「意思疎通できない殺人鬼」はどこにいるのか?
7月19日に公開された藤本タツキの漫画「ルックバック」は傑作だった。CSM以来の藤本ファンとしては、この作家の底知れない引き出しの多さに驚愕したし、予告されているCSM第二部への期待感がいやがうえにも高まった。とはいえ、私は自分がこの作品のほんとうの素晴らしさを理解できているとは思わない。本作は「漫画家についての漫画」であると同時に、これまでになく藤本の個人史を投影したとおぼしい作品だ。それゆえ、実際に漫画制作に関わった経験のある人ほど、その素晴らしさを深く理解できるであろう。
私は特に物語後半の「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」という問いかけに続く無音のシークエンスがことのほか好きで、そこだけ何度も読み返している。藤野のネームを読んだ京本のうれしそうな笑顔、涙ぐむ京本にティッシュを渡す藤野、ただ京本を喜ばせたかった、という想いが画面全体から溢れ出してくる。藤本作品は良く映画的、と言われるけれど、ここは再読(ルックバック!)が容易な漫画にしかできない見事な表現だと思う。
本作の後半に、多数の命を奪ったとされる「通り魔」が登場する。私は本作の類いまれな傑作性を十分に認めた上で、この「通り魔」の造形には一抹の不安と懸念を覚え、以下のようにツイートした。
「ただし1点だけ。やむを得ないとは思うけれど通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ。」
何がステレオタイプかについて、はっきりした定義があるわけではない。印象論と言われればそうかもしれないし、精神科医という職業柄、この種の表象に過敏になっているのかもしれない。それでも通り魔的に無差別大量殺人を犯したと報じられた人物が、「独語のように幻聴を示唆する言葉」を呟き、「自分の作品を盗まれたという被害妄想らしき言葉」を口にしていれば、このひとは「意思疎通が不可能な狂人」であろうと推測してしまうのは、かなり自然な反応ではないだろうか。他の人物造形が繊細かつ入念になされているだけに、なぜここだけ、ひどく凡庸な狂気のイメージが置かれたのか、それが不可解だったのだ。ステレオタイプ、というのはそういう意味のつもりだった。
このシーンは藤野の想像であり、藤野の個人的偏見が投影されて生まれた表象なのだから、犯人の解像度も一段階低く描かれているし、「あえてのステレオタイプ」なのだ、という解釈もあり得る。しかし私には、現実のシーンとしては離人症的なアンリアルさ、夢想のシーンとしては妙な生々しさ、があるように感じられた。さらに言えば、この場面は藤野と京本が出会わなかった世界線で“実際に”起きたことであり、だから京本は(小学生の)藤野テイストの四コマを描いて(描けて)、藤野はそれを「こちら側」で受けとって持ち帰った、とも読める。さまざまな解釈を宙吊りにするような巧妙な仕掛けだ。だからこそ私は「空想の産物だからしかたない」とは思わない。
※ 余談ながら藤野が「あちら側」の京本から受けとる4コマでは、京本が助かって藤野が致命傷を負うがそれに気付いていないというオチがつく。自分のせいで京本が殺されたと思い込んでいた藤野にとって、この4コマは自責感を大いに慰撫してくれたであろうことは想像に難くない。また、だからこそこの京本の4コマは、藤野の自立と新たな出立のための餞となったのであろう。
この通り魔の人物造形だけは、これまでさまざまなフィクションの中で繰り返されてきた、かなり凡庸な狂気のイメージだ。強いて言えば「統合失調症」が一番近いだろう。断っておくが、これは「診断」ではない。診断のいかんにかかわらず、私はこのような言動をする患者に会ったことはないし、ここに臨床的なリアリティは一切ないからだ。私の専門性は、ここではアンチスティグマに向かう態度として発動されている。私はむしろ一人の漫画ファンとして、これは漫画的に誇張された精神障害者のステレオタイプだ、と判断したのである。
頼まれもしないのに診断を下す精神科医が差別を再生産している、という批判もあった。私自身は、これまで本作を直接に統合失調症と結びつけた発言は一度もしていないのだが、そう言いたくなる気持ちは分かる。しかしもう一度言うが、私は別に医師として「診断」をしたわけではない。ただ、このすばらしい傑作の中に、ここだけ妙に類型的な「狂気」の描写が出てきたので、強い違和感を感じたのだ。もちろんこれも主観ではある。ただ、読んだ直後にそうした感想を抱いた者が私だけではなく、当事者を含め少なくなかった事実は無視しないでもらいたいと思う。
