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神の御心に沿って生きるために③ ―怠惰の心―:M.F

神の御心に沿って生きるために、その妨げとなっているもの、もう一つは怠惰の心のように思います。
私にとってそれは、神の御心に沿って生きようとしない、そのもののことでもあります。
「ちょっとぐらいいいじゃないか」「もう少しあとでやろう」「面倒だな」、そうやって自分にいろいろ言い訳をしながら、物事を自分勝手にいい加減にだらだらとやっている。
結局は後で自分にかえってくるのに。
やることが後でどんどんプラスされていくだけなのに。
自分中心の我で動けば、結局結果はその分マイナスになるのに。
どうして流されてしまうんだろう・・
そうやってずーっと生きてきたから、なかなか抜けられないのかもしれない。
それがカルマであり、自分の弱さであると思うが、考えてみればなんて愚かなことをやっているんだろうと思う。
神の御心に沿って、自分を神のところに置いて行えば、最も良い方向に進むのに。
神の御心に沿って進むことが、最大の愛と調和と幸せにつながるのに。
いつの間にかそこから離れてしまって、ぐるぐると同じところをまわっているように感じます。

そんな自分のいたらなさを感じている時に、玉光神社の本山博初代宮司の「中」の教えを読みました。
「中」の大切さがとても心に響きました。

 本当の「中」とは、自己を主張する、つまり、自分だけが、あるいは自分の家族だけがうまく成り立っていこうというのでなくて、自分や家族もその中で生きている社会全体がうまく成り立つように動くことです。
 それはどんな些細なことの中にもあると思うのです。例えば道を汚している紙屑を拾うとか、道端でひっくり返っている自転車を起こしておくといったことも、やはり「中」ですね。まず自分のことを考えるのを止めて、自分の周りに住んでいる人たち全体が、皆、調和して平和にそれぞれ動いていけるように心がけたり、考えたりしながら行為をする、それが「中」だと思うのです。

本山博『啓示された人類のゆくえ』宗教心理出版、1993年、pp.54-55

ここで言われる「中」ということを考えた時に、
この「中」の状態に自分をおけば、
自分にも他人にも偏ることなく、そして両方がつながっているところ、そこで動くことができる。 
すべては神であり、よって自分でもあるから、両方が成り立つように、すべてが成り立つように動くことが、本当の愛であり、おのずと調和がもたらされるものだと思います。
でもなかなかそこに自分を置き続けることができない。難しくて怠惰の心が出るのです。 

玉光神社の行事として、月に一度「世界平和の祈りと瞑想」を有志で行っています。
(玉光神社の経典と般若心経をお唱えして世界平和を祈り、その後、心を神様に向けて瞑想をしています) 
玉光神社の信徒も信徒でない人も、宗教の枠を超えて、世界平和は誰もが希望することだと思いますし、そこでは皆が心一つにつながれるように思います。
その世界平和を祈る時にも思うのは、
怠惰な心になって、特に家族にはついわがままが出て、神から離れて自分勝手になることも多いけれど、
まずは一番身近な家族に対しても「中」であることがとても大事で、
世界平和はやはり身近な家庭平和から始まるのかなと。
子供と口喧嘩をしていてはまだまだだなと。
家事でも、怠惰な心で面倒くさいなと思いながら使ったお茶碗を洗うのではなく、物にも神が宿っているのだから、感謝しながら洗うことができるような、、
そういうことから少しずつ広がって、
町を歩いている時に、突然ぶつかって謝りもしない人がいても、
「中」を得れば、イライラせず赦すことが出来るようになる。
初代宮司が、どんな些細なことのなかにも「中」はあると言われているように、そういう小さなことから世界平和も始まるのかもしれない。
祈りと行と超作がひとつにつながって、
一人一人が「中」を実現し生きることが出来るようになっていったら、その一人一人から少しずつ周りに広がって、平和の波が伝わっていくようにも思います。 

いつもその「中」にいる努力を続ける、
それが、神と一つになり、神と共に行動し、神のために働くことにつながっていくように思います。
そのために怠惰な心で、「もうちょっと先でもいいかな」などと思わずに、
日々努力を惜しまず、
常に「今」であり、「今」がすべてをつくっているということを心に刻みながら、神の御心に沿って生きていきたいと、つくづくそう思うのです。