アメイジング・レイニー・ソング③
「……ん」
いつの間にか眠っていたようだ。
涙が乾いて、目じりがパリパリする。休みの日はいつも遅くまで寝ているため、早起きには慣れていなかった。
雨はあいかわらず降り続き、からくりの音楽も繰り返されている。ぴちゃん、ぽちゃんと低い音はバケツやお鍋にたまった水に。ちん、とん、しゃんと高い音はガラスのコップやプラスチックのカップに。雨の音色だけは、いつ訪れても変わらない。
身体を起こすと、ひやりと冷たい風を感じた。換気のために窓が少し開いている。空は重い雲が立ち込め、昼間だというのにとても暗かった。
「……あれ?」
いつの間にかコタツのスイッチが切られていた。酸欠にならなかったのはそのおかげだ。テーブルに置いていたサンドイッチは片付けられ、用意したお菓子が少しずつ減っていた。
わたしが涙しながら寝ている間に、彼は居間に来ていたのだ。サンドイッチとお菓子をつまんで、しかもコーヒーまで淹れたらしい。まだ豆の香りが残っていた。
それを想像すると、わたしはだんだん腹が立ってきた。
人が一生懸命探しているというのに、逃げに逃げ続けて、そして人が眠るとこそこそと近寄ってくる。これではかくれんぼよりも鬼ごっこよりもたちが悪い。
「……絶対見つけてやる」
わたしはそう呟き、コタツから抜け出した。
探しものを引き寄せてくれる磁石があればいいのに。アメ兄の首に鈴をつけておけば良かった。このかくれんぼは、圧倒的にわたしのほうが分が悪い。
わたしのことを見てもらおうと、どんなに手を伸ばしても、決してこちらを見ることはない。わたしはここにいると叫べども叫べども、早くいなくなれとあしらわれてしまう。
まるで自分が透明人間になったような気分だ。
それが、とても辛い。こんなに冷たくされると、本当に消えてしまいたくなる。
アメ兄はいままでずっと、そんな思いをしていたのかもしれない。
「――アメ兄!」
サンダルを履くのも億劫で、わたしは裸足のまま庭に下りた。
傘なんてささない。水たまりをまたぎ芝生の上を歩くと、たっぷりと水を含んだ土が指の間に入って気持ち悪い。想像以上に雨が冷たくて、季節の変化を肌で感じた。
次第に強くなっていく雨脚が体温を奪っていく。濡れた服が肌に張り付き、歩くだけで大変だ。
目に入る雨をぬぐい、わたしは家に向かって叫んだ。
「わたし、アメ兄が出てくるまで、ずっとここにいるから!」
雨が額を打つ。身体がどんどん冷えていくけれど、そんなの一向にかまわない。アメ兄はいつも、こうやって身体を濡らしながらわたしを迎えてくれたのだから。
「どうして、こんなことしてるの?」
その呼びかけに、彼は応じない。わたしも多くを語らず、ただアメ兄が出てくるのを待った。出てくるまで、何時間だって待つつもりだった。
雨が下着まで染みるのに、時間はさほどかからなかった。上着のすそを絞ると大量の水が落ちる。このまま外にいたら凍えてしまうに違いない。
けれど、家の中に戻るつもりはない。わたしは雨に濡れる自分の両手を見た。
いつもアメ兄は、水に濡れると姿を現す。雨水を身体に伝わせて、雨が膜をはるように、消えた輪郭を浮かびあがらせていく。膜が薄くなれば姿も薄くなり、身体が乾けば消えてしまう。
わたしの腕は、どんなにこすっても拭っても、消えることはない。
消えてしまいたいと思ったところで、それはほんの一瞬のこと。アメ兄のように、本当に消えてしまうほど、強く思ったことなんてない。
だから、わたしがアメ兄の気持ちを汲むことは難しい。自分の気持ちがただの無理強いだということもわかっている。
けれど、どうしても彼と話をしなければ、この気持ちはおさまりそうにない。
「……アメ兄?」
水たまりが、かすかに音をたてた。
確かめようとする目に雨が入って、わたしは袖でぬぐう。ぼやける視界の中、庭の上歩く足音がする。泥が跳ねるたび、濡れたズボンが脚のかたちをつくっていく。降りしきる雨は頭を濡らし、肩を濡らし、少しずつ、すこしずつアメ兄の姿を現していく。
