからないの。そんなたわいもないやりとりが、つい先日まで続いていたのに。
 どうしてわたしは拒まれてしまったのだろう。
「アメ兄のばか……」
 呟くと、目頭が熱くなる。理由がわからないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
 ただのからかいにしては、これはあまりに長すぎる。アメ兄はいつもどおりの日常を送りながら、わたしの存在などいないとでもいうように、飄々と家の中を動き回っている。
 自分は拒んでいるのだと、空気で伝えてくる。
 ほんのひと月前まで、彼は普通にわたしと話していた。不自然な様子もなかったし、晩ご飯のシチューも美味しかったし、アメ兄はいつもどおり、透明人間だったし。
 透明だったから、どんな表情だったかなんてわからないし。
「アメ兄……」
 せめて直接言ってくれたらいいのに。
 そうすれば、わたしだって彼の気持ちを受け止めることができるのに。
 わたしが中学に進学すると、同級生の男子の態度が変わった。下の名前ではなく苗字で呼ぶようになり、男女それぞれのグループで過ごすようになった。昼休みに一緒にグラウンドで駆けまわることもなく、いつかアメ兄ともそうなってしまうのかと、心の片隅で覚悟していた。
 けれどこれは、何の前触れもなさ過ぎる。突然離れろと言われても、簡単に受け入れることなどできない。
「アメ兄……」
 せめて、もう一度、姿だけでも見たかった。


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