それにつけても残念だったのは、何人かの当事者が勇気をふるって抗議の声を上げたのに、「そういうとこだぞ」といった心ない反応が多かったことだ。「そういうとこだぞ」という言葉は「発信されてもいないメッセージを勝手に受けとっている時点で病んでいる証だぞ」と言いたいわけだ。なるほど、もし彼らが「この漫画は“私”のことを批判している」と主張したのなら、それは確かに妄想的な思い込みの可能性があるだろう。しかし当事者が言いたいのは「本作の通り魔の描写は“私たち”を差別している」という主張であり、ここには——議論の余地はあるとしても——合理的な根拠がある。「そういうとこだぞ」という反応には「患者が合理的に考えられるはずがない」「稚拙な論理の穴を突いてはずかしめたい」「そもそも患者の妄想語りなど訊くに値しない」という三重の差別意識がこめられているように思う。こうした反応を見るにつけ、果たしてこの社会においてアンチスティグマ運動が実を結ぶ日が来るのだろうか、という無力感にうちひしがれる。
私自身は、患者から暴力を振るわれる経験はこの三〇年間で数回あるが、それはいずれも強制的な入院措置の場面だったりとか、こちらが患者に恐怖を与えてしまったような場面に限定される。思い当たる理由もなしにいきなり殴られたりしたことは、当然ながら一度もない。精神障害者の犯罪率がどうのといったトリヴィアルな議論はここではやめておくが、精神障害を持つ患者一般が凶暴だったり暴力的だったりするというのは典型的な偏見のひとつであることには注意を促しておきたい。
統合失調症ではなく薬物依存症の可能性もあるではないか、との指摘もあったが、それは論点のすり替えですらない。依存症の専門医である松本俊彦氏も指摘するように、覚せい剤依存症患者でもこのレベルの症状はきわめてまれだ。薬物依存であっても問題の本質はなんら変わらない。
テレビ朝日系の人気ドラマ『相棒 Season17』の「シャブ山シャブ子17歳」登場回(2018年11月7日放送)は、現在欠番になっている。その理由を覚えておられるだろうか。突然あらわれてハンマーで刑事を殺害し、奇声を上げて高笑いするという、覚せい剤依存症患者のステレオタイプな演出が批判されたためだ。
私は放映直後にこの演出を批判したものの一人だが、批判の声が上がるまでは、この女優の演技は「迫真」のものとして、雑誌記事などで絶賛されていた。しかし繰り返すが、迫真と言いつつそこに実体はない。彼女が演じようとしたのは「私たちの幻想の中の覚せい剤依存症患者」の表象、つまりステレオタイプだったのだから。
漫画や映画を制作し消費する人々が漠然と信じている「意思疎通不可能な殺人鬼」なるものは、ほぼ実在しないと言って良い。にもかかわらず、あのような表象が「迫真」「鬼気迫る」などと評価され流通していく過程の中で、見てきたような私たちの幻想(ステレオタイプ)は強化され、偽の記憶が定着していくのである。
そんなことまでうるさく言い出したら作品なんか作れない、という意見には賛同できない。映画に関して言えば、いまやほとんどの作品が精神障害者を含むマイノリティへの偏見描写抜きで魅力的な悪を描き、理不尽な暴力を描こうとしている。PC (Political Correctness 政治的正しさ)が過ぎればフィクションが貧しくなると言う説にもくみしない。例えば野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』には、実在した犯罪者などを下敷きにしつつ、現実にはありえないほど誇張されたキャラの変態的殺人鬼が何人も登場する。いわゆる伝奇的手法(ただし狭義の)というものだ。にもかかわらず、徹底した取材とゆきとどいた配慮によって、PCには1ミリも抵触することなしに、手に汗握る変態暴力宝探しを展開し続けている。
※ 映画やドラマのスティグマ性については、欧米の方が遙かに厳しいチェックが入る。アメリカでは2000年にABCで放映された精神科救急病棟を舞台にしたドラマ「ワンダーランド」の演出がスティグマを強化するとする抗議が殺到し、2話で放映が中断されている。また、以下の記事では、映画「ジョーカー」の描写が精神疾患と暴力性を結びつけるとして批判されている。さすがに「ジョーカー」については私ですら「言いがかり」と言いたくなるが、真の意味でPCを実現するには、日本人には過敏とも映るほどの批評性が必要となるのかもしれない。
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