今日の彼はグレーのトレーナーにジーンズという、防寒重視の服だった。雨を吸うトレーナーは重そうで、うつむいた前髪の間からのぞく切れ長の瞳は、伏せながらも、わたしを見ている。
「……美綾」
駆け寄ろうとしたわたしを、冷たい声が制した。
「帰れ」
「やだ」
わたしの声が震えたのは、寒さのせいだけではない。いつも柔和に微笑んでいたまなざしが、まるでナイフで切りつけてくるかのように、鋭い。後ずさりしそうになる足に力を込めると、膝が震えてしまった。
「もう来るな」
「やだ」
急ぎもしないゆったりとした足並みで、彼はわたしの前に立った。手を伸ばせば触れる距離にいるはずなのに、わたしはただ立ち尽くしたまま、彼を見上げることしかできない。
「アメ兄は、どうして……」
無意識に、胸の前で手を組んでしまう。寒さをこらえて、身体を小さくして、それでも目だけはしっかりと、アメ兄を見つめた。
「どうして、わたしを避けるの?」
その問いに彼は答えない。わたしを見下ろす飴色の瞳が、なにを考えているのかわからない。
雨の強さがさらに増し、激しく打たれる手はまるで祈っているようだった。
どうして? ねえ、どうして?
そう尋ねるたびに、アメ兄の瞳が、どんどん冷たくなっていく。わたしの身体が寒さで震える。けれど身体の芯が逆に火照っていくのを感じ、背筋を伸ばして胸を張った。
「なんで家に行っても無視するの? なんでわたしのこと避けるの? わたし、アメ兄が嫌な思いするようなこと、した?」
気を抜けばへたりこんでしまいそうに足を、思い切って前に出す。一歩出せばあとはスムーズで、わたしはアメ兄に詰め寄った。
「どうして、なにも言ってくれないの?」
身長差がある。透明人間になっている間にアメ兄も背が伸びていた。少しでも近づきたくて、背伸びをして目線を高くする。
伸ばした手が触れる寸前、アメ兄が一歩、後ろに下がった。
「……帰れ、美綾」
「いや。答えてくれるまで帰らない」
はじめて、アメ兄が目をそらした。定まらない視線を泳がせながら、二歩、三歩と後ずさっていく。
「帰ってくれ、美綾」
「いやだ」
「もう来るな」
「絶対いや」
首をふって、わたしはまた、一歩詰め寄る。
「どうして? どうして、こんなことになったの?」
「帰れ、美綾」
「なんでアメ兄はこうなっちゃったの?」
「帰るんだ」
「どうしてわたしを避けるの?」
「帰れって言ってるだろ!」
怒鳴られて、わたしは伸ばした手がふるえた。
「アメ兄……」
彼はわたしの顔を見ない。こぶしを握りしめ、全身を震わせて、今まで聞いたこともないような声でわたしを怒鳴りつけた。
「帰るんだ! もう、顔も見たくない!」
彼に怒鳴られるのは初めてで、わたしはただ、震えるしかなかった。
雨が、叩きつけるようにわたしたちに降りそそぐ。大粒の雨が、視界さえも、おぼろげにしてしまう。
「……どうして?」
わたしは、ただそれを繰り返すばかりだった。
「わたし、アメ兄に何かした?」
ねえ、どうして? 怒鳴られて恐ろしいはずなのに、訊くことをやめられない。
雨にまぎれて、涙が流れる。自分は泣いているつもりなんてないのに、身体は必死に嗚咽をこらえようとしている。
どうして、どうして。わたしが何度も続けると、彼はたまりかねたように、また口を開いた。
「――美綾、が」
けれどその声は、先ほどと打って変わって、雨にかき消されそうなほど掠れている。張りつく髪をかきあげる彼は空を仰ぎ、そしてわたしを見た。
「美綾のそばにいるのが、辛くなった」
「……辛い?」
雨の音が強くて、うまく聞こえない。雨のせいで、顔も見えない。近づきたいのに、雨が邪魔をして、身動きがとれない。
アメ兄のあごを雨が伝う。肩に落ちる雨が腕を伝い、指先から滴る。目の前で見えているはずの彼の姿が、雨に溶けてなくなってしまいそうだった。
「みんな、おれじゃないおれを見てる」
だから、とアメ兄はこぶしの力を強くする。雨はひと粒ごとに冷たさを増し、皮膚が凍り付いてしまいそうだった。
「疲れたんだ。自分じゃないふりをするのが、アメ兄のふりをするのが」
彼が、一歩、下がる。水たまりに足が入ってしまうけれど、気にするそぶりも見せない。
「おれはもう、美綾と会わない」
踵を返そうとするアメ兄に、わたしはとっさに手を伸ばした。
「アメ兄……」
けれど、手が触れることはなかった。
つかんだはずの手首が、わたしの手のひらから、すり抜けてしまった。
アメ兄が消えてしまう。
雨に溶けていなくなってしまう。
そう思うのに、身体が動かない。
「アメ兄……」
彼はこのまま消えようとしている。
わたしは呆然と、その背中に呟くことしかできなかった。
○○○
いつもは鳴らさないチャイムを、押す。
もう、勝手に家にあがりこんではいけない気がした。
昨日、わたしはあのまま家を去った。自分の荷物もすべて置いたまま、ずぶ濡れになって、裸足のまま帰路についた。幸いお母さんは夜勤だったため、家には誰もいなく怒られることはなかった。
そして今日もまた、わたしは彼の家を訪れる。玄関の前で、チャイムを押して返事がするのを待つ。しばらくたっても応答がないので、また鳴らす。
家はしんと静まり返っていた。
土曜日の雨がやまず、今日も雨だった。けれど、庭からあの音楽が聞こえない。夜の間に片付けてしまったのか、からくりの姿も消えていた。
「アメ兄、入るよ?」
勇気を出して、扉に手をかける。そこでようやく、わたしは鍵がかかっていることに気づいた。
「そんな……」
鍵をかけられたら、もう、家に入れない。
このままでは、アメ兄が本当に消えてしまう。
「……美綾さん?」
後ろから声をかけられ、わたしはゆるゆると振り向いた。
「天彦くんに会いに来たの?」
「先生」
そこにいたのは大浦先生だった。手にはお菓子の入った紙袋を提げている。休日の先生はお化粧も薄く、コートにジーンズとラフな格好をしていた。
「先生も天彦くんに会いたかったんだけど、出かけてるのかな?」
「鍵がかかってるけど、たぶん中にいると思います」
それに大浦先生は「そっか」と軽く返した。玄関の前に置く紙袋には見覚えがある。
「たまにね、こうやって家を訪ねていたの。まだ一度も会えたことはないんだけどね」
わたしはアメ兄と一緒にそのお菓子を食べていた。先生が来ていたなんて、彼は一言も話していなかった。
「クリスマスコンサートの招待状、天彦くんに渡したんでしょ? 来てくれるって言ってた?」
「そう……ですね」
期待を込めたまなざしに、わたしは嘘をつく。クリスマスコンサートはおろか、つい昨日、彼に拒絶されたばかりだというのに。
「天彦くんに伝えてほしいの。卒業式のこと、誰も気にしてないからって」
「卒業式?」
聞き返すわたしに、先生は表情で「しまった」と語る。アメ兄の卒業式に出席したのは、彼が身を寄せていた祖父母の家の人で、わたしたちは何も聞いていなかった。
先生はすこしだけためらうそぶりを見せてから、やがて口を開いた。
「……天彦くんね、卒業式の伴奏を失敗してしまったの」
「アメ兄が?」
いつも軽やかにピアノを弾いていた彼から想像がつかない。卒業生の合唱の伴奏は大役に違いないが、三年間で様々な伴奏を務めた彼が選ばれるのは当然のことだったはずだ。
「最初はいつも通り弾いていたんだけど、途中から音が鳴らなくなっちゃったの。最後は伴奏が止まって……合唱はアカペラで最後まで歌ったんだけどね。天彦くん、式が終わったらすぐに帰っちゃったから」
アメ兄は卒業式が終わってからずっと、ひとりでこの家に住んでいる。高校の入学式に出席して、はじめのころは毎日通っていたはずだが、やがて休みがちになってひと月もたたずに不登校になってしまった。
そのため高校の先生とは信頼関係が築けておらず、中学校の先生たちが動いているのだろう。しかし、アメ兄が透明人間になったことを知る人はいない。
「美綾さんは天彦くんと仲がいいから、なにか聞いてると思ったんだけど……困ったことがあったら先生に言ってね。頼りないかもしれないけど、力になるから」
はい、とわたしは返事をしたけれど、それは妙に空々しい声になってしまった。
大浦先生にアメ兄ことを相談したい。けれど、なにから話したらいいのかわからない。
アメ兄はどうして透明人間になってしまったのだろう?
「……あの、先生」
「なあに?」
「アメ兄はもうずっと、ピアノを弾いていないんです」
雨のからくりは毎月新しいものを作っていたけれど、ピアノの音は終ぞ鳴らないままだった。わたしがどんなに頼んでも見向きもされず、居間のピアノは埃をかぶるばかりだ。
「わたし、アメ兄のピアノが聞きたいんです」
「待ちましょう、天彦くんが弾きたくなる日が来るまで」
うつむくわたしを、大浦先生がそっと抱きしめる。その腕のなかでわたしは小さなくしゃみをした。
アメ兄は透明人間になってから、あれだけ好きだったピアノを弾かなくなってしまった。
もしかしたら、弾かないのではなく、弾けないのかもしれない。
昨日、アメ兄の身体はわたしの手をすり抜けた。彼は物にですら触れなくなるときがあるのだ。
卒業式で鳴らなくなったというピアノ。
もしかしたら、鍵盤を叩く指がピアノをすり抜けてしまったのかもしれない。
帰宅するなり、わたしは熱を出して寝込んでしまった。
冷たい雨に打たれ続けたのだから風邪をひくのも当然だ。一晩寝込んでもよくならず、週の頭から学校を休んでしまった。
まる一日ベッドで寝込んでも、熱は下がらなかった。病院に行って薬をもらい、あとはそれが効くのを待つしかない。お母さんはどうしても仕事を休めず、病院が終わるとそのまま出勤していた。
どんなに布団を重ねても寒気がおさまらない。のどが痛くて水を飲むのも辛く、少し身体を起こしただけで頭がふらふらした。
アメ兄は大丈夫だろうか。わたしと話したあと、ちゃんとお風呂に入っただろうか。風邪を引いて寝込んでしまっても、透明人間の彼の異変に気づく人はいない。出入りを禁止されたいま、いったい誰が彼のもとを訪ねるのだろう。
朦朧とした頭で、わたしはスマートフォンのアプリを立ち上げた。
お気に入り登録しているチャンネル。流れ出すのはピアノの音色。まだすこしぎこちない指使いで、一音一音丁寧に奏でられるアメイジング・グレイス。
画面の中に、幼いアメ兄がいた。
どこかの駅に置かれたストリートピアノ。彼の演奏に足を止める人は少ない。時折音階が乱れ、それでもあきらめず最後まで弾き続ける。そんな姿を、通りがかったおばあさんが孫を愛しむかのようなまなざしで見つめていた。
演奏が終わると、幼き日の彼は椅子を降りカメラを見る。照れくさそうな表情はカメラの奥――彼の父親に向けられていた。
ユーチューブの動画が増えるたび、彼のピアノの腕が上達していく。流行りの曲ではたくさんの人が足を止めている様子もあった。時には即興でコラボ演奏が始まることもあり、大人と一緒に連弾をする少年の姿は再生回数が一番多かった。
ストリートピアノをやめ、自宅演奏の様子を流すと再生回数は減った。コメントも減ったか、それでも彼は演奏を続けた。
いつもアメ兄は、お父さんのためにピアノを弾いていたのだ。
『みんな、おれじゃないおれを見てる』
彼の声が、頭を離れない。アメ兄アメ兄と慕ってはいるけれど、わたしと彼との付き合いは短い。
幼い時に両親が離婚して、母親とふたりで暮らしていた。けれど中学生になって父親と住むことになり、そのお父さんも突然、事故で亡くなってしまった。
わたしが知っているのはうわべの話ばかり。アメ兄が抱いている気持ちを、なにも、知らない。
「――美綾、体調どう?」
熱に浮かされていたわたしは、お母さんの声で目を覚ました。
寝起きと薬のせいで頭がぼうっとする。汗で下着が張り付き気持ち悪い。お母さんは枕元にスポーツドリンクを置き、おでこの冷却シートを張り替えてくれる。
仕事は休めないけれど、心配で昼休みに戻ってきたらしい。熱で心細かったわたしは、お母さんの顔を見てほっとした。
「これ、美綾の荷物でしょ?」
お母さんがベッドの上にトートバッグを置く。それは土曜日にアメ兄の家に置いて帰ったものだった。
「どうしてここにあるの?」
「玄関に置いてあったのよ。天彦くんが届けてくれたんじゃない?」
外を見ると、週末と打って変わって良い天気だった。太陽の光が降り注ぐなか、透明人間のアメ兄はどうやってこの荷物を運んだのだろう。バッグだけ宙に浮いてしまうため、人に見られないよう細心の注意を払ったに違いない。
「わざわざ持ってきてくれたんだから、後でちゃんとお礼言いなさいよ」
食欲はある? おかゆ作っておくからね。一方的に喋って、お母さんは部屋をあとにした。
生成りのトートバッグは、彼の家に持っていったときのままだった。封を開けなかったお菓子も、携帯電話の充電器も入っている。着替えはずっと下に入れていたので、気づきもしなかっただろう。
そして外ポケットに、風邪薬が入っていた。
わたしが以前、彼のために買っていったものだ。封は切られ、中身が少し減っていた。
アメ兄も風邪を引いて、これを飲んだのだろう。もし、いまも薬を必要としていたらどうしよう。いてもたってもいられず、わたしはベッドから起き上がった。
ひとりで行く体力はない。けれど、お母さんに頼めば車を出してくれるかもしれない。一歩一歩ゆっくりと階段を下り、リビングの扉を開けると、お母さんの話し声が聞こえた。
「――そう、天彦くんのところに行ってきたの。今日は美綾の看病で仕事を中抜けしたから」
台所で、誰かと電話をしている。話題にアメ兄のことがのぼり、わたしは陰に隠れて気配を消した。
「美綾の忘れ物を届けてくれたんだけど、行き違いになっちゃったみたい。家まで追いかけたけど会えなかったわ」
アメ兄はいつ、わたしの家に来たのだろう。そう時間が経っていなかったとしても、お母さんは透明人間のアメ兄が見えなかったはずだ。
「うちは美綾がいるから天彦くんのことがわかるけど……うん、そうよね。お義母さんだって心配よね」
電話の相手は、中学時代のアメ兄を預かっていた祖母だった。祖母は耳が遠いため、お母さんは受話器に向かって大声で話す。祖母もつられた大きな声で返すため、耳をそばだてるとその会話がかすかに聞き取れるのだった。
「父親がお金を残してくれたから、生活には困らないだろうけど、天彦くんだっていつまでもこのままではいられないわよね」
「高校にも行けないで、留年したらよけい引きこもるんじゃないかい。こんな小さな町じゃ、年下の子と同学年になるのも気まずいだろうし」
「でも、高校を辞めてこれからどうするっていうの? 天彦くんはピアノの才能もあるのに、ずっと家にいるのはもったいないわ。少しずつでも社会復帰を考えないと」
お母さんは家に引きこもる甥のことを真剣に考えているようだった。アメ兄は半年以上も学校に通っていない。出席日数が足りず、留年するのは避けられないのだろう。
「あの子の母親はなんて言ってるんだい? 息子がこんなことになって、会いにも来やしないじゃないか」
「私から連絡しても電話に出ないのよ。顔を見たのもお葬式の時が最後だもの」
アメ兄のお母さんは遠い町に住んでいる。そもそも、アメ兄が父親に引き取られたのも母親の再婚がきっかけであり、親戚たちがそれを非難しているのをわたしは知っていた。
「お父さんが亡くなったときだって、天彦くんはお母さんと一緒にいたかったはずよ。私たちに預けてそれっきりなんて、犬や猫じゃないんだから」
「うちで引き取ったときも、天彦、ずっと居心地悪そうにしてたわ。しょっちゅう家に戻ってはピアノの前にいて、お母さんと暮らしていたときもずっとそうだったって」
アメ兄のピアノは独学で身につけたものだ。いくら巷にピアノ演奏の動画があふれているとはいえ、あれほど自在に操れるようになるまで、血のにじむような努力があったに違いない。
彼の年頃なら、遊びはほかにもたくさんあったはずだ。けれどアメ兄はピアノと多くの時間を過ごした。
ピアノで奏でる音楽だけが、彼の心のよりどころだった。
「天彦くんは嫌がるようだけど、やっぱり、一度ちゃんと話さないとだめよね。合鍵はお義母さんが預かってるんでしょ?」
お母さんは自分自身に言い聞かせているようだった。台所でお粥を作っていたのか、お米の炊ける甘い香りが漂っていた。
いつも静観しているように見えた大人たちだけど、裏ではいろいろ考え、そして行動もしていたらしい。そう遠くないうちに、お母さんたちはアメ兄の家に行くのだろう。
合鍵を使って玄関を開けて、家の中に入って彼の姿を探す。もちろん、アメ兄の姿は見えない。彼は突然の訪問に驚いて、家の奥に隠れてしまうだろう。
あの家を、大人は勝手に荒らすのだ。アメ兄がお父さんと暮らした思い出の家を、閉ざされた部屋を、無理矢理開けて探し出そうとするのだ。
彼の心を土足で踏み荒らすように。
「……アメ兄」
わたしは見たくない。アメ兄が傷つく姿を。
心を暴こうとすればするほど、彼の身体は消えてしまうのかも知れない。
○○○
お昼ご飯のおかゆを持ってきたお母さんは、もぬけのからになったベッドを見て驚いているに違いない。
わたしはパジャマ姿のまま、サンダルをひっかけてアメ兄の家へと歩いていた。
まだ熱が高いはずなのに、ふらつくことなくまっすぐ歩いている。頭痛も、のどの痛みも、だるさも、まったく気にならない。人間、何かに意識がいくと他のことは忘れてしまうようだった。
町営団地の並びを抜けて、住宅街を歩くとやがて現れるのがアメ兄の家だ。築年数はわたしやアメ兄よりもうんと年上で、雨樋にからくり装置を取り付けられても、住人が透明人間になってしまっても、そのすべてを受け入れてくれる懐の広さがわたしは好きだった。
玄関には鍵がかかっている。庭にまわると、縁側には雨水をためたバケツや鍋だけが残っている。水に手を入れるときんきんに冷えていて、熱でほてった身体に心地よかった。
縁側の窓は換気のために開いていた。玄関の鍵が閉まっている以上、家の中に入る手段はこれしかない。わたしはすこしの罪悪感を抱きながら、サンダルを脱いで縁側に上がった。
「――アメ兄」
静まり返った家の中で、そっと、呼びかける。
もちろん、返事はない。居間のテレビは消えているけれど、からくりのノートやコーヒーのカップがそのまま放置されていた。彼はつい先ほどまでこの部屋にいたのだろう。
息を潜めて気配を消して、空気に同化して、この家のどこかでわたしを見ている。万が一見つかったとしても、また、わたしのことなどいないものとして振舞うに違いない。
もう一度、アメ兄を探そう。
そして、ふたりだけで話がしたい。
わたしは部屋の真ん中に立ち、部屋の中を見回した。
まず、座布団の上に彼はいない。座っていたら、その部分だけ体重で凹んでいるはずだから。こたつも同様で、布団に乱れもない。窓から風が吹き込んで、淹れたばかりのコーヒーの湯気が揺らめいていた。
どうしたら彼の姿を探せるのだろう。熱でぼうっとする頭を、冷やした手のひらで叩き起こす。
首をまわして、テレビのほうを見る。その横には火がついたままのストーブ。窓からさしこむ太陽が、毛足の長い電気カーペットに降りそそいでいる。
身体をひねって、食器棚へ。アメ兄とお父さんの写真がそこに飾られていた。それは中学の入学式の写真で、すこし緊張した面持ちのアメ兄と優しく微笑むお父さんが並んでいる。長い間離れて暮らした二人は、写真らしい写真をほとんど残していなかったのだろう。
この家に残る、アメ兄とお父さんの思い出。わたしが知らない時間が、二人の間を流れていたはずだ。
ぴちゃん、と音がして、わたしは縁側を振り向いた。けれど、晴れた日にバケツに落ちる水などないはずだ。少し考えてから、その音が台所から聞こえることに気づく。コーヒーを淹れたときに、蛇口を締める力が甘かったのだろう。
ぴちゃん、ぴちゃん、と一定のリズムで鳴る水音。メロディにはならない、ひとりぼっちの音。わたしはそれに耳を澄ませ、テーブルに放置されたからくりのノートを開いた。
庭のからくり装置はすべて片付けられていた。けれど、彼は十一月の曲の準備をしていたはずだ。複雑な設計図は音階がわからないけれど、彼が楽譜のかわりに数字をふっているのは知っていた。
居間にたたずむアップライトピアノ。レースのカバーを外すと、積み重なっていた埃が舞う。差し込む光が埃をキラキラと照らし、わたしはそれに誘われるように鍵盤の蓋を開けた。
ぴちゃん、ぴちゃん。その音を探して鍵盤を叩く。
ぽちゃん、ぽちゃん。ノートに書いてある数字のリズムを探す。
鍵盤を叩くと、ぽーん、と音が鳴った。アメ兄は調律が狂っていると言っていたけれど、わたしにはその違いがわからない。あてずっぽうで、ノートに書いてある数字を鍵盤に起こした。
そして、ふと、わかったような気がした。
椅子に座り、わたしは小さく深呼吸をする。ぴちゃん、ぴちゃん、と台所の水音がリズムを刻む。そのメトロノームに合わせて、わたしは両手を鍵盤の上に置いた。
最初の音はド。その次はファ。ドファファ、ラソファラ。それは音楽室の楽譜を見て、少しずつ少しずつ覚えていった音階だった。
たどたどしいメロディにあわせて、わたしは口を開いた。
「――アメイジング、グレイス」
Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me!
音楽室にはアメイジング・グレイスの楽譜があった。中学生になって英語の授業がはじまり、わたしは英語の曲を歌えるようになった。勉強して、その歌詞の意味を知ることもできた。
アメイジング・グレイス なんと甘美な響きよ
私のような愚かな人間を救ってくださった
I once was lost but now I am found
Was blind, but now I see.
自分を見失っていた時期もあったが
見えなくなっていたものも今は見える
賛美歌として知られるアメイジング・グレイスは、かつて奴隷商人だった男性が作った歌だった。船で奴隷を輸送していた男性は、嵐に巻き込まれ船が沈みそうになるが、神に祈り続け浸水がおさまり、運良く軟を逃れることができた。心をあらためた男性は奴隷商人をやめ、そしてこの歌を作ったのだった。
アメイジング・グレイス。これはアメ兄のお父さんが好きな曲だ。
そして、お父さんが亡くなったのもまた、季節が冬へと変わる寒い日のことだった。
十一月のからくりはきっと、この曲を奏でようとしていたに違いない。ピアノが弾けなくなった自分のかわりに、雨のからくりで父親へ曲を届けようとしたのだ。
「アメイジング、グレイス」
ピアノの指はすぐに止まってしまった。やはり、アメ兄のように弾くことはできない。わたしはかわりに、わたしは声でメロディをつないが。
アメイジング・グレイス。どうかこの歌が、アメ兄に届きますように。
アメイジング・グレイス。傷ついたアメ兄の心が、救われる日が来ますように。
歌詞もすべては覚えていない。最後は結局ハミングになってしまう。手を止め、わたしは立ち上がって歌った。
合唱をやっていると、立って歌った方がしっくりくる。縁側の窓を開け放ち、新鮮な空気を取り入れながらハミングを続けた。
外は良い天気だ。今日は雨も降りそうにない。けれど縁側のバケツの水は相変わらず冷たくて、これが凍り付いてしまう日も遠くないだろうと思う。
わたしはハミングを歌いながら、そっと、バケツを持ち上げる。
そして狙いを定めて、ピアノに向かってバケツの水をぶちまけた